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コンビニからエロ本が消えるということ



東京オリンピックに向けた政策の一つでしょうか、コンビニからアダルティーな雑誌が一掃されるとのこと。

いや、建前はわかるよ。
健全ニッポン!
18禁は公共の目につかないようにしよう、と。でもね、規制を決めたおっさんたち、よーく思い出してみろと。

コンビニでエロ本を買うというアクトは男にとって誰もが通るミッションであり、大人になるための通過儀礼でもある。

張り詰めた緊張感のなか、冷静を装ってブツを手に取りレジへ向かう。ブツだけ持っていくのはあからさま過ぎるので、ちょっと店内徘徊してるフリをしてみたり。で、レジでの店員との対決へ向かうわけですよ。ヘタれて他の雑誌の間に挟んで偽装工作してみたり、でもそんなのは店員のおっさんにはお見通しでわざと見えるように置かれたりして。それで苦労して手に入れたブツは、ある種の戦利品のようなもの。

規制規制正義を振りかざすのはけっこうだけど、いやお宅らも昔は通ってきた道でしょう、と。それで何が得られたかというと、経験でしょう。

スマホ一つで無修正のアダルト動画が簡単に観られてしまう現在、目に見えるコンビニのエロ本を撤去してやってる感を出したいだけの政策にどれほどの効果があるのか。

私が中学生の頃、街中から少し離れた峠にアダルトビデオの自動販売機があったんですよ。

友人の家に10人くらい集まり、作戦会議をたてました。昼間は人目につくからヤバい、夜に誰か買いに行こう。入手できたら日替わりで順番にまわしていこう。1本1000円やから1人100円ずつな!買いに行ったやつは一番に観られる権利を持つ。で、誰が買いに行く?

で、そこで普段目立たない大人しい子が俺が行くわ!と男気をみせだしたりして。夜中に自転車で山中に突撃してブツをGET。翌日、これまでさえなかったやつが一躍ヒーローになってるわけです。まあエロのパワーは偉大なんですが、なんというか得も言われぬ一体感みたいなのがそこにはあったわけで。

好奇心は行動力を生み出します。

本数が増えてくると日替わりで皆がローテーションさせるのですが、先生に見つからないように隠語を使ってヤクの引き渡しさながらの取引が校内で行われるようになったり。日々の平凡な生活のなかにアクセントをもたらしました。そりゃ大いに盛り上がりましたよ。

これらの経験は、アダルトビデオが猥褻物という範疇だけでなく、一種のコミュニケーションツールとして確立していた証です

くさいものに蓋をするだけでは、根本的なことは解決しません。それどころか、悪い方悪い方へといってしまう可能性すらある。

仲間内で1冊の控え目なエロ本を囲んでキャッキャウフフとコミュニケーションを取っていたのが、各々が自室でスマホを使って無修正のアダルトコンテンツを視聴する。どちらが有害なのか。

最近ではアダルト雑誌の規制も厳しくなったと聞きます。
しっかりと審査されてルールの範囲内で発刊されたものの方が、ウェブに転がっている無法地帯なアダルトコンテンツに足を踏み入れるよりよっぽど信頼できる。

経験というものは、選択肢があってこそ積めるものであって、これは良い物悪い物と認識するためには直接触れる必要があると思うんですよね。

朝っぱらからエロについて何を熱く語ってるねん、と自身に突っ込みたくなりますが、挙げるべきところで声をあげておく必要があります。

やってる感、これを出したいがために犠牲になるものごとがここ最近多すぎるような気がします。こんなことならオリンピックなんてやらなくていいんじゃないかと。

そりゃお偉いさんたちの威厳と懐は満たせるかもしれませんが、その代償は誰が払うの?
やってる感出すための無駄な見せかけの取組こそ規制すべきではないかと思います。

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