コミュニケーション、転生

あなたはどのようなコミュニケーションがお好みですか?
相手を気遣った慎重なもの、気張らず自然体でいられるもの、互いの感情に共感し合い肩を組むようなウェットなもの。
「どのようなコミュニケーション」と聞いて思い浮かべるものは様々あるでしょう。
ここでは、少し視点を変えて、頭の中と外の話を書きます。

伝えるってなんだ?

人と会話する中で、どれくらい自分の頭の中を共有しようと思っていますか?
お恥ずかしいことに僕はつい最近まで、コミュニケーションとは、自分の頭の中を他者に投射するものだと思っていました。
情報という物質を、頭と頭をぶっとい管で繋いで流し込むイメージ。

ところが、現実にはコミュニケーションとは、伝えたいことと相手に伝わるための要件を整理し、それを相手が理解できる形で提供することだそうです。(持論)
自分の頭の中にあるaを相手の頭に転送するのでなく、aを構成する要件を整理して相手の頭にa'を再現することっぽいのです。

誤認から生まれた歪なコミュニケーション

これに気がつくまで、僕は次のようなコミュニケーションをしていました。

まさにキャッチボールコミュニケーション

会話はキャッチボールだとか言いますよね。
僕がやっていたコミュニケーションはまさにキャッチボールそのものでした。
でもそれは人ではなく機械がやるようなキャッチボール。ピタゴラスイッチ。

相手に伝えるとは、自分の頭の中にある情報を言葉に起こして伝送することだと思っていました。なんならそんな自覚すらなく、ただ情報の伝送をしていました。
プレゼンなど目的が定まった会話においては相手の知識や属性を考慮して、言葉や文の長さを調節することはありましたが、それも情報の塊を切り分けたり液状にして流し込むとかそんなイメージ。
相手は言葉のままに受け取り、言葉の通りに解釈すると考えていました。(正確には考えてすらいなかったのだが。)

これが一昨日までの僕のコミュニケーション。知ってしまうとおそろしいですね、23年。
従来の僕の頭の中には相手のコンテクストがなかった。
ないしは人類は合理という共通のコンテクストを持っていて、コンテクストの保有の程度で伝達効率は決まっているのだと思っていました。
(会話の経験値や論理的思考力、専門知識量などによってそのコミュニケーションにおける理解力の程度が決まるイメージ)

昨日気づいた、コミュニケーションの真実

ところが昨日、コミュニケーションとは、情報のパスではなくて鑑賞なんだと気がつきました。
伝えるのは情報だけど、相手はそれを解釈して、その解釈したものを受け取るのだと。

コミュニケーションとは、自分の頭の中にある、伝えたいaを相手の頭に再現しようと試みる行為であります。
伝えるのはaそのものでなく、相手のコンテクストにおいて、相手の頭の中にaを再現するためのパーツであるわけです。

転送から再現へ、反省と後悔と喜びと

このような気づきを得て、人生の様々な違和感がふっとびました。
「なんか伝わらないんだよな、どう言い換えても、どれだけ話しても。」
そんなことが度々あった人生でしたが、それは全て、いかなる努力も自分自身か自分が絶対的であると信じるコンテクストの上でしか行動できていなかったからというわけです。
あー、スッキリ。

わかってもらえない、わかってあげられない。
相手をわかるために更なる情報を付加したり、求めたり、全く本質でなく無意味なことをやってきたのだと気がつきました。
会話したすべての人、ごめんなさい、宇宙人👽と更新してくれてありがとう。

23年分のコミュニケーションを公開したわけですが、悲しいかな、同時にとてつもない興奮に襲われました。
世界の理を記述できてしまったような、きっとアインシュタインが質量とエネルギーの等価性に気がついた時もこのような感覚だったのでしょう。
ありがとう、22年分の貯金、、、

今日からの私

これに気がついてしまい、僕から見える人の認識が変わりました。
独立した情報が、渦巻いて形を持ち、運動している…
とても興味深い対象になってしまいました。
今まで僕が人に対して感じる愛しさは、自分以外の意思を持つ存在としての"有り難さ"で、自分の価値基準と照らし合わせた時の希少性のようなものを尊く思っていました。
でも、独立した情報生物という認識を得てしまった今、他者は互いにすべて他者であり、コミュニケーションツールという救いによって社会が成り立っていると思えてしまいました。
社会とはこうも複雑でスリリングだったのかと。

今この瞬間はこうも違うのに僕と時間を共にしてくれた、してくれる人が愛おしくてたまりません。ありがとう。
こうも複雑な構造の上で一緒にいることが選択される奇跡に感動。
目の前の人をより大切にするだろうし、できるだろうし、もともと近く感じていない人との距離はまた異質なものになるでしょう。

おわりに

23年もこのことに気がつけなかった自分を憐んでいます。
きっかけをくれた友人、ありがとう。
生まれ変わった愛と感動を持って生きていく日々に期待を膨らませて、おやすみなさい


説明が下手と言われ続けて10年超。文章に自信なし、思考止まりで実行ハードルが高い人が毎日noteを書くことで修行しています(from 2024/01/13)。
恥をかくためのものにもなった。
X(Twitter): @yutoumetsu

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