見出し画像

Proluvies

    世界の終わりは黄昏に訪れるのだと、彼女ははじめて知った。

 飴色に染まった空はどこまでも透き通り、高い場所に鱗雲が見える。夕焼けの名残をとどめた光はゆっくりと弱まっていくようだ。太陽を見なくて良かったと彼女は思う。随分長く海の底にいたから、その光の強さに目が潰れてしまったかもしれない。
 さざ波の寄せる浅瀬で、彼女はひとり空を見上げている。

     *

 遠い昔、世界が生まれた頃。
彼女は、彼と二人だった。
 あまりに巨大で脅威に満ちた彼らが子をなしてはならないからと、神様は彼だけを殴り殺したのだ。彼女はひとり海の底に沈んで世界を背負い、気の遠くなるような時間を過ごした。
そして今、世界の終わりを見届けようとしている。

 やわらかな風が吹く。海辺は信じられないほど静かだ。本当にこのまま、終わりが来るのかと不安になるほどだった。
 その時、
「――龍」
 囁くような声が静寂をそっと裂いた。
「龍だ。本当にいたんだな」
 足もとで聞こえた声に彼女は視線を落とす。ギターを抱えた人間の青年がひとり、自分を見上げている。終末の海辺に、そのやわらかな曲線を持つ楽器と生き物は場違いのように見えた。
「……人間? まだ生きていたの」
 この小さな生き物を、彼女はとうの昔に滅んだものだと思っていた。怪訝そうな彼女に彼は少し笑って口を開く。
「俺は人間じゃないよ」
 俺はロボットだよ。彼はそう続けた。
「ロボット?」
「そう。機械だよ。曲を作るロボットだ」
 彼はそう言って、砂浜に座りギターを抱えた。

    *

「人のココロを持たないロボットが、人のココロを揺らす曲が作れるのか」
 歌うように彼は言う。「もう、人間なんてどこにもいないけど」と続けた声に、彼女は一度ゆっくりと瞬きをしてから頷く。
「何故音楽を、こんな時まで」
 彼女は視線を遙かな空へ移した。彼の弾くギターの音は、さざ波と混じり合うように響いては消える。
「仕方ないんだ。そういう風にプログラムされているんだから」
「そうやってずっと弾いていたの、人間がいなくなった後も」
「弾いてただけじゃないよ。打ち込みの方が得意だったんだ」
 彼が懐かしそうに口にした言葉の意味を、彼女は理解しかねたまま頷いた。
「世界は終わるのかい」
「終わるわね、もうすぐ」
 空は透明感を保ったまま、終わりの気配に青ざめていく。東の空は宵闇をまとい、浅瀬もゆっくりと海底と同じ暗い色に変わっていく。
「俺はあなたのことを知っているよ。世界創造の五日目に作られた幻獣。雄は神様に殺され、雌だけが残り、あなたはひとり海底で世界を背負っていた。世界の終わりの日、神様の食物にされる。そうだろう、絶海の王龍」
「そう。その終わりの日をわたしは、ずっと待っていたのよ」
 彼女はやわらかく笑って、そう応えた。

    *

 海の底は重くて暗かった。目を閉じても開いても同じ夢を見た。彼が殴り殺されてわたしはひとりになる。あの瞬間を、もう何度繰り返したかわからない。あのとき、何故わたしも一緒に殺してくれなかったのだろうと彼女は何度も思った。
わたしも神様の手にかけられて死ねば、神様に食べられたら、もう一度あの人に会えると思った。
 その日を、ずっと待っていた。

「星が終わるときにはFの音が鳴るんだって」
 青年は淡々とした口調で言う。ファの音、と言いながらギターを鳴らした。
「何処か遠くで誰かが聞く、この星の最後の音楽だ。あなたは、その音が鳴るころにずっと会いたかった人に会えるね」
 彼女はじっと彼の目を見る。
「俺には寂しいとかそういうのはよくわからないけれど、ずっとひとりで寂しかったろう」
 そう言った、彼の視線が泳いだのを彼女は見逃さなかった。彼女は一度瞬きをして、それから、姿を変えた。
 人間の少女を象って彼の前に立つ。
 足の指の間にざらりと砂が触れた。かかとを波が撫でていく。音が止んだ。

「あなたも待っていたのね。ずっとひとりで、寂しかったでしょう」

 彼は目を見開いている。
 ギターを置いて立ち上がり、そっと両手を彼女の頬に伸ばす。震えた指先が、やわらかな肌に触れた。潤んで真っ赤になった彼の目を見て、彼女は目を細める。
「嘘を吐いたんでしょう。あなたは機械なんかじゃない」
 その言葉にはっと我に返ったように、彼は手を下げ少し笑った。
「機械だよ――もう、同じだ。機械なんだよ。曲を作るためだけに生きながらえた、それだけの。そこに意味も意思もない。誰もいない。誰にも聞こえない。だから、」
 彼は笑った。細めた目尻から、海と同じ色の雫が零れる。
「人間がみんないなくなったときに、ココロなんて捨てた。二十一グラムしかないんだ。ヒトのココロは。簡単だったよ。捨てるのなんて」
 そう言って、彼はギターを手に取る。震える手が音を紡ぐ。波間に溶けるような、誰かを呼ぶような、優しくて苦しい旋律だった。

「この世界が最後に、最後に残すものが、音楽だなんて」

 神様は聞いているかなと、彼は呟く。瞬間、あたりに満ちていた波の音が消えた。風の音も、何もかもが消える。無音に驚いたように、彼はギターを弾く手を止めた。
 彼女は視線を上げた。闇に飲まれていたはずの空が、懐かしい色に染まっていた。生まれた頃に見た、あの人と一緒に見た――
「――朝焼けみたいだ」
 呟いた彼の声に、彼女は「そうね」と頷いた。
 彼は再び、ギターの弦に手を伸ばす。
 最後の音を、そのやわらかな指先で鳴らした。



noteをご覧いただきありがとうございます! サポートをいただけると大変励みになります。いただいたサポートは、今後の同人活動費用とさせていただきます。 もちろん、スキを押してくださったり、読んでいただけるだけでとってもハッピーです☺️ 明日もよろしくお願い致します🙏