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大型類人猿の提供する生態系サービス

今回は、大型類人猿を守るべき理由(1)で述べた大型類人猿の価値を、生態系サービスという観点から検討しなおしてみます。

大型類人猿の価値を生態系サービスとして説明する

文化レクリエーションサービス

上の記事では、大型類人猿の価値を人間にとっての重要性(価値)と生態系にとっての重要性に大別しました。このうち、人間にとっての重要性としてあげた2点は、雑ぱくに言えば学術的・文化的価値といえます。したがって、これらは文化レクリエーションサービスと捉えることができるでしょう。

調節サービス

生態系にとっての重要性に関して、大型類人猿は熱帯林生態系のキーストーン種、アンブレラ種、フラッグシップ種であると述べました。このうち、キーストーン種としてのはたらきは、熱帯林生態系の維持と調節に関わっています。したがって、これは調節サービスといえるでしょう。(ちなみに、熱帯林熱帯林の生態系そのものは基盤的サービス、供給サービス、文化レクリエーションサービス、調節サービスのすべてを大規模にになっています。)

生態系サービスとはいえないもの

大型類人猿が熱帯林保全において果たしているアンブレラ種、フラッグシップ種という役割(機能的価値)は、生態系サービスとして捉えるのは難しいと感じます。これらの役割は熱帯林の生態系の維持・調整への直接的な関与ではないからです。メタ役割とでもいえるでしょうか。

まとめ

まとめると、以前の記事で私が説明した大型類人猿の価値のうち、人間にとっての価値と呼んだものは「文化レクリエーションサービス」、生態系にとっての価値と呼んだものは「調節サービス」といえそうです。

生態系サービスを値踏みする

さて、大型類人猿の価値を生態系サービスに読み替えたところで、それらがいったいどのくらいの経済的価値を有するのか、値踏みしてみましょう。

文化レクリエーションサービス

以前の記事の繰り返しになりますが、現生の大型類人猿が野生下に存在することで、私たちは私たち人間についての洞察を深めることができます。また、人間が他の自然と連続的な存在であると実感することができます。というようなことに、いったいいくらの経済的価値があるでしょうか?

これはまったく人によって異なるでしょう。私のように、人類の進化に興味があり、大型類人猿を研究対象にしようという者にとってかれらはかけがえのない存在ですし、職業研究者としてはまさに飯の種です。

しかし、世の中にはそんなことに興味がない人もたくさんいるでしょう。興味がない人には興味を喚起するような啓発活動をしたらよいかもしれません。ですが、「人間についての洞察」などしていられるような状況でない人々が、この世界にはたくさんいます。子どもを学校に通わせる手段がない人、明日の食事の見通しが立たない人、決まった住まいを持つことができず路上等を転々と移動してくらす人々、戦禍の下で暮らす人、などなど。

そして、大型類人猿の生息地に接して暮らしている人々の中に、そのような境遇の人が多いのです。彼らに対して、文化レクリエーション上の価値を説いても、そう簡単に共感を得られません。

調節サービス

文化・レクリエーションサービスと比べ、調節サービスの価値のほうが浮ついていない感じがします。アジア・アフリカの熱帯林の生態系が地球環境全体に対して果たしている調整サービス、有用植物等の供給サービスの規模を考えたとき、熱帯林全体としての経済的価値は極めて大きいものであることは間違いありません。
しかし、ではその中で大型類人猿が果たしている調整サービスは、いったいどのくらいクリティカルなもので、どのくらいの影響力があるのか、というと、それを正しく見積もることは大変困難です。私のような浮ついた人間でない、真面目な生態学者の方々がその見積もりを可能にするような丁寧な研究をたくさんなさっていますが、それでも、「この森林地帯におけるチンパンジーの調整機能はだいたいいくらになります」という試算を出すことは、現時点では不可能だろうと思います。

まとめ

大型類人猿の価値を生態系サービスという観点から見直すと、たしかに重要な生態系サービスの提供者ではあるけれど、それがどこまで人々を納得させられるものかには疑問符をつけざるを得ません。アジア・アフリカ熱帯林の生態系や生物多様性全体を保全することに関してはかなりの自信をもって人々に啓発活動をしてゆこうという気持ちになれるのですが、その中でもとくに大型類人猿が大事だ、と言い切るのは、私にはちょっとできません。

ここで誤解のないように述べておきますが、私は今回の記事で「大型類人猿には体した価値がない」とか「大型類人猿がとくに大事ではない」という結論を導きたいのではなりません。大型類人猿の「万人に対する経済的・福祉的価値」はそれほど自明ではありませんよ、ということを言いたいのです。言いたいというか、自分に言い聞かせ、独善的にならないようにしたいと思っています。


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