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#18 再び和解が消える/サムエル記上第27章【京都大学聖書研究会の記録18】

【2024年1月9日開催】
サムエル記上第27章を読みました。熱い珈琲を持参してくださった方がいて、美味しい珈琲をいただき、ドーナツを頬張りながらの恵まれた聖研でした。

はじめに27章のストーリーをまとめておきます。
①ダビデはサウルの追跡から逃れる手段はこれしかないと思い、敵国ペリシテに兵員600とその家族ともども移住する。敵国に逃げれば、さしものサウルも追ってくることはできない。一種の亡命である。
②ダビデはペリシテ・ガトの王アキシュ(新共同訳)からツィクラグという町を譲ってもらう。ガトはペリシテ主要5都市のうちの一つ。主要都市それぞれに王がいたらしい。地図で見ると、ツィクラグは首都ガトから距離にして40㎞ほど。ダビデはこの町に1年4か月住んだという。
③ダビデ軍はこの町を拠点にしてアマレクなどの部族を襲撃、殺戮を行うとともに、財産を奪い取った。「どこを襲ったか」とアキシュに問われたダビデは、真実を答えず、ユダないしその近縁の部族を襲ったと虚偽の報告をする。アキシュはダビデ自身の出身部族(ユダ)を襲ったとのダビデの言葉を聞いて、ダビデが完全に自分の味方になったと思い込む。本文に出てくる「ユダのネゲブ」「エフラメエル人のネゲブ」「カイン人のネゲブ」とは、イスラエルないしイスラエルと親しい近縁部族の意味とのこと。

1 再び和解が消える


26章では、サウルはダビデに「わたしが誤っていた。二度とお前に危害を加えたりしない」と語っていました。ダビデも主が油注がれた人サウルへの敬意を率直に表明していました。26章のその場面を見ると、二人の間に和解が成立したかに見えます。あの嫉妬に狂ったサウルが「わが子ダビデよ、お前に祝福があるように」と本気で言うのですから、和解が成ったと考えても不思議はない。

ところが27章に入ると、一転、ダビデはサウルの追跡に未だ苦しんでいるようです。イスラエル領土内ではもう逃げるところがなくなって、あろうことか、これまで敵であり続けたペリシテの陣営に亡命するという挙に出る。ダビデは相当に思いつめていたにちがいない。26章と27章の間に何があったのか。聖書には何も記されていないので、想像するしかないのですが、ともかく、27章の時点では、和解そのものは、どこかに消えてしまったと考えてよいように思います。

サウルとダビデの和解は、24章でも語られていました。ダビデにサウル殺害の意図がないことを悟ったサウルは、「声をあげて泣き」、ダビデに向かって「お前はわたしより正しい」と言ったという。この場面、サウルとダビデは和解した、と見なすのがふつうの反応でしょう。よかった、よかった。だが現実はそのようには進まない。26章2節では、相変わらずダビデを追い続けるサウル軍の精鋭三千が描かれています。

つまり一旦涙と共に和解が成立したと思ったすぐ次の場面では、相変わらずの追跡のゲーム。こういうことが一度ならず二度までも行われているわけです。サウルは一旦和解したかに見えたダビデへの追跡をなぜ続けるのか。ダビデがペリシテに逃げたと聞いて、サウルはようやく「もうやめよう」と思ったらしい(27:4)。ということは、そこまでは続けていたということであり、もしダビデがイスラエル領内に居続けるなら、今後も徹底して探し続ける意思をもっていたということでもある。和解はどこかに消えてしまった。

2 ダビデの責任


このように書くと、サウルが一方的に悪者のようです。たしかにそのような側面はあります。ただダビデも無実とはいえない。ダビデは洞窟に入ってきたサウルに攻撃の刃を向けました(24章)。この時は上着の端を切り取っただけでしたが。また部下と二人でサウルの寝場所に侵入したりもしています(26章)。前回書きましたように(「♯17 救出されたダビデ」)、この時、ダビデはサウル殺害の意図をもって侵入したという蓋然性が高い。サウルからしてみれば、自分が深い眠りに就いている場所に忍者のようにダビデが侵入してきた。危なかった。もう少しで寝首を掻かれるところであった。サウルの中には根深くダビデに対する警戒心がある。これまでの経緯を見ればこの警戒心には合理性がある。ダビデの挙動がサウルの警戒心を高めているわけです。つまり両者の敵対関係に関して、ダビデは無罪放免というわけにはいかない。いやむしろ、ダビデはサウルとともに、両者の緊張関係を高める方向に動いている。

という次第で、二度の和解の出来事にもかかわらず、27章では、両者の敵対が前提となった物語が展開する。いったい前章で描かれた和解はどうなったのか。27章を読みながら、この疑問がなかなか頭から消えません。ダビデその人、サウルその人について詳しく見ることをとおして、この疑問に答える努力をしてみたいと思います。

3 ダビデの目的合理性


③で述べたように、ダビデは虚偽の報告をしてアキシュに取り入っているように見えます。なかなかの策士です。「ユダのネゲブ」「エフラメエル人のネゲブ」「カイン人のネゲブ」を襲ったと言いながら、その実、宿敵アマレクを襲っている。しかもそのことが容易にばれないように、人間はすべて殺し、財産は持ち帰るといった偽装工作のようなことまでしている。ダビデは、ガトの首都から少し離れたツィクラグという地方都市を譲ってもらったわけですが、そのことも、自分たちのしていることが 王アキシュに伝わらないようにする作戦の一環だったかもしれない。

ダビデは武人として卓越した人物だったようですが、同時に先読みのできる人でもあったようです。そしてそこから将来の自分にとって有効な手立ては何かを導き出し、その計画図どおりに動く。ひと言でいえば、きわめて目的合理的な人物です。たしかに目的合理的な思考ができなければ、戦闘で大きな成果を上げることなどできはしないでしょう。その思考の延長線上で、ダビデはペリシテに逃れることを選んだわけです。ペリシテ(ガト)に行ってからは、そこで生き延びるために、同胞を殺しましたなどという虚偽を並べ立てます。アキシュはころっと騙されているわけで、策士ダビデの面目躍如のところがあります。

4 はっと気づくダビデ


ダビデは目的合理的な思考に長けた人ですが、それ一辺倒というわけでもありません。ときにハッと気づくところがあります。洞窟に用を足しに入ってきたサウル(の上着に)に切りつけたときも、油注がれた人間(サウル)にそういうことをした自分を激しく責めます(24章)。何たることをしたのか、と。切りつけた後にはっと気づいたわけです。あるいはナバルの無礼に怒って殲滅しに行こうとしたとき、ナバルの妻アビガイルに出会い、はっと我に返ります(25章)。復讐は神のわざであり、人間相互の復讐はただの流血の罪にすぎない。そのことに気づかさせてくれたアビガイルに礼を言い、「主はわたしを引き止めてくれた」とヤハウェに感謝をささげます。このあたり実に素直です。はっと気づくとき、ダビデは先読みをしているわけではない。はっと気づくことと目的合理性とは、いわば犬猿の仲です。両者は相並び立たない。気づくとき、目的合理的な思考はどこかに消えています。

ところがアビガイルに礼を言い、主を賛美したそのすぐ後にダビデはサウルの寝場所に侵入します(26章)。侵入、暗殺が合理的と判断したということです。ここでは再び目的合理性が優越します。しかしここでも暗殺直前に部下に「殺してはならない」と言い、殺害行為を止めます。ここではっと気づいたということなのでしょう。そしてその後、サウルの司令官アブネルに向かって大演説をし、そのことがサウルとダビデの対話へのつながります。「わたしが何をしたというのでしょう」というダビデの言葉に、サウルは「わたしが誤っていた」と自らの非を認めるわけです。

以上、ダビデが目的合理的な思考に長けた人間であること、にもかかわらずというべきか、ときにこの合理的思考を超えて「気づき」が起きるということを確認しました。そしてこの「気づき」は長続きしないということも。27章ではまたしても目的合理性が優越してしまうわけです。サウルの執念深さおよびサウル軍勢の規模を考えると、じっとしてはいられない。

5 サウルという人


サウルに目を向けます。サウルはダビデ憎しで凝り固まっているように見えます。どこにもハッと気づくところはないように見えます。ですが、彼はダビデに向かい、二度までも「わたしはお前に悪意をもって対した」(24:18)、「わたしは誤っていた」(26:21)とはっきり自らの非を認めています。この彼の発言に虚偽はないと考えます。彼はこの時、ほんとうに自分が悪いと思ったわけです。彼の涙に偽りはない。それは「わたしの手には悪事も反逆もありません」(24:12)、「わたしが何をしたというのでしょう」(26:18)というダビデの言葉に偽りがないのと同じです。サウルの発言は、このダビデの言葉の真実性によって導き出されたところがあります。

ともあれサウルの言葉に目的合理性は入る余地がない。サウルはダビデから何かを引き出そうとして「わたしは誤っていた」と言ったわけではないのです。真実そのように思ったからこそこの言葉が出てきた。ところがサウルはダビデとの対面場面から離れると途端に、警戒心に取りつかれてしまうようです。追跡をやめることがない。あれだけ真実の涙を流した後も、少しも変わるところがない。

6 和解のリアリティの消失


こう考えてくると、ダビデもサウルもともに同じような軌跡を歩んでいるように見えてきます。どうして同じような軌跡になるのか。ヒントになると思える箇所があります。24章と26章の最後の描写です。24章で描かれた最初の対面場面の終結部分は、「サウルは自分の館に帰っていき、ダビデとその兵は要害に上って行った」となっています(24:23)。26章の二度目の対面場面の終わりは、「ダビデは自分の道を行き、サウルは自分の場所に戻っていった」(26:25)。対面が終わった後、両者は共同で何かをしてはいない。別々の道を行く、自分の居場所に戻る、という書き方になっている。和解の後、その和解を現実化する手立てが採られていないわけです。

このことが決定的な意味をもっているように思います。お互い一人になった途端、直前に存在した和解など空疎な絵空事に見えてきます。和解の高揚に代わって警戒心や目的合理性が頭をもたげてきます。一人一人になってしまえば、こちらの方がぐんとリアリティがある。そしてその直後からまたまた追跡ゲームが始まる。

和解は一体どうなってしまったのか。これが27章を読む際の根本疑問でした。これまで指摘したことに従えば、和解は真実であった。ダビデにとってもサウルにとっても真実であった。しかし対面場面が終わり、それぞれ一人になると、リアリティのフェーズが変わってしまう。サウルにとっては、自分の寝場所までやってきて自分の命をとろうとした侮りがたき敵ダビデが、ダビデにとっては、執念深くどこまでも追いかけることをやめないサウルが、それぞれ圧倒的なリアリティをもって前面に出てきます。そのことは、サウルにとってもダビデにとっても、人として生きる以上、避けがたきことなのだろうと思います。和解がどこかに行ってしまうことについては、以上のように考えておきたいと思います。

最後に一つ。いま上に見てきたダビデやサウルの姿は、私たち人間の偽りのない現実であるような気がします。ダビデでさえ、決して理想どおりの人間ではない。神への信頼に胸が高鳴るその次の瞬間に恐怖が頭をもたげる。そうした現実を生きている人のような気がします。「平穏なときには、申しました/「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と/主よ、あなたが御旨によって/砦の山に立たせてくださったからです/しかし御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました」(詩編30:7-8)。


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