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【短編小説】灰猫のクオリア(『泣ける話』掲載版)

 その人は、猫とヒトの区別がつかないのだと言った。

 三年生になって数学科のゼミに配属され、最初の授業で全員が自己紹介をした。周りの同回生も先輩たちも、研究内容や趣味などの当たり障りのない情報をひと言ふた言述べる。そんな中、彼だけが少し、違っていた。
「大学院一年生の水野浩樹といいます。目が悪いので、もしかしたら迷惑をかけるかもしれません」
 少し掠れた声で彼は言って、
「僕には、猫と人の違いが、あまりわからないんです」
 そう続けた。自分の発言に困惑したみたいに笑うと、彼は「以上です」と言って席に着く。新しくゼミに入ってきた三年生はみんな不思議そうな顔をしていたけれど、上級生は慣れたようにその話を流していた。水野さんは不健康そうな顔で、窓の外に視線を向ける。
 それが、彼との初対面だった。

    *

 大学のあるこの街は四方を山に囲まれた盆地で、春は気候が安定しない。連日雨が続いていて、今日もさっきから降ったり止んだりしている。桜はすっかり散ってしまっていた。
 昼休みに売店でパンを買って外に出ると、理学部棟の喫煙所で水野さんが煙草を吸っているのが見えた。相変わらず寝不足のような不健康そうな顔をしていて、背だけがやたらと高く、どこにいても目立った。
 わたしは立ち止まって彼の方をぼうっと見ていた。その足もとに、大学に棲み着いた猫が寄っていく。
 いつもちょっと不機嫌そうな顔でひとりで煙草を吸っている水野さんには、ひとつ癖があった。猫が寄ってくれば、必ず「こんにちは」と声をかけるのだ。水野さんは今日も足もとに寄ってきたキジトラの猫に声をかけていた。猫は顔を上げて、言葉の意味を測りかねるように首を傾げる。
「猫か」
 と、呟く声が聞こえた。彼は煙草をもみ消すとしゃがんで猫の首元を撫でる。
 わたしは彼の方に寄っていって、
「こんにちは」
 と、声をかけた。
「こんにちは……原田さん」
 水野さんはわたしの目をじっと見てから、少し思い出すような間を取ってそう言った。
「そうです。原田です」
 彼はわたしと四年生の先輩をしょっちゅう見間違えるのだ。わたしと彼女はまるで似ていないのに。
「何か用事?」
「いえ、ちょっと声をかけたくなっただけです」
「ははは、そうなの」
 水野さんは、あまり自分から積極的に人と関わり合うタイプではない。でも、近くに寄ってくる人の話を楽しそうに聞く姿をよく目にする。別にひとりが好きというわけではないみたいだった。人に対しても、猫に対しても、彼は優しいまなざしを向ける。彼の住んでいるアパートはわたしの住むアパートの向かいにあるのだけれど、窓際で飼い猫を撫でている姿もたびたび見かける。
 猫と人の区別がつかないと言った不思議な先輩のことを、わたしはずっと気にしていた。二人で話をしてみたいと思っていたのだ。
「水野さん、猫に絶対挨拶しますよね」
「え、見てたの」
「見てました」
 わたしが言うと水野さんは「はずかしい」と苦笑を漏らした。
 彼に撫でられていた猫は、飽きたのか身体を起こしてその場を去っていく。わたしはそれを見送りながら、再び口を開いた。
「……前に言ってた、猫と人の違いがわからないって話と、関係あるんですか?」
 不躾かと思ったけれど、オブラートに包む方法もわからないのでそのまま問いかける。水野さんは少し驚いたように目を見開き、それから少し笑って「そうだよ」と頷いた。
「話しかけて、応えてくれるのが人間。応えないのが猫。ざっくりしてるけど何となくそれで判断してるから」
「そんなに同じように見えるんですか? ほら、ええと、歩き方とか」
「同じように見えるよ。何だろう。俺が言ってる猫と、原田さんが見てる猫がそもそも別物って可能性もあるし」
「……なるほど?」
 聞けば聞くほど正直よく分からない。まるで現実感のない話のように聞こえた。短い沈黙のあと、水野さんは短くなった煙草を灰皿でもみ消しながら、
「原田さんは綺麗な灰色の猫に見えるよ」
 と言う。
「……灰色の猫」
「そう。四年の山口さんも似たような灰色の猫なんだ。だからしょっちゅう二人を見間違える」
 彼は新しい煙草に火をつけ、
「わけわかんないでしょ」
 と言った。わたしは少し視線を泳がせる。わかんないです、と言って笑ってしまえばこの話は終わりになるのだろう。でも、彼の話が嘘だとは思えなかった。こんな嘘をつく必要性なんてどこにもないはずだし、冗談を言うような口調ではないこともわかっている。
「……野沢先生はどんな猫なんですか?」
 わたしは、自分たちのゼミの担当教官を思い出しながら問う。野沢先生は年齢不詳の女性数学教授だった。二十代にも五十代にも見える不思議な雰囲気の人だ。声がやわらかく、一年生のうちは大体彼女の授業を聞いていると寝る。
「野沢さんは白。真っ白」
「……似合いますね」
 わたしはやわらかな声で数学の授業をする白猫のことを想像してみた。
 人が猫に見える。
 あるのだろう。そんなことも。わたしは彼の言葉を改めて胸の奥に落として、頷く。でも、その世界を想像してみるのは難しいことだった。人が人に見えないというのは、どういうことなのだろう。彼には猫がどんな風に見えているのだろう。現実に広がる風景と彼の見る景色は決して重なり合わないはずだ。そのことでどれくらい、齟齬が生まれてきたのだろうと想像する。想像がつかない。
「なんか……聞いてしまって大丈夫なんですか、その話」
 わたしは不安になって尋ねる。自分から話を振っておいて今更だけど、彼の人間性の根幹に関わるようなことを易々と聞いてしまって良かったのかと心配になった。水野さんは煙草の煙を吐き出しながら、
「まあ公言してるのは俺の方だしねえ」
 と応える。
「どうしても変な言動が目立っちゃうでしょ。上手な嘘も思いつかないし。事実を言っても信じてもらえなければやっぱりこいつ変な奴なんだなって思われるくらいだし」
 ね、とわたしを見て彼は笑った。
 水野さんはとても優しくて、人好きのする穏やかな笑顔を浮かべる人だけれど、一人でいることがとても多い。自分からは滅多に人に話しかけることはなく、いつもぼんやりと辺りを見ている。
「ずっとそうなんですか?」
 わたしの問いに、彼は曖昧に頷いた。
「そうだね。生まれたときからずっと」
 話だけ聞くと、それはまるでおとぎ話で語られる呪いのように聞こえた。百年眠り続けるお姫様だとか、カエルに姿を変えられてしまった王子様だとか。でも、きっとそんな単純なものでもないのだろう。
 ひとつだけ引っかかって、わたしは尋ねる。
「……水野さん自身は人間なんですか」
「そうだよ」
 わたしの問いに答えると、彼は薄く笑った。
 猫しかいない世界に、彼はひとりでいる。その光景を想像してみると、それはとても、寂しいように思えた。

    *

 ゴールデンウィークが明け、辺りはすっかり初夏の装いだった。理学部棟を囲うように植えられた桜の樹は青々とした葉を太陽に向けて一身に光を浴びている。気温は三十度近くなる日もあって、今から夏が思いやられた。ゼミ室で水野さんと雑談をしていると、
「年々春が短くなっていくのはどうにかなんないのかな」
 と彼は言う。水野さんは既に半袖を着ていて、この人は夏場どうやって暑さと戦うつもりなのだろうと思う。わたしはまだ七分袖で耐えている。
「水野さん虚弱体質っぽいから夏苦手そうですよね」
「偏見甚だしくない?」
 わたしの言葉に水野さんは眉間に皺を寄せたあと、
「まあそうなんですけど」
 と言って笑った。色の白い水野さんはいかにも夏が似合わない。
「あとみんな毛皮着てて暑そう。原田さんはまだ灰色だからいいけど黒猫見てるともう可哀想……ってなっちゃう」
「毛皮なんか着てないんですよ、本当は。今日だってわたしはカーキの七分袖のシャツですよ」
 彼の言葉に軽口で応えると、水野さんは少し口を尖らせる。
「夏場に猫見てるだけで暑いでしょ」
「あーわかる。わかりますよ。大変ですね」
「大変なんだよねえ、本当に」
 彼の言葉にあははとわたしは笑う。
 彼と初めて喫煙所で話をしてから、約ひと月が過ぎようとしていた。水野さんを見かけるたびに声をかけていたらいつの間にか随分仲良くなって、ごく普通に親しい先輩として接するようになっていた。
「わたしはそろそろ帰ります」
 時刻は午後二時を回ろうとしている。わたしは今日午後が全休なのだ。レポートを書こうと思って開いていたノートパソコンを閉じ、リュックにしまう。
「俺も帰ろうかな」
 水野さんは時計を見てそう言った。わたしはリュックを背負いながら、
「じゃあ一緒に帰りましょう」
 と応えた。

 大学の近くは学生の住むアパートが何軒も建っている。わたしは大学通りにあるスーパーの路地を少し入ったところにある1DKの部屋を借りていた。二階の角部屋。西向き。夕方、西日のせいで室温が跳ね上がる以外は概ね良い部屋だった。
 向かいにある水野さんの住むアパートは非常に古い造りで、ペットを飼うことも許可されている。水野さんは一階の角部屋で、拾ってきた茶トラ柄の猫と一緒に暮らしている。大学二年生の秋に飼い始めたからアキという名前だそうだ。
 家に帰ってからベランダで布団を干していると、窓辺に座ってアキが外を眺めているのが見えた。
 水野さんは、猫が好きだ。
 理学部棟に棲み着いた猫によく食べ物をあげているし、アパートの近くで怪我をしてうずくまっていたアキのことも放っておけずに病院に連れて行ってそのまま引き取ってしまった。自分以外の他者が全て猫に見える環境で、彼は、猫にとても優しい。
 ぼんやりとアキを眺めながら布団を叩いていると、水野さんが窓を開けてアキを抱き上げた。
「水野さーん」
 わたしは声をかける。水野さんはこちらを見上げて、
「やあ、布団干してるの偉いね」
 と言った。家事を褒められたわたしはふふふと笑って、
「水野さん、暇だったら夕ご飯一緒にどうですか?」
 そう続ける。水野さんは少し驚いた顔をしてから、ちょっと笑って「いいよ」と応えた。

 大学の近くの洋食屋さんは、安いのに美味しいので積極的に利用させていただいている。マスターのおじさんがひとりで切り盛りしているから料理が出てくるのにやたら時間がかかりはするのだけれど、大学生なんて基本的に時間が有り余っているのだから大した問題ではない。わたしはチキンハンバーク、水野さんはクリームコロッケの定食を注文した。
 向かいに座った水野さんは「吸っても大丈夫?」と尋ねる。もちろん、と応えると愛用している黄色いパッケージの煙草に火をつけ、
「原田さん」
 とわたしの名前を呼んだ。何でしょうと応えると、彼は、
「またレポートで煮詰まってるのでは?」
 少し笑ってそう言った。ウッとわたしは声を上げた。図星である。
「何故それを」
「さっきゼミでレポート書こうとしてたでしょ。画面が真っ白だったから」
 水野さんは応える。よく見ていらっしゃる……と絞り出すようにわたしは言った。
 高校生の頃数学が好きだったからあんまり考えずに数学科を選択したものの、大学数学はわけのわからない何かだった。公式とか計算とか、もうそういう次元の話じゃないのだ。概念だ。それでもまあ、選択してしまったのはどうしようもないのでこうしていろんな人に……まあここひと月は主に水野さんに助けてもらってどうにか授業に追いついている。
「今度レジュメ貸してくれたらざっとまとめて解説してあげるよ」
「神様だ……今日は奢らせてください……」
「あはは。いいよ、気にしなさんな」
 彼は空調の風下に向かって煙を吐き出す。
「水野さん、院まで進むって本当に数学好きなんですね」
 わたしが言うと、彼は少し視線を落として笑った。
「モラトリアムの延長って言っちゃえばそれまでなんだろうけどね。でも好きだよ、数学は。正しい答えは必ず用意されているでしょ。俺たちにはそれが見えてないだけ。人間の感性や価値観によって答えが変わらない」
 水野さんは少し照れくさそうに笑ってから、もう一度口を開いた。
「昔カントの哲学書を読んだらね、人間が世界の物理法則をすべて数式に当てはめるのは、数式を通してでしか人間が世界を認識できないからだって、そんなことが書いてあった。俺は哲学に全然明るくないからわかんないんだけど、俺たちが今見てる世界は全部、数学のような論理学的思考のフィルターを通して存在してるって、まあそんな話らしいよ。原田さんの世界も、俺の世界も同じ」
 だから数学は好きだよ、と言って彼はもう一本煙草に火をつけた。難しい話だきちんと理解できた気はしない。けれど「原田さんの世界も、俺の世界も同じ」というその言葉が少し、胸に刺さる。わたしは、彼の目に自分が猫として映っていることを思い返していた。自分ひとりが違う世界で生きている彼にとって、数学という学問はひとつの救いなのかもしれなかった。
「原田さんは、大学で数学やって嫌いになった?」
 水野さんの問いかけに、わたしは首を振る。
「今ちょっと、好きになりました」
「そう」
 ふふふと水野さんは笑って煙草を消す。話題が途切れても、まだわたしたちの前に料理が運ばれてくる気配はなかった。マスターは忙しなくカウンター席のお客さんの前にポークステーキを置き、セットの豚汁とごはんを並べている。
「ここのマスターは、どんな猫なんですか?」
 わたしは気になって尋ねてみた。
「錆柄だよ」
 水野さんは応える。わたしは頷いた。錆柄の猫には、白いコック帽がとてもよく似合うような気がする。
 窓の外に植えられた木から夕暮れの光が木漏れ日になって射し込み、わたしの向かいに座る水野さんの顔に影を作る。斑模様の光の中で煙草を吸う彼に、
「水野さんは猫ならきっとブチ柄ですね」
 というと、彼は一瞬目を見開いてから、目を細めた。
「ありがとう」
 彼は応える。なんで、お礼なんて言うんだろう。
 胸の奥がしびれるような感覚がした。彼は笑っているはずなのに、日差しのせいか泣きそうな表情に見えた。なんだか見ていられなくて、わたしは視線を落とす。
「水野さんが見てる世界のことを、もうちょっと理解できたらいいのに」
 呟くように言ったわたしの言葉に、
「そう思ってくれるだけで十分だよ。俺はひとりで大丈夫」
 彼は、優しい声でそう言った。
「こうして話ができるだけで、嬉しいよ、俺は」
 何か言葉を続けたいと思ったけれど何にも出てこない。俯いたままのわたしの前に、ちょうどタイミング良くマスターがチキンハンバーグ定食を並べた。
「揚げ物はもうちょっとかかるだろうから先に食べなよ」
 水野さんは吸いかけた二本目の煙草をもみ消して言う。わたしは頷いて、切り替えるように息を吐き手を合わせる。いただきます、と言うと、
「ちゃんと挨拶ができるの偉いねえ」
 と水野さんは笑う。いただきますを褒められるなんて何年ぶりかと思わず吹き出した。
「水野さんは布団干したりいただきますをいうだけで褒めてくれる……うちのおばあちゃんみたい」
「苦手な数学にちゃんと向き合うのも偉いねえ。佳奈ちゃんは偉いねえ、本当に」
 水野さんは本当におばあちゃんみたいな口調で言ってあははと笑う。わたしもひとしきり笑ってから「お褒めにあずかり光栄です」と応えた。チキンハンバーグを一口大に切る。ちょっと箸を入れるだけでほろほろと崩れた。ご飯に手をつけたところで水野さんのクリームコロッケ定食が運ばれてくる。
「コロッケって家じゃ作らないよねえ」
 手を合わせながら水野さんが言うので、
「わたし結構作りますよ。肉じゃがのあととか」
 と言った。水野さんはコロッケを箸で半分に割る。きつね色に揚がったパン粉に湯気の立つクリームソースが絡む。
「余った肉じゃがコロッケにする人なんだ」
「コロッケにする人です」
「凄い。偉い」
「今日めっちゃ褒めてもらえる」
 今度余ったら持っていってあげます、とわたしは言う。水野さんは嬉しそうに「うん」と頷いてコロッケを口に運んだ。美味しそうにご飯を食べる人だなと思って、少し、泣きたい気持ちになった。

    *

 それから、わたしは水野さんのことをよく考えるようになった。理学部棟の喫煙所に必ず彼の姿を探すようになったし、バイト先からアパートに帰ってくると彼の部屋に電気がついているか気になった。
 ときどき、アキがうちのアパートの駐輪場で休憩していることがある。赤い首輪に鈴をつけられた茶トラの猫に寄っていくと、彼女は一度こちらを見て興味なさそうに一度大きくしっぽを振った。
「アキ、水野さんは?」
 わたしはそう言いながらアキの前にしゃがみ込んで彼女の喉もとを撫でる。アキはゴロゴロと喉を鳴らして高い声でニャと小さく鳴いた。
「何言ってるかわかんない」
 わたしは少し笑って言う。アキはそのうち撫でられるのに飽きたのか、わたしから少し距離を取ってまた寝そべった。
 アキは人間が嫌いというわけではないけれど、過剰に人に懐こうとしない。理学部棟に棲み着いた野良猫たちに比べたらそんなに人間に媚びを売らなくても満足に生きていけるからかもしれない。彼女も水野さんに拾われる前はずっと野良猫だったのだろうけど、その頃はどうだったんだろう。知る由もなかった。彼女と話をすることはできないのだから。
「アキ」
 名前を呼ばれた彼女はまたしっぽだけでわたしに応えた。
 アキという名前は、茶トラ柄の彼女によく似合った。彼女の毛皮はふわふわとしている。しなやかな身体のラインと、ピンと立った耳、小さな額、丸い金色の瞳、桃色の鼻、長く伸びた鍵しっぽ。わたしはアキの隣で、じっと彼女の姿を見ていた。
 世界中が、このやわらかくて気まぐれな生き物で満ちているのを想像してみる。
 中には人の言葉を話すものと、猫の言葉を話すものがいる。声をかけてみなければ、その辺りに座って休憩している猫が人間なのか本当の猫なのかわからない。
 そんな世界に一人でいる。
 水野さんはひとりで大丈夫だという。そんな世界が当たり前だという。本当にそうなのだろうか。寂しいに決まってるじゃないか、そんなの。
 彼の目に、人の姿で映りたいと願う。わたしは、自分の爪に視線を落とした。最近マニキュアを変えた。桜の色が綺麗で気に入っていた。でも、水野さんがそれを知ることは決してないのだと思うと胸がじくじくと痛む。
 寂しいのは、わたしの方なのかもしれない。
 アキはひとつあくびをすると、わたしの前を通過して自分の家へ向かっていった。わたしも立ち上がって、鞄から鍵を取り出す。
 最近ずっと、こんな調子だ。

「その先輩が好きになったわけね」
 一年の頃から仲良くしている哲学科の美咲はわたしの話を聞いて「ふうん」と相槌をうち、愉快そうに笑う。
 わたしの部屋で一緒に作ったカレーを食べながら、わたしは彼女に水野さんのことを話していた。同じゼミの院生の先輩であること。いつも大体一人でいるけれど優しい人であること。おばあちゃんみたいに何でも褒めてくれること。
「佳奈ちゃん、野村くんに振られてから一切男っ気なかったから安心しました」
「安心しましたって。でもわたし告白する気ぜんぜんないよ」
 わたしは苦笑を漏らしてそう言った。美咲は首を傾げる。
「なんで? 一緒にご飯行ってくれるくらい仲良いならワンチャンいけるでしょ」
「いやー、なんて言ったら良いのかな」
 わたしは水野さんが見ている世界のことを目の前の友人に話していいものか躊躇する。少し考えてから、
「例えば、美咲の目にわたしが人間として映ってなかったら、どう思う?」
 と言った。唐突な質問に美咲は一瞬虚を突かれたような顔をしてから、少し首を傾げた。
「具体的には?」
「人間以外の動物に見えちゃうとか」
「あー、萩尾望都のイグアナの娘みたいな?」
「多分……わたしそれ読んでないから何とも言えないけど」
 わたしの応えに、美咲は少し考えるような間を取って困ったように割る。
「どう思うって言われると難しいけど……」
「人間じゃないんだよ。自分とは別の生き物なんだなって思わない? 恋愛対象にならないんじゃない?」
 畳みかけるように続けるわたしが鬼気迫って見えたのか、美咲は驚いた顔をして、
「そうねえ……」
 と再び逡巡した。それからすぐに、はっと何かを思い出したように顔を上げた。
「わたし、聞いたことあるかもしれない」
「え?」
「うちの院生の先輩が言ってた。理学部の友達に、人間がみんな猫に見えてしまうやつがいるって……」
 その人なの? と、美咲がわたしの目を覗き込んだ。頷く。そっか、と神妙な顔で彼女は息を吐いた。
「疑わないんだね」
 わたしは、俯いた美咲にそう言った。彼女は顔を上げる。
「え、なにが?」
「人が猫に見えるってこと。わたし最初に聞いたとき、ちょっと疑っちゃったから」
 だから美咲が素直に水野さんの話を受け入れたことに驚いたし、その柔軟性を羨ましいとも思った。
 そう言うと、美咲は眉を下げた。
「すんなり信じるのは難しい話だと思うよ。わたしはただ、自分の先輩が言ってたからワンクッションあったってだけ。その先輩、本当に真面目で冗談とか一切言わないんだけど、自分の研究のためにその友達にたくさん話聴いたって言ってたから」
 わたしは頷く。優しい友人の言葉に甘えて自分を許しながら、
「……だからね、自分と全然違う世界で生きてる水野さんのことを、好きになっちゃいけない気がするんだよね」
 そう続けた。美咲は再び怪訝そうな顔をする。
「それがわかんないんだよね。なんで?」
「彼にとってわたしはいつも灰色の猫で、ここにいる原田佳奈の姿は見えてないわけでしょ。わたしが知ってる、わたしじゃないんだよね、水野さんが見てるのは。なんかね、それがね、寂しいなって思って。わたしは、これ以上近づいたらいけないよなって」
 空になったカレー皿に視線を落としながらそう言うと、美咲はなるほどね、と頷いた。
「まあ、わかるけどね。佳奈ちゃんの言いたいことは。でも、そんなの、大なり小なり人間はみんなそうだよ」
「みんなそうって?」
「うーん、例えばね、」
 美咲はかけていた眼鏡を外す。
「こうしてしまえば、佳奈ちゃんが普通に見えているものが、わたしには全然見えなくなるでしょ」
 美咲は眼鏡をかけ直すと、
「同じものを見てるって信じてる人たちも、相手の目で世界を捉えることなんかできないんだから、それが本当に同じものかなんて誰にもわかんないんだよ。佳奈ちゃんの見ている赤色がわたしにとって青色でも、わたしも佳奈ちゃんも一生それに気付くことはできない、みたいな話」
 そう言ってわたしの目を見た。
「クオリアってあるでしょ」
「はじめてきいた」
 わたしは応える。医学用語で、哲学でもしょっちゅう出てくるワードなのだと彼女は言った。
「どういう意味?」
「感覚質。世界をどんな風に受け取るか。悲しいって思うとき、嬉しいって思うとき、沸き上がるあの感覚。赤を赤と、猫を猫と捉えるときのあの感じ」
 美咲は一度ゆっくりと瞬きをした。彼女の目に映っている世界とわたしの目に映っている世界が別物であるということを、わたしは想像しようとする。言われてみれば、それはそうなのかもしれない。
「みんな一緒だよ。誰も彼もみんな、自分の世界にひとりぼっちで、それは一生変わらないの」
「悲しい話だね」
「それでも、誰かと手をつなぐことはできるでしょ」
 美咲はわたしの右手を一度強く握り、それから空になったカレー皿を持って立ち上がった。洗ってくるね、と台所に向かう美咲にお礼を言いながら、わたしは自分の手を見下ろした。見慣れた五本の指。桜色のマニキュアを塗った爪先。この形もこの色も、水野さんには見えない。それなら、手を繋ぐということは、なんて寂しい行為なんだろうと思った。
 そんな風に、思ってしまうわたしは馬鹿なんだろうか。
「好きにならなかったら」
 わたしは呟く。皿を洗っている美咲にはわたしの声は聞こえていない。
「好きにならなかったら、こんな風に勝手に寂しくなったりしなかったのにな」
 

    *

 その日の夜、夢を見た。
 わたしは水野さんの家を訪ねている。そこに彼の姿はなく、二匹の猫がいた。一匹は茶トラのメス猫だ。アキだとすぐにわかった。アキはわたしの方を見ると特に興味なさそうにしっぽを振って窓の外に視線を投げた。もう一匹は少し大柄なブチ柄の猫だった。猫は聞き慣れた声で、
「やあ、いらっしゃい」
 と言った。水野さんだと、そこで気付いた。わたしは驚いて立ち尽くしている。
「どうかしたの?」
「水野さん、猫に……」
「猫?」
 わたしの言葉に、水野さんは不思議そうに首を傾げる。そのとき、わたしは「ああこれは夢だ」と思った。彼のことが猫に見える夢を見ている。
「何でもないです」
 わたしは笑って、彼の隣に座る。落ち着かなかった。猫の水野さんは、いつもよりずっとわたしと別物の生き物のように思えた。しなやかな身体のブチ柄の猫は、若草のような緑色の目でわたしの手を見て、
「爪綺麗だね」
 と言う。綺麗にしてて偉いねえ、と水野さんはおばあちゃんみたいな口調で続ける。ああ、見えているんだと思った。水野さんには、この夢の中では、わたしがちゃんと人間に見えているのだ。ずっとそうなってほしいと思っていた。ずっとその一言が欲しかった。それなのに、神様はなんでこんな残酷な夢を見せるんだろう。わたしには、水野さんが水野さんに見えない。ずっと遠く見えてしまう。酷く寂しくなって、彼のやわらかそうな手を握った。あたたかさだけが救いで、あとはもう全部、絶望だった。
「好きになんかなれないですよね」
 わたしは言う。目の前のブチ柄の猫は、少し不思議そうに首を傾げる。
「自分と全く違う生き物を、好きになんかなれませんよね。あんまりに遠すぎるから。違いすぎるから。わたしには、あなたの見ている世界が、理解できないから。あなたにはわたしが、見えないから」
 顔を上げれば、猫は酷く傷ついたような顔をしていた。
 わたしは取り返しがつかないことを言ってしまったような気がして、必死に取り繕う言葉を探そうとする。でも何も言えないまま目が覚めた。酷い気分だった。

    *

 これは、全部わたしの後悔の話だ。
 あの夢を見たあと、わたしはあまり彼に関わらなくなった。彼からわたしに話しかけることはほとんどなかったから、わたしから積極的に近寄っていかなければ、距離は自然と離れていった。わたしは恋心を忘れようと必死になっていたのだと思う。それでも、理学部棟に棲み着いた猫が相変わらず彼のそばに寄っていくのを見かけると胸が苦しくなった。一度好きだと思ってしまったこの気持ちを簡単に捨てることなんてできずに、わたしは宙ぶらりんな日々を送る。今日も、同じように。
 空は、今にも雨が降りそうな重たい曇り空だった。気付けば初夏は終わり、季節は梅雨へと移り変わっていた。太陽光の降り注ぐ夏のような青空は姿を隠し、灰色の雲ばかりが頭上を覆っている。肌寒い日が続き、一度はタンスにしまった長袖のシャツに腕を通すことも多くなった。
 わたしはいつものように喫煙所の前を通り過ぎようとする。けれど、今日は、耐えきれなかった。彼の隣に立った。人の少ない時間、その場所に誰もいないのを見計らって。
「こんにちは」
 彼はいつものようにわたしに声をかける。それに応えず、わたしはじっと彼の隣で身を縮めていた。そうしているとそのうち、水野さんの大きな手がわたしの頭に伸びる。
 水野さんはわたしを、人間ではなく猫だと認識したようだった。軽くわたしの頭に触れた手は、大きくてあたたかかい。
「……君によく似た子がね、いるんだ」
 小さな声で、ぽつりと水野さんが言う。
「明るくて、人なつっこい子でね、俺は随分、助けられていたんだけど……」
 そのあとも彼の独り言は続いたけれど、聞き取れなかった。水野さんが誰の話をしようとしていたのかわたしにはわからない。わたしによく似た灰色の猫が他にいるのかもしれないし、もしかしたら……それは、わたしのことだったのかもしれない。「実は原田でした」と冗談みたいに名乗ってしまおうかと一瞬だけ考えた。でも、そんなこと今更できるわけもなかった。
 わたしは何がしたいんだろう。
 急にどうしようもない気持ちになって、逃げるようにその場を去った。こんなことをして、何になるのだろう。水野さんの声に言葉を返すことも、猫のように喉を鳴らすこともできない。自分の気持ちに整理をつけることも、真っ向から向き合うこともできない。ただ彼の手があたたかかったことだけ頭から離れなくて、余計に寂しくなった。

 それからも、わたしは彼に話しかける勇気を持てないまま、長い梅雨を過ごしていた。今年の梅雨は例年より長く、各地で豪雨による自然災害が起きている。この街は特に大きな災害には見舞われなかったけれど、盆地のせいもあるのか、雨が降ると嵐のように強い風が伴った。
 そんな大雨の日に、猫しかいない彼の世界は突然、終わりを迎えた。

 それが、彼にかけられた呪いの終わりならばどんなに良かっただろう。彼の目にかけられた呪いがとけて、水野さんはごく普通の世界を取り戻して、わたしに「やあ、原田さんはそんな顔をしていたんだね」といって笑ってくれたらどんなに良かっただろう。
 交通事故だったそうだ。
 水野さんは道路に飛び出した子猫を助けようとして車にはねられたのだと聞いた。雨で道路が滑りやすくなっていたこともあり、運転手が急ブレーキを踏んでもトラックの速度は落ちなかった。即死だったそうだ。
「猫を庇って死ぬなんて」
 と囁くように噂する人もいたけれど、水野さんの見ていた世界を知っている人はただ、目を伏せるばかりだった。

 猫のアキは、水野さんの家から荷物が運び出すときにどこかへ行ってしまったそうだ。美咲の哲学科の先輩が里親になろうと水野さんのアパートを訪れたときには、彼女の姿はどこにもなかったらしい。もう水野さんがどこにもいないことを、アキはちゃんとわかっていたのだろうか。それともいなくなった水野さんを探しに行ってしまっただろうか。わたしには知る由がない。彼女はもうどこにもいないし、彼女と話をすることも最初からできなかったのだから。
 葬儀を終えて、わたしは、昨日作った肉じゃがの残りを冷蔵庫から取り出す。肉じゃがを作るときは、合い挽き肉とにんじんと玉ねぎと、たくさんのじゃがいもを入れて大量に作る。三日分くらいの量になる。翌日に味の染みこんだ肉じゃがコロッケにするためだ。煮汁を捨てて、具材をボウルに移して潰す。じゃがいもはそこそこ原型を残しつつ、ある程度潰したら手で形を整える。小麦粉と卵とパン粉にくぐらせて、熱した油に入れた。

――コロッケって家じゃ作らないよねえ。
――わたし結構作りますよ。肉じゃがのあととか。
――余った肉じゃがコロッケにする人なんだ。
――コロッケにする人です。
――凄い。偉い。

 他愛もない、いつかの会話が蘇る。あのときわたしは、余ったら持っていってあげますと、褒められていい気になって言った。結局一度も、彼にコロッケを振る舞う機会はなかった。褒めてくれただろうと思うのだ。あの優しい口調で「美味しいよ。偉いねえ」と、いつものように。
 水野さんに、会いたいと思った。
 コロッケをキッチンペーパーに上げながら、わたしは泣いた。彼が言ってくれたことを、彼が話してくれたことを、なぞるように思い出す。

――原田さんは綺麗な灰色の猫に見えるよ。

 もう、その猫もどこにもいない。
 わたしと重なりあっていた灰色の猫は、彼と一緒に消えてしまった。さいごに水野さんに会った日、わたしは猫の振りをした。彼のそばに寄り添った灰猫。消えてしまった猫。自分の一部が消えてしまったような気がした。見えない世界だったはずなのに。わからなかったはずなのに。どうしてこんなに、胸が痛いのだろう。
 コンロの火を消した。そのまま、耐えきれずにしゃがみ込む。記憶は涙と一緒に、雨のように降ってくる。

――話しかけて、応えてくれるのが人間。応えないのが猫。
――こうして話ができるだけで、嬉しいよ、俺は。

 もう、何もかもが遅い。今更のように、わたしは思う。

 灰猫の目の色を、聞いておけばよかった。

 わたしがどんな色の目で彼を見てたのか、聞いておけばよかった。どんな風に、わたしは、彼を見ていたんだろう。話ができたのに。言葉は通じたのに、あのときどうして、どうしてわたしは、猫の振りをしてしまったのだろう。聞こえないふりをしてしまったのだろう。彼に挨拶を返さなかったのだろう。見ているものがわからないから、見てもらえなくて寂しいから、寄り添えないと思っていた。でも、もう二度と会えなくなるくらいなら、わからない世界を、わからないまま、大事に思えたらよかった。彼にはこの世界が、どんな風に見えるのか聞いておけばよかった。もっと数学の話を聞いておけば良かった。話を聞いて、あなたのことが好きだと、言えばよかった。

 もう、全部遅い。
 遠くで、猫の声が聞こえたような気がした。それは縋り付くような寂しい声で、何度も何度も、誰かを呼ぶように鳴いている。
 それもやがて、降りしきる雨の音に掻き消されて、聞こえなくなった。

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