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自分の書くものにはなくて本にはあるもの

小説を読んでいると、気付くことがあります。それは、「情景」が自分の書くものにはあまりに少ないということ、それに、固有名詞ばかり使っているということ。

ここ最近読んだ作家さんで言うと、恩田陸さんの「蜜蜂と遠雷」はすごかった。個性ということばを説明するのに、こんなに情緒たっぷりに語れるというのが、とてもすごいなぁと思う。

しかも、凄いのは、やっぱりどんな道具を使っても、マーくんの演奏にはマーくんのサインがある。べったりした署名じゃなくて、これがマーくんの演奏なんだなって分かる。きっとそれが本物の個性なんだね。それは希釈され拡散し、元の姿をとどめなくなり、誰が原型であったか分からなくなって忘れ去られても、どこかにその香りは、手触りは、エッセンスは残るのだ。

「蜜蜂と遠雷」/ 恩田陸

つまり個性とは「希釈され拡散し、元の姿をとどめなくなり、誰が原型であったか分からなくなって忘れ去られても、どこかにその香りは、手触りは、エッセンスが残ること」ということ。個性なんてことばを使わなくても、体感してしまう。

あとは、よしもとばななさん。彼女の書く文章を読み終わった後、いつも「何てことない毎日ってどうしてこんなに幸せなんだろうね」と感じます。直接ではなく間接的に、じんわりと感じさせてくれる文章が良いなぁと思います。

なんてことがないことってなんてすごいことなんだろう。日常こそがすばらしいとか、普通のことこそが尊いとか、いろんな言い方があるけれど、そういうことではないのだと私は思った。人生の特別な一日にジャンプするためにはどうしたって、この確かに積み上げた土台が必要なのだと。

「サーカスナイト」/ よしもとばなな P238

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それに比べて、自分の文章の浅ましいこと。固有名詞ばかり使って、その言葉を使わないで、どうやってその様子を説明するのかをしていきていないことに、やっと気がつきました。情報をただそのまま書いているだけでした。

そう思ったきっかけの記事はこれ。

「原稿から固有名詞を省いたのが、君の作品だ」という言葉がある。それを徹底していたのが星新一さんであり、登場人物の名前すら決められていなかった。脳内に生まれる物語を純粋に描くことができる作家は、人々のバックグラウンドの理解のために「池袋西口」などの固有名詞を使うことがあるが、それは物語を進みやすくする道路標識のようなものだからいい。固有名詞が作り出した価値に相乗りしたくない潔白な人だけが作家になる。

作家になりたいわけではないのだけれど、何かを語るときに、情景を思い浮かべて、それを固有名詞を使わずに書けるようになったら、自分を褒めてやりたいなと思います。

(Photo by Aga Putra on Unsplash)

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