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♯21 サウル、口寄せを訪ねる/サムエル記上第28章【京都大学聖書研究会の記録21】

【2024年4月9日開催】


聖書の舞台であるパレスティナの現状が気になって仕方ありません。ガザのジェノサイドは半年以上も続き、少しも停戦の気配がなく、重い気持ちの日々が続いています。ネタニヤフはラファへの攻撃などと言っています。うーむ。

新年度第1回目の今回は、サムエル記上第28章を読みました。はじめにそこに至るまでのストーリーを簡単におさらいしておきます。

サムエル記上は、預言者サムエルの誕生から始まりますが、その後王制の設立、最初の王としてのサウルの登場が描かれたのち、サウルの不適切な行動がサムエルによって問題視され、新王候補としてダビデに白羽の矢が立ちます。その後ダビデに対する嫉妬をきっかけにして、ダビデへのサウルの攻撃が始まります。それが次第に厳しさを増し、ダビデはサウルが統治している範域内を逃げ回ります。そしてとうとう居場所がなくなったダビデは、最大の敵であるペリシテに助けを求め(27章)、28章の時点ではペリシテ・ガトの王アキシュのもとに身を寄せています。

28章で語られていること


28章の中身は以下のとおりです。

①ペリシテの王アキシュとダビデのやりとり(1-2節)。アキシュはダビデがほんとうにペリシテ軍のために働くかどうかが気になるので、そのことをダビデに確認する。この問題は29章でペリシテ軍内部の問題として顕在化することになる。つまり①は29章のイントロという位置づけですね。28章の主内容は②③。

②ペリシテの大軍を見たサウルが恐れおののき、口寄せ(霊媒)のもとを訪ね、サムエルを呼び出してもらう。指示を仰ぐためだ。しかし呼び出されたサムエルは、サウルの求めるような新たな指示を与えることなく、かつてサウルに語った内容(「今日、主はイスラエルの王国をあなたから取り上げ、あなたよりすぐれた隣人〔ダビデのこと〕にお与えになる」15:28、新共同訳)と同じ内容を再び語る(3-19節)。

③サウルはその言葉を聞いてショックで倒れてしまう。そのサウルに口寄せの女が食事を与える(20-25節)

口寄せ(霊媒)と聖書


今回のメインは、 口寄せ(霊媒) が死者を呼び出すという話で、あまり聖書的ではありません。旧約聖書では、霊媒や占いは汚れていて、ヤハウェの厭うものという理解が一般的だからです。今回の箇所では、その 口寄せ(霊媒) の働きが克明に記されています。そのこと自体が何だかとても面白い。

上に書いたように、すでに死んでいるサムエルが登場してサウルと言葉を交わしたりします。そんなことがほんとうにあるのか。旧約聖書はそうした心霊現象の実在性を認めているのか。など突っ込みたくなるところはたくさんあります。これらの疑問は、現代人が抱く疑問としては至極当然なものですが、ここではこうした問題を本格的に考える用意がありません。また記述がなされている以上、当時の人々にとってこうした現象が一定のリアリティをもっていたこともたしかだと考えられます。という次第なので、ここでは、聖書の記述をそのまま鵜吞みにして話を進めることにします。4月9日の聖研でも基本的にはこうした前提を共有しつつ、話が進んでいきました。

律法の規定とその精神


はじめに口寄せ(霊媒) に関する律法の規定を確認しておきます。
「男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪にあたる」(レビ記20:27、新共同訳)。 口寄せ(霊媒)当人は、死に値するというわけです。 口寄せ(霊媒)だけではなく、占いなども同じ扱いです。「あなたの間に…占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない」 (申命記18:10-11)。

また口寄せや霊媒当人だけでなく、口寄せや霊媒に頼るユーザーについても厳しい。彼らを訪ねてお伺いを立てたりすることは、厳しく禁止されています。「口寄せや霊媒を訪れて、これを求めて淫行を行う者があれば、わたしはその者にわたしの顔を向け、彼を民の中から断つ」(レビ記20:6)。口寄せや霊媒を訪ねることは淫行だというのです。

なぜ口寄せ(霊媒) などが禁止されるのか。聖書には理由についての言及はありません。ダメなものはダメ。それだけです。禁止であるのは、神がそう命じたからであり、それで十分。理由など要らない。たしかにそのとおりですが、あえて理由を推測してみます。

いま引用したレビ記20:6に「口寄せや霊媒を訪れて」とあるのは、別の訳では、「霊媒たちや占い師たちに頼り」となっています(『旧約聖書Ⅰ 律法』岩波書店、2004年、398頁)。この「頼る」という言葉は、偶像に関して使われる言葉のようです。「あなたたちは偶像に頼ってはならない」(レビ記19:4、上掲書)など。つまり口寄せ(霊媒)が禁止されるのは、それを人が頼るから。神ならぬものに頼るには、いけない。偶像がいけないのと同じだ。だから口寄せ(霊媒)の扱いが厳しいわけです。死刑!という宣言は、この種の者が入り込むと、人間は必ずそれに頼る。つまり神から離れる。それはまずい。こうした把握が背景にあるように思います。

現実はどうだったか


このように厳しい制裁が設定されているがゆえに、口寄せ(霊媒)は、古代イスラエルにおいては絶滅した、かというとまったくそういうことはなくて、現に28章にも登場しています。旧約聖書本文には、規範(律法)が前面に出てくるということもあり、当時のイスラエルの「現実」については情報が乏しい。28章の記述などを読むと、律法の規定にもかかわらず実際には口寄せ(霊媒)などは相当数いたのではないか。そんな感じがします。だからこそサウルは「国内から口寄せや魔術師を追放」したのでしょう(3節)。ずっとのちの時代にも「ヨシヤ〔前7世紀の王〕はまた口寄せ、霊媒、テラフィム、偶像、…を一掃した」(列王記下23:24)とあったりします。

このように、律法の規定にもかかわらず(おそらく律法以前から存在した)口寄せ(霊媒)の類は、しぶとく生き延びていたらしい。ユーザーの側からすれば、何か困ったときには、具体的で直接的な指示がほしい。そのユーザー側のニーズが絶えることはなかったということなのだと思います。

聖研では、こうした話をしているときに、姓名判断の話が出て来、一気に戦後日本の現実の話になりました。霊媒→占い→姓名判断という順番でこの話になったのだと思います。姓名判断も一種の占いですから、ヤハウェ宗教においては、死刑相当ですが、律法無縁の日本においては、かつては相当広く行われていたらしい。戦後間もなくのころ、社会混乱期には殊に盛んだったとのお話もありました。キラキラネームが話題になる今日とは少しちがっていたようです。ともかく各自の体験談も交え、ふだんは聞けないお話がたくさん聞けて、なかなか面白いひと時でした。

サウル、口寄せを訪ねる


サウルは「主に託宣を求めたが」、夢でも、くじでも、預言者の言葉によっても、答えがない(6節)。託宣を求めても答えがない、という経験をサウルは以前からしていた(14:37)。ヤハウェ律法への態度が甘く(13:13など)、早々にヤハウェに見限られていたようです。ヤハウェはそっぽを向いている。とはいえ、サウルからしたら、「この危急存亡の時にそれはないでしょ」という気持ちだったと思います。過去のことは棚上げにして、ともかく託宣をください。そう思っていたにちがいない。いま現在ペリシテの大軍が目の前にいる。怖い。どうしてよいかわからない。このような時は何としても託宣がほしい。明確な指示がほしい。

しかし指示はどこからも来ない。ヤハウェは沈黙したままです。そこでやむなくサウルは自分の手で追放した口寄せ(霊媒)のもとに赴きます。すでに死んでいるサムエルを呼び起こしてほしい。サムエルなら的確な指示を与えてくれるにちがいない。そう踏んでいるわけです。

口寄せ(霊媒)による死者の呼び出しの場面がなかなか興味深い。サムエルの姿は、はじめは霊媒の女にしか見えないのだが、次第にサウルの目にも映って来たようです。そこから会話が始まります。サウルは指示を期待するのですが、サムエルの言葉は「王国はあなたの手を離れ、ダビデに与えられる」というかつて語られた内容で(前述、15:28)、新しいものは何もない。指示もない。「あなたとあなたの子らはわたしと共にいる」とサムエルは言う。つまりサウルもサウルの一族も、私サムエルと同じ死者の側に入る、と言っているわけです。王国はダビデのものとなり、サウル一族は死ぬ。このサムエルの答えは、かつて語ったことの確認にすぎないものでしたが、聞いたサウルは「たちまち地面に倒れ伏してしまった」。死者サムエルを引っ張り出してきても、結局滅亡しか道がないことをまた知らされる。どうにも出口がない。それで酸欠のようになり、倒れてしまった。

サウルは空腹でもあったようです。ショックと空腹がサウルを襲い、立っていられなくなってしまった。このような場面で、王サウルが傍にいた口寄せの女に「食事を供せよ」と命令するなら、ふつうの話です。が、ここでは意外なことに、命令するのは女の方です。「〔さっきはあなたの命令に従ってサムエルを呼び出したのだから〕、今度は私の声に聞き従いなさい」と言って、サウルに食事をとるように指示します。子牛を屠ってパンを焼く。大ご馳走です。この女性は口寄せという(ヤハウェ宗教の中では)怪しげな役回りの人物ですが、弱った他者に喜んで力を貸すような人でもあるようです。

現実をそのままに描く


今回は、口寄せ(霊媒)とか死者の呼び出しとか他所ではあまり見かけない内容のエピソードでした。口寄せ(霊媒)は律法では禁止されていますから、旧約聖書を書く立場からすれば、こういう話はあまり見たくないし、書きたくないのではないかと思います。現実がきれいごとではないことを自ら認めてしまうことになるわけですから。まったく規範(律法)どおりにいかない現実。神でないものを頼りにして、それを最後のよりどころとして生きる王サウル。王であるにもかかわらず彼は、まったく非模範的な人間です。

今回の箇所は、旧約を書く立場からすれば認めたくない現実そのものですが、大変面白いことに、その見たくない、書きたくない現実が実に詳しく臨場感あふれる筆致で描かれている。見たくないとか書きたくないとかの立場は脇において、起きたことをそのまま少しも粉飾せずに書いているような感じです。見たくないこと、書きたくないことかもしれないが、現に起きたのだから、そのとおりに書くほかない。そう言っているような印象を受けます。

口寄せ(霊媒)に頼ること、それは神から離れることそのものであり、断罪に値する。そのような評価を旧約聖書の書き手は持っているにちがいない。しかしそうした評価はいったん棚上げして、起きたことを克明に描き上げようとしている。それは「神から離れている」という人間の現実をありのままに描こうとする態度です。先入見や価値評価をもち込んで対象をきれいに描いたり、あるいは逆に卑しく描いたりすることなく、事実そのままを記録しようとする態度です。これは見上げたものだというしかない。

この態度は口寄せ(霊媒)の女の描き方にも見て取れます。彼女は律法で死刑相当とされる怪しげなことをしている当人ですが、その彼女が実に濃やかにサウルに相対しています。空腹で今にも息絶えそうなサウルに、ともかくひとまず食べなさい、悩むのはそれからだ、とばかりに食事を与えるのです。何だか優しい。それに機微をよく承知している。聡明で心優しい人物が浮かび上がります。繰り返し述べるように、この人物がしている口寄せは重大な律法違反です。書き手はそのことを十分承知しながら、その先入見によって彼女の値打ちを下げたりしない。事実そのものを克明に写し取っている。

旧約の記述を支えるもの


旧約聖書の中心は律法ですが、旧約聖書の記述の特徴は、この律法あるいはそこから派生した道徳などに合わせて人間を描くことをしていないという点にあります。律法どおりに生きる人間、道徳的に正しい人間、それが人間だ、という立場はとらない。律法の絶対的な規範性を承認しつつ、事実として人間はどうであるかを冷静に描く。規範は規範、事実は事実。このように考え、リアルな人間を描くこと、これが旧約の特徴だと思います。

そしてそのような態度を支えているのは、神の前には賢しらな粉飾など無意味、とする神観念あるいは信仰なのではないか。神の前にはすべてがあらわになっている。取り繕っても仕方がない。このような確信が、徹底して事実を事実として描く精神を支えている。そのように感じます。


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