「初等科数学科教育学序説~杉山吉茂教授講義筆記~」で読む算数教育の諸説その 2

 「わり算の意味」(p.128~)のところで,改めて読むと私の中でちょっと引っかかる話があった。

 包含除と等分除とどちらが易しいか,という議論を,いくつかの具体例で検証していく部分(p.130-)。基本は,先日も書いたとおり「子ども目線」で展開していく。例えば具体物の操作を通して「32÷8」を考えるとき,32個のものを 8 等分するより,32個のものを 8 個ずつ分ける方が,子どもにとって操作しやすいという。

 「でも、具体物を 8 等分するのも難しくないという人もいます。(中略)トランプを配るように、 1 個ずつ、 8 つの位置においていけばよいからです。(中略)そういう分け方をすれば、等分除の場合も楽だと言えます。具体物を操作する場合は、どちらでもよいということになりそうですが、僕は、なんとなく包含除の方が易しい気がします。」(p.130)

 これは納得で,この辺は実際の教室の子どもの雰囲気によって考えるべきなのかな,というのが私の直感。もちろん,その場の子どもの動きで,そのあとの何回分もの授業計画を根底から変えるというのは,かなり教師にとっては勇気のいる試みである。その勇気を手に入れるには相当の教材研究が必要だろうが,やりがいはありそうだな。そんなことを思っていた。

 私にとってすっきり入ってこなかったのは次の例の部分である。九九を使ってわり算の答えを求めるとき,どちらが易しいか,という話だ。そしてここはおそらく「掛算順序問題」に直接関わると思われる部分でもある。

 「わり算の答えを求めるとき九九を唱えますが、『32÷8』の場合『八一が八』『八二、十六』『八三、二十四』『八四、三十二』と唱えていくでしょう。これは、かけ算の式で考えると、かけられる数が分かっている場合なので『包含除』です。等分除の場合ですと、かける数が分かっている場合ですので、 2 個ずつ分けたとすると『二八、十六』、 3 つずつ分けたとすると『三八、二十四』『四八、三十二』というように九九を使わなければなりません。
 このように、かけられる数が分かっている場合の方が唱えやすいし、意味を考えても、 8 個取ったら 8 、また、 8 個取ったから『八二、十六』、3 つ分取ったから『八三、二十四』と、かけ算の意味通りに考えられます。ですから、九九を使う場合は包含除の方が易しいと言ってよいでしょう。」(p.130)

 どういうことだろう,とまず思った。やがて, 32÷8 は問題の式から得られる情報が 8 という数だから,子どもは 8 の段の九九を使おうとするだろう,と考えれば,子どもの認識としては単純な話だ,ということが分かった。そして,九九の 8 の段を使って答えが求まったとして,その意味を仮に解釈するならば, 8 等分しているのではなく, 8 個ずつ取っている,ということになるから,これは包含除の考えだと言ってよいだろう,という意味だとやっと読めたのである。

 いや,ちょっと待って。 8 の段の九九を使ったからって,それが即刻,子どもはこの計算をするとき包含除で考えていた,ということになるだろうか。「その意味を仮に解釈するならば,」といま私は書いたけれど,「仮に解釈する」のは誰だろう。これをこのまま小学校の教室のなかに持ち込んだら,子どもはかけ算の意味に順序が関係すると思っている,と勝手に決めつけていることにならないか。とするとこれって,いわゆる順序批判の人がいちばん「それはおかしいでしょ」と声高に叫ぶ部分ではないか。

 私はこのことを,こう整理してみた。算数教育の研究成果としての知見「32÷8 の答えを 8 の段の九九で求めるのは,分類すれば包含除の考えにあたる」は,おそらく正しい。その意味で杉山先生は「正しく」説明している。ただ,分類したのは研究者であって子どもではない。よって,この知見は,子どもの発想と必ずしも直結していない。もしこのことに学生が気づかなかったとしたら。例えば,この講義でしっかり勉強した学生が小学校の教壇に立ったとする。32÷8の答えを子どもが「『八四、三十二』だから 4 です」と言ったとする。その瞬間に(おっ,この子は包含除の考えを使ったのか)と教師が思うことは,大学生のうちは正解だったとしても,目の前の子どもに対してはいわゆる「行き過ぎた忖度」になりがちなのではないか。要するに,その子どもはそこまで考えていなくて,たまたま思いついたのが「八四、三十二」ではなく「四八、三十二」の方だったら,そっちを使って 4 という答えを出したかもしれないのだ。それを教師が「八四なら包含除の考え,四八は等分除の考え」という知識に固執したら,もうそこに子どもはいなくて,トンデモ授業への崖っぷち。

 包含除と等分除の考えは,ある意味で教師が懐にしまっておき,必要に応じて取り出して自分が勝手に復習すればいいものだと私は前から思っていたが,改めて考えると,包含除と等分除について勉強した教師が,その知識があるがゆえに,子どもの素朴な発想から目を切ってしまうという可能性が,ここには確実にあると思う。

 一方で,そういう算数教育の研究自体が有害だ,無益だ,というのはさすがに極論がすぎる。例えばほかの場面で,教師が等分除,包含除の区別を知っておくことにより,子どもの発想を垣間見る手掛かりとできるような場面も,確実にあるだろう。実際この後のページで出てくる,69÷3と69÷23という 2 つのわり算の式を子どもがどのようにとらえがちであるか,ということを考えるとき,等分除と包含除の考えは,教師にとって子どもの発想を可視化する手掛かりになり,有益に機能していると私には思える。

 よって「初等科教育法の授業でそういうことを教えるのはやめるべき」という意見も,私は少し違うと思う。今回私が勉強した範囲では「この知識は,適切に取り扱わなくてはいけない劇物であり,適用場所を間違えると結構ひどい目にあう」くらいの感覚。あるいは大学の授業に改善の余地があるなら,そのことをきちんと伝えるべきだ,ということにでもなるのかもしれないが,この本を読む限りでは,杉山先生は 1 回目の授業でかなりの時間を「児童中心」の考え方と,そのための教師の心構えについて話すことに割いているのだから,そう単純なものでもない。

 では教師を目指す大学生がもっとしっかり学ぶべきだ,ということかといえば,それも限界がある。場面場面で切って考えれば,大学の教科教育法の授業なのだから,教科教育学の知見が講義されるのは当然。それを「大学生が大学で授業を受けている」という環境面心理面もろもろを考慮に入れた状況で,「知識は知識ですよ,実際に教師になったらまず子どもを見てね」というメッセージを,素直に受け入れられる大学生がどれだけいるだろうか。それはある意味で,いま自分が大学で勉強しているという状況そのものに矛盾してしまっている。この矛盾を受け入れた上で,大学生がより実践的な学びを目指せるかといえば,並大抵に出来ることとは思えない。そういう意味では,この一連のストーリーのなかで,一元的に「諸悪の根源」とする存在を決めるのは難しい。

 ともあれ,私がここまでの一連のことから思い至ったことをまとめると,「授業では,その場の子どもの反応が,教育学の知見に優先する」ということを,教師は当たり前のようにたえず意識しているべきだ,ということ。この本を始めから通して読めば,杉山先生はとっくにそれを伝えようとしているようにも感じられるが,個人的には恥ずかしながら現場でそれなりの年数(一応ね)教師をやって,それなりの授業の経験も積んだ上で,いま改めてこの本を読み返してやっと「そうだよなあ」と思えたものである。(と同時に,このことは私が大学・大学院時代を通して散々とっくに言われていた気もして,改めていろいろな先生の顔が思い浮かんでは次々とお叱りを受けているような気分にもなった。)

 数学教育の研究はよりよい授業を作るヒントにはなるが,それが唯一の答えだと思って思考停止してしまえば,子どもの実態とかけ離れたトンデモ授業になってしまう。あるいは一生懸命数学教育について勉強して入れこんでいる教師ほど,その危険に近づいてしまうのかもしれない。私はそういう意味では,これからも適当な感じで数学教育を勉強していこうと思う。

 少し結論を急いでしまったような感覚もあるが,長くなったし,何かまとまったような気分になったのでとりあえずここで切る。今後も折を見て,この本を再読していきたい。

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