誕プレは現ナマで。

誕生日の「お呪い」

先月末、39歳になった。

が、何もない。

かといって38歳になった時に何かがあったかと言えば何もなかった。
ましてや、35歳や30歳という「キリ番」に何かがあったかと言えば当然、何もない。

ただ、自分的に「バースデー・イズ・ナッシング」でも、祝われてしまう場面はある。

今「祝われてしまう」と打っていて、「呪われてしまう」と頭のなかで自ら読み間違えてしまった。

が、あながち間違いだとも思わない。
祝ってくれる人に対して失礼な話だが。

でも、「歳をとる」というのは、どういうことだろうか。

生物の自己保存の本能からすれば少なくとも最も忌避すべき「死」。
「歳をとる」というのはそれに刻々と近づいていることなのであって、「誕生日」とはそのことを否が応でも自覚させられることではないのか。

それを「おめでとう」とは、何事か。

ところで、さっきは「何もない」と言ったが、実は結構色々あるぞ。

前年より、確実に体は弱っている。
体力だってなくなってきているし、健康診断の結果も悪くなっている。
もちろん不摂生と言われればそれまでだが、同じ不摂生でも20台と30台では体への「効き具合」が全然違う。ましてや40台や50台では、、、想像もしたくない。

「誕生日」とはそんな自分の「衰え」をわざわざ自覚させられる日だ。

そしてそれを自覚すると、ますます現在および将来が不安になり、心まで病む。

そうでなければ、毎日結構それなりに楽しくしているはずなのに。
全く、「ハッピーバースデー」とかいう呪文で水を差さないでほしい。

んま、でもさ。
お祝いに対して「ありがとう」の一言くらいは言うよ。
「39」、「サン・キュー」だし。俺もオトナだし。

日頃の感謝を伝えよ?

「いやいや、まてまて」という人がいるだろう。
「誕生日は、必ずしも何もテメーのため、テメーが祝われるためにあるわけでもないんだ」と。

「誕生日はな、テメーが無事にこの一年、日々やってこられた、生きてこられたことを噛みしめ、支えてくれた人たちに感謝するための日でもあるんだ。お父さんお母さん、兄弟、家族。あと友達とか。」と。

よくそうおっしゃる人がいらっしゃいますなぁ。
はいはい。

しかし、誕生日が果たしてそういう身近な他者に「感謝」を伝える機会として「戦略的に適切か」といえば、そうは思わない。

仮に今日、テメーの誕生日だとしよう。

テメーの手には、友人にもらった高級「誤ディ婆」や、「婆ー婆痢ー」のハンケチーフ、交際相手にもらった「媚豚」の財布がある。
誕生日、テメーは既に、親にもらった「口淫ー痢」に我が物顔で乗っているのだ。ちなみに「口淫」は「フェ●」と読む。

そこでテメーの口からは「ありがとう」の感謝の言葉が発せられる。
もちろん、テメーは心底純粋に、「友情」だとか日頃注いてくれている「愛情」だとか「産み育ててくれたこと」に対して、その言葉を発する。

しかし、相手や周囲は必ずしもそうは思わないかもしれない。

それは、テメーがその場その時に数々のブツ、つまり「誤ディ婆」、「婆ー婆痢ー」、「媚豚」、そして「口淫ー痢」を受領してしまっているからだ。

テメーの純粋な「ありがとう」は、誕生日にそれらのブツをもらってしまっている以上、どうしても、あくまでも「ブツをくれてありがとう」になってしまうだろう。
つまり、純粋な「感謝」をきちんと誤解なく伝えるには、誕生日は少々「分が悪い」のである。

んま、でもさ。
もちろん何かもらえばちゃんと「ありがとう」の一言くらいは言うよ。
39歳になった、オトナな僕ゆえ。

しかしながら、そもそも、だ。

「誕生日」という一年に一回だけのお祭りを開催しないと、表現できない程度の感謝なのであれば、わざわざ感謝などしなくていいのではないか。

一年は365日ある。
日頃の感謝は、文字通り「日頃から」、日常の中できちんとするように心がけたほうがいい。
いずれにせよ、「ブツ」がテメーの手中にないときのほうが戦略として効果的だ。

ところで、誕生日の是非はともかく、僕もなにか「施し」を受けること自体はやぶさかではない。もう半月以上過ぎているけれども。

でも、できれば「ブツ」ではなく「カネ」にしてほしい。
そう、僕は、「ミニマリストなのに、キャッシュレスの時代には断固抵抗する異端児」。
人間は多面性があるから面白いのだ。

とにかく「カネ」さえあれば、来月の血液検査が受けられる。
よろしく。

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