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写真を撮る理由

 何かものを作ったり、表現活動に携わる人たちに昔から憧れていた。ミュージシャンや作家、デザイナーなど、いわゆる自分の「作品」というものを持つ人たちだ。

 自分もそうなりたくて、ギターを始めてバンドをやったり、絵を描いてみたり、建築を学んだり、デザインの学校に行ってみたりしたけれど、どれひとつ、何ひとつ続けることができなかった。ほんとうに、何ひとつかたちにすることができなかった。

 それでも、「ものを作る人、表現活動をする人」に対する憧れは未だに自分の中に厳然と存在していて、そのための手段を常に模索してきた。

 最近になって、「写真を撮ること」が、今の自分にとっての「もの作り、表現活動」なのではないかと思い当たった。自分は写真が撮りたいから撮っているのではなく、「もの作り、表現活動」の手段として写真を選んでいるだけなのではないかと。

 自分にとっての「写真を撮る理由」をあらためて考えてみると、自分がもっとも興味・関心を抱いているのは、写真を撮るという行為そのものではなく、それを通じて何が生み出せるのかということだった。作る過程ではなく、それを通じて自分の中から何が出てくるのか、その結果に最大の関心がある。

 つまり、自分は「表現活動、作品づくり」のひとつの手段として、今はたまたま写真を選んでいることになる。

 もちろん、メカニカルな機器としてのカメラそのものや、写真を撮るためにどこかへ出かけること、そして写真を撮ることを通じて生まれるコミュニケーションや自分の中に潜っていくような感覚ももちろん好きだし、自分にとってすごく意味のあるものだ。
 でも、写真を撮るためのいちばん深い、根っこの部分の動機・モチベーションになっているのは、「何かしらの表現活動、もの作りに携わりたい」という欲求だ。

 だから、変な気もするけれど、自分はきっといつか写真にも飽きてしまうんだろうなというはっきりとした自覚を持ちながらやっている。今はたまたま写真がいちばん自分にフィットするから続けているけれど、他に何かもっと興味を惹かれるものが出てきたら、きっとそっちに移ってしまうんだろうなと思う。基本が飽き性なのである。

 写真を撮るための理由なんて千差万別で、そこに良い・悪いもない。大切なのはどんな写真を撮ったか、そしてその写真を見た人がどう思うかだと僕は考えている。そして願わくば、自分の写真を見た人に何かしらポジティブな影響を与えられるようなものが撮りたいと。

 今のところ自分なりに楽しんで写真を撮っているし、写真を撮るようになって自分が変わったようにも感じる。もしかしたら何十年後も同じように写真を撮っているかもしれないし、来年にはやめているかもしれない。
 先のことは分からないけれど、今の自分にとって写真を撮るということはどういうことなのかということを、まとまった文章にして残しておきたかったので書くことにした。

 結局のところ、自分はいくつになっても憧れをやめることができないでいるだけなのかも知れない。でも、それでもいいじゃないか、と思う。今までもそうだったように、これからも自分の中にある憧れに忠実に、誠実に生きていきたいと思う。

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