ひつまぶし
「人生は死ぬまでのひつまぶし」。
どこぞの名古屋人の言葉だか知らんが、名言である。
熊本生まれ神奈川育ちダサそな奴は大体友達な俺はじめ、多分みんなにとっても真実だ。
もっとも、言うまでもないが、単に生き物として生きていくだけなら「ひつまぶし」はいらない。
もちろんウナギはうまいが、食わないからといって死なない。
例えば庶民の味方「たまごかけごはん」。
そんなくらいのもので、毎日普通に生きていける。
そこに「海苔」でもトッピングしてみたまえ。
「TKG featuring Nori」。
ささやかなチェケラ飯の爆誕だ。
そんなもんで我々は日々命のバイブスを十分にぶち上げて生きていける。
はずだ。
そう、「ひつまぶし」など必要ない。
そのはずだ。
はずなのに。
どうだろうか。
我々は「ひつまぶし」を食っている。
毎日のように。「TKG」に飽き足らず。
なんのために「ひつまぶし」を食っているのかって?
それは「ひまつぶし」のためである。
思い返してみろ。
俺もお前も、生きていくのに困らないだけの食い扶持は十分ある。
にも拘わらず、酒やたばこなどの嗜好品や贅沢品を消費しまくっている。
風雨をしのぐに十分な家があるのだからそこでお茶でも飲んでじっとしておればいい。
にも拘わらず、サブスクやアプリにしこたま課金したかと思えば、様々なエンターテインメントや楽しみを求めて外に出ていく。
そんな有様だ。
しかも、だ。
必要もないのにわざわざ自分から始めた「ひまつぶし」に、大体がすぐに飽きて退屈したりしている。「思ったよりも楽しくなかった」とかなんとか言って。
そうでなければ、自分より楽しそうなヤツを見てむかついたり、最悪、直接にディスったりしている始末。
あるいは、「ひまつぶし」以上の意味など存在しないとわかっているのに、「これに何の意味があるのか?」と、今更無駄に自問してみたりする。
まったく、愚かである。
どこぞやの先生が言っている。
「人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだということである」(パスカル著、前田・由木訳『パンセ』中公文庫、p.92)
まったく、その通りだ。
多分、この先生は名古屋人だろう。
さあ、今日はどんな感じで「ひつまぶし」を食おうか。
「ひまがつぶせているだけマシ」といって、それなりにおいしくいただけるかな。
少なくとも、隣の席で俺よりうまそうに食っているヤツを殴らないようにはしたい。
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