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「不十分さの共有」のススメ

気持ちの共有は人類最強のライフハックだ。

人生は、無理、できない、どうしたらいいの、の連続で、困るし、怖いし、不安なものだ。不安の種はそこら中に転がっている。

わかってもらう体験がないと、人は病む。孤独が人の気持ちを蝕む。
「わたしは強い、ちょっとやそっとではへこたれない」と思っている人も、なにかしらどこかしら、多かれ少なかれ、そういったコミュニティを確保しているはずだ。
でなければ、人類は家族で過ごさないし、友だちも作らないし、会社も設立しない。そもそも人類は社会化すらしていないかもしれない。
人は気持ちの共有を行い、わかってもらったり、一人ではないと感じることで、サバイブする力を得ているといえる。

心理学で気持ちの共有は、こんな効果があるとされている。
「自己感の回復」だ。
「自己感」とは、ありのままの自分がそこにあるという感覚。自分がそこにいることは当たり前であるという活き活きとした肯定的な感覚
心理学では、誰かに話を聞いてもらうことで、ストレス下で損なわれていたこの感覚が回復するとされる。
カウンセリングやコーチングでも、この自己感の回復は価値として大きい。中には、数回話をしただけで軒並み問題点を改善してしまい、しかも自発的に行われたりするから驚くときがある。
それほど孤独とは、人の本来の能力を損なうものだ。

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スナックに立っていて思う。(スナックについては過去の記事を読んでください)
スナックでは、お酒を飲み、何気ない会話をかわし、笑って帰る。
驚いたのは交わされる会話の質で、はっきり言ってしまうと、大半は、良い意味で中身がないのだ。
「全身adidasじゃなきゃ気が済まない、パンツも」
「酔って朝帰り、始発駅と終点を3往復して帰宅に6時間かかった」
あげ出したらキリがないが、こんな会話がなされ、笑いが起き、「楽しかった」といって帰るのがスナックという場所だ。
体験は他愛もないものだが、心理的にはある営みが行われている。
この体験と営みが、スナックが日本社会でこれだけ浸透している理由で、世のお父さんたちがハマる理由なのではないかと思った。

スナックで行われていること、それはケアだ。
「もっとこうすべき」「同じことを繰り返さないために」
と言ったような、現状を変える、変えないというレイヤーではない。
物事は進展せず、進展しなければ変容もしない。破壊と再生から外れている。
安心感を持って、会話や空間を通して自分という感覚が再び浮き上がる。

自分は不十分であることが笑い話になり、昇華される。
利害関係のない相手に受け止められ、自己感が回復する。
スナックにあるいわれのない居心地の良さは、そんな背景があるのではないだろうか。

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この世には成功物語に溢れていて、成長神話が止まらない。
不十分であり続けることは悪になる。「乗り越えるべき」「向き合うべき」と誰の頭でも鐘がなり続ける。
だが本当に、僕らの人生は十分である必要があるのだろうか。

カウンセリングでもコーチングでも、旅先で知り合った見知らぬ人でも、スナックでも、場所は方法はなんでも良いと思う。
生きながらサバイブを求められる現代人には、「俺こんな失敗してさ〜」「パンツもadidasじゃなきゃ嫌なんだよね〜」こんな話をして、自己感を回復してほしい。

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