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【短編小説】ReCorrection

 今はもう、どこにもいないきみへ

 ***

 九歳の頃、仲の良い友達ができた。僕は彼女のことを、メーと呼んでいた。
 メー。
 メーちゃん。
 彼女は僕と同じ年くらいの女の子で、鈴を転がしたような高い声をしていた。細い黒髪は肩の辺りで揃えられていて、いつも似た白い服を着ている。目の色は青。綺麗な青だったことを、よく覚えている。
 メーと出会った頃、僕は父親と二人暮らしになったばかりだった。母は僕の九歳の誕生日の翌日に家を出て、そのまま帰ってこなかった。それから十四年間、僕は一度も母に会っていない。
 母がいない毎日に、どのように折り合いをつけていたのか、そのときの感情はもうあまり思い出せない。母がいなくなった経緯を、父はそんなに詳しく説明しなかったと思う。父にもよくわかっていなかったのかもしれない。
 ただ、これから僕は父と二人で生きていかなければならないことだけはわかった。祖父母の家は遠く離れているし、他に頼る人もいなかった。父は変わらず仕事に行って、夜まで帰ってこない。そんなときに、メーは僕の前に現れた。
 メーはいつも玄関先に座って、僕が学校から帰ってくるのを待っていた。膝を抱えてうつらうつら船を漕ぐ彼女に「ただいま」というと、眠そうな顔でこちらを見た。
「おかえりい」
 と、青い目をゆっくり瞬く。いつもそうだった。クラスの友達と寄り道をしても、家に帰れば必ず彼女が玄関先でうたた寝をしていた。
 僕が首から提げた鍵でドアを開けると、メーは僕より先に、真っ先に居間のソファに座った。僕はランドセルを下ろし、手洗いうがいを済ませてからソファに座る。
 大体いつもこの時点で、メーは不機嫌になった。
「ソファはめーちゃんのだよ! 座らないで!」
「いやだよ」
「ナオはあっちいって」
「いやです」
 そんなやりとりばかりしていた記憶があるから、実際のところ、僕らはあんまり仲良くなかったのかもしれない。
「いじわる!」
「どっちが!?」
 ソファを独り占めしたかったメーはしばらく不服そうな顔で僕を見ていたが、窓辺に転がっているボールに気付くと、機嫌を直してそちらに寄っていった。僕はわがままで落ち着きのない友人の動向を見て、「何なんだ」と口をとがらせた。メーには聞こえていない。
 僕はランドセルから漢字練習帳と算数ドリルを取り出す。どちらの宿題を先に終わらせるか悩んで、苦手な算数の方を選んだ。
 しばらく黙って割り算の文章題を解いていたが、だんだん退屈になってくる。僕は二、三度、メーの方を見た。メーは窓辺に寝転んでボールを投げて遊んでいる。
「メーちゃん」
「なあにー?」
 名前を呼ぶと、彼女はこっちを向かずに高い声で応える。僕は彼女の手と壁の間を行き来するボールを見ながら、口を開いた。
「今日ね、昼休みにみんなとドッジボールをしてたんだけど」
「ケイくんたち?」
「うん」
「ボールぶつける遊びでしょ! いたいやつ!」
「そう。それでさ、ボールが顔に当たってね」
「ナオの?」
「うん。ほんとに痛かったんだよね。おれ泣いちゃってさ」
「かわいそう」
 メーはやっと僕の顔を見て、立ち上がってこちらに近づいてきた。最初はちょっと嬉しかったのだけど、想定していたより近くに寄ってくるので戸惑った。メーは僕の隣にぴったり寄り添って、顔を寄せる。
「近い近い」
 息がかかるほど距離を詰めてくるメーに、どぎまぎして声が裏返る。彼女は構わず僕の顔をまじまじと見ていた。青色の丸い目を何度もまばたいて、
「まだいたい?」
 と、首を傾げた。肩まで伸びた、柔らかそうな黒い髪の毛が揺れた。
「もう平気。だいじょうぶだから」
 そう言いながら、少しだけ彼女から距離を置いた。
「あんしん」
「ケイともちゃんと仲直りした」
「えらーい」
 メーはぱちぱちと手を打って、また距離を詰めてくる。この子は僕の隣に来ると、いつも必ず身体を寄せてきた。視界に入る肌は驚くほどに白く、体温がじわじわと伝わってくる。こちらは小学生といえども男なわけで、僕の隣で満足げに目を細めているメーをまっすぐに見られない。
「もうボール遊びは良いの」
 僕はメーが転がしたままにしているボールに、視線を移す。
「いいの。あきちゃった」
 彼女はそう言って「んふふ」と少し笑った。
 メーはひどい気まぐれだ。僕が近づけば遠くにいくし、ソファを独り占めできないと怒るのにいざ譲ると寂しがるし、遊んでいてもすぐに飽きるし、目を離した瞬間に眠っていたりする。今だって彼女は体重をこちらにあずけたと思えば、寝息を立て始めた。僕は彼女に寄りかかられたまま、算数の問題に集中しようとする。が、ダメだった。手が止まる。鉛筆を置いて、メーの頬に触ってみた。彼女は本当に嫌そうに振り払う。
「そんなに嫌がらなくてもいいじゃん」
 僕の言葉なんか聞こえちゃいない。彼女はすやすやと寝息を立てている。僕は息を吐いて、鉛筆を持ち直した。落ち着かないし、退屈だけど仕方がない。宿題を終わらせよう。
 それから十五分くらい黙々と割り算をしていると、メーがいきなりぱちりと目を開けた。
「おきた?」
「おなかすいてきた!」
 寝起きとは思えない俊敏さで立ち上がり、メーは台所に走っていく。僕は呆気にとられて、ちょっと笑ってしまった。
「落ち着きがないですよ」
 担任の谷口先生の口調を真似してみる。彼女にはまったく届いていないようだ。台所の方でがちゃがちゃ騒がしくしているなと思ったら、「ナオー」と僕を呼ぶ。立て続けに三回呼ぶ。僕は最後の問題が解けるまで、しばらくその声を無視していた。
「ナオってば!」
 しびれを切らしたメーが、再び居間に顔を出す。僕は頭を掻いて振り返った。
「おれ宿題してるんだってば」
「味付け海苔たべたい」
「もうちょっとで終わるから待ってよ」
「味付け海苔出して。あと麦茶」
「聞いてる?」
 いいから、と全く話を聞かない彼女は、強引に僕の腕を引っ張って台所に導く。もうこうなってしまっては何を言おうが無駄だ。僕は観念して彼女について行った。冷蔵庫の隣の棚から味付け海苔の缶を取り出すと、メーが嬉しそうにこちらを見ている。このまま渡せば一缶食べ尽くしてしまう。僕はそそくさと缶をしまい、二枚だけ彼女に差し出した。「ふふふ」と嬉しそうにメーは笑う。
「味が濃いからあんまり食べちゃダメ。せめて焼き海苔にしろよ」
 僕の忠告に、メーはものすごく不機嫌そうな顔をする。
「あれあんまりおいしくないじゃん。歯につくし」
「歯につくのは味付けもおなじだろ」
「麦茶飲みたい」
 会話が成り立たない。わがままかよとぼやきながら、僕はグラスを取り出して麦茶を注いだ。彼女は青い目を細めて、ゆっくり味付け海苔を食べている。
 僕はメーの前に麦茶のグラスを置き、ふと思い立って子供部屋に向かった。ほとんど物置としてしか機能していない学習机の上には、ビデオカメラがある。母が誕生日の日に僕を撮っていたビデオカメラだ。母がいなくなった日、これだけがテーブルに残されていた。父に使い方を教えてもらって、僕はもうすっかりこの機械を使いこなせるようになっている。
 台所に戻ると、まだ海苔を食べているメーにレンズを向けて、録画ボタンを押した。ピピッという電子音に気付いたメーが顔を上げ、こちらを睨み付ける。
「顔こわいよ。そんな怒らなくてもいいじゃん」
「めーそれきらい」
 メーは黒いレンズが怖いそうで、ビデオカメラがあまり好きではなかった。
「これは悪い機械じゃないよ」
 僕は言う。これは悪い機械じゃない。思い出を集めておけるものなんだと続けた。
「いつかお母さんにまた会えたら、これで撮ったものを見せるんだ」
 画面越しにメーは青い目を三回瞬いた。それからこちらに近づいてくる。ほら、また近い。どんどん寄ってくる。画面一杯にメーの顔が映し出されて、僕は笑う。
「味付け海苔おいしかった?」
 僕は問う。
「おいしかった」
 と、メーは笑った。

    *

 子供部屋のベッドで眠っていると、ときどき夜中に目が覚める。豆電球にした部屋の照明をぼんやり眺めていると、何だか喉の奥が熱くなった。涙が出る前の、苦しい感覚。何で泣きそうなのか、自分でもよくわからない。悲しいのかも、怖いのかも。ぎゅっと目を瞑って眠ろうとするほど、頭がクリアになった。自分が息を吸って吐く音だけが聞こえる。吸って、吐いて、吸って、吐いて。意識すると上手に息ができなくなる。苦しくなった。喉の奥の熱いかたまりが上がってきて、横になった僕の両目から涙がこぼれる。どうすれば止まるか思いつかない。どうすれば苦しくなくなるのか、わからない。布団を被る。重たい黒色が視界を埋めつくす。どんどん濡れていく枕が冷たかった。
「ナオ」
 そのとき、名前を呼ぶ声が聞こえた。気のせいかと思ったが、何度もナオと呼ばれる。怪訝に思いながら布団を剥ぐと、トントンと誰かが窓を叩く。誰か、というか、誰なのかはわかっていたのだけど。
 僕はベッドから下りて、窓の外を見た。案の定、外からメーがこちらを覗いている。
「メーちゃん、どうしたの」
「寒いから入れてー」
 窓を開けると、彼女は窓枠に手をかけて軽々と部屋の中に入ってくる。
「ねむたーい」
 と言いながら、まっすぐに僕のベッドに入った。
「えっ、ちょっ、待って待って」
「なあにー? 寝ないの?」
 慌てる僕にまったく構うことなく、彼女は僕の分のスペースを空ける。
「ええ……」
 情けない声が漏れたが、いつまでも立ち尽くしているわけにもいかない。僕は観念してベッドに戻るが、真夜中に女の子と同じベッドにいるなんて状況に対応できるわけがない。心臓がばくばく言っている。涙なんか一瞬で止まったし、呼吸の仕方がわからなくなってたことも忘れた。
「ナオ、どうしたの?」
「どうもしないけど……」
 メーは一度、不思議そうに首を傾げ、それから僕に背中を向けて、いつものように丸くなった。僕も背を向け、そっと彼女の方を伺う。規則正しく肩が上下しているのが分かった。寝付きの良いメーのことだ。もう寝てしまったんだろう。そう思って、僕も目を閉じる。そのときだった。
「泣いてたの?」
 ぽつりとメーが言った。その問いかけにぎくりとして、僕は彼女の方を振り返る。メーはいつの間にか、こちらを向いていた。
「なんで泣いてたの?」
 青い目にじっと見つめられ、恥ずかしくなって視線を逸らす。
「わかんない。けど、」
 ときどきこうなるんだ。
 自分でも聞き取るのがやっとなほど、小さな声で僕は続けた。
「へいきだよ、ナオ」
 彼女は僕の手を握って、「んふふ」といつものように笑った。
「めーがいつも一緒にいるからね。めーちゃん、さっきナオの夢を見てたの。だから会いたくなったの」
 つられるように、僕も笑った。
「おれもよく、メーちゃんが夢に出てくる」
「いっしょだねえ。一緒にいるからね」
 彼女の手はあたたかかった。僕はうん、と頷いて、左手で彼女の手を包み込んで目を閉じた。

 翌朝になれば、いつの間にかメーはいなくなっている。
 昨日のあれは夢だったのではないかと思ったけれど、彼女のために空けたスペースはそのまま残っているし、少しだけ窓が開いていた。僕は寝起きの頭でぼんやりと自分の両手を見下ろし、ひとつあくびをした。目を擦って時計を見て、
「寝坊した!」
 僕は悲鳴のような声を上げて、部屋を飛び出した。
 居間に行くと父は悠長に朝食を食べていて、
「おお、おはよう。もう学校行ったかと思った。食べる?」
 呑気な調子で僕にもトーストを勧めた。僕は、
「いらない!」
と短く断って、歯磨きと着替えだけ済ませて玄関へ向かった。
「行ってきます!」
「気をつけてー」
 父の間延びした声を背に、全速力で学校まで走る。

 思い返せば、この日は朝からついていなかった。

 登校中にガムを踏んづけるし、もちろん遅刻するし、午前中、算数の授業であてられた問題が全然わからなくて、恥ずかしい思いもした。給食のときには牛乳争奪じゃんけんでケイに負けるし、午後の体育のサッカーで、うっかりオウンゴールを決めてしまってチームメイトから怒られた。放課後に校庭のブランコで遊んでいたら六年生にどやされるし、帰りにまたガムを踏んだ。一日に二回ガムを踏むことなんてあるか?もう本当に勘弁してほしかった。
 そして極めつけは、
「……算数ドリル忘れて帰っちゃった」
 宿題を机の中に忘れて帰ってしまったのだ。最悪だった。今日あてられて答えられなかったから、谷口先生は明日も確実に僕を指すに決まっている。そもそも宿題を忘れたら、先生はめちゃくちゃに怖いのだ。どうしよう。
 いつも通り、父は帰りが遅い。外を見るともう暗い。時計の針は六時を回ろうとしている。ケイたちと寄り道して帰るんじゃなかった。後悔と困惑でがんじがらめになって立ち尽くしていると、
「ナオどうしたのお?」
 ソファに転がっていたメーが、僕に振り返って首を傾げる。僕は学校に宿題を忘れたのだと言った。
「しゅくだいって? ナオがいつもやってるやつ?」
「そう。はちゃめちゃに困ってる」
「え、じゃあとりにいったらいいじゃん」
 ド正論を返してくるメーに、僕は渋い顔をした。
「だってもう暗いし、こんな時間に学校へ行ったら怒られちゃう」
「めーがついていってあげるよ。んふふふ」
 メーは青い目を僕に向け、ニコニコ笑いながら言った。思いもよらなかった返答に、僕は目を見開く。いつも自分の気分でしか動かない彼女が、僕の助けになろうとしてくれるなんて。
「めーちゃんもがっこーにあそびにいきたあい」
「ですよね」
 自分が行きたいだけらしい。まあでも、ひとりで行くよりはよほど心強い。メーは「おさんぽだー」とはしゃぎながら子供部屋に勝手に入って、ビデオカメラを手に戻ってきた。
「持っていこ」
「遊びに行くんじゃないんだから」
「めーはあそびにいくけど」
 会話が成り立たない。諦めた僕は、ビデオカメラを彼女から受け取る。玄関に置いた鍵を首から提げて、ドアを開けた。見上げた空は暗く、一番星がきらめいているのが見える。十月の夕方は冷たい空気で満ちていて、これからどんどん寒くなりそうだった。
「みて、ナオ」
 顔を上げれば、メーはさっさと通りに出て、縁石の上を歩いていた。
「車が来たらあぶないよ」
「撮っていいよ」
 本当に話を聞かない。僕は何も言わず、ビデオカメラをメーに向けた。綱渡りをするようにゆっくり縁石を歩く、メーの後ろ姿を撮る。
 学校には、なかなか辿り着かなかった。
 川べりの道に出れば、メーは急に立ち止まって魚を凝視する。野犬にちょっかいを出して追いかけられると、悲鳴を上げて草むらに隠れる。半泣きになっているメーにビデオカメラを向けるとめちゃくちゃ睨まれた。そんなに怒らなくてもいいじゃんと言うと、彼女は口先を尖らせて草むらから出てきた。
 学校に着くころには、あたりはいよいよ真っ暗だった。
「十五分でつくところが、一時間かかったんだけど」
「おもしろかったね」
 けろっとした表情でメーは言う。わりと酷い目にあったのに、たくましいやつだ。
 電気の消えた校舎は、僕の知ってる建物じゃないみたいだった。怖じ気づく僕に対し、メーは脳天気な様子で「くらいねー」と言っている。
「多分、宿直の先生がいるはずなんだよ」
 僕はそういって、事務室の方へ歩いて行った。思った通り、そこだけ灯りがついている。怒られやしないかとびくびくしながら、表口の扉を開ける。
「こんばんは」
 声が震えた。事務室では、図工を教えてくれる木下先生がお茶を飲んでいた。木下先生は白髪のおじいちゃんで、僕を見ると目を見開いていた。
「おや、びっくりした」
「四年二組の山田尚樹です。宿題を忘れたので、取りに来ました」
 僕は早口ことばのように一気に言う。木下先生は受付のカウンターから玄関まで出てきて、「そうか、ご苦労さんだね」と言ってくれた。怒られなくて安心した。
「そちらは?」
 先生は僕の隣に視線を移す。急に声をかけられたメーはびっくりしたのか、僕の後ろに隠れた。
「友達です」
 僕の答えに、先生はそっと目を細めた。そうか、友達か、と繰り返し、こちらに手を伸ばした。
「怖くないからおいでなさい」
 メーは先生の顔をじっと見ていた。しばらく時間が止まったようだったが、メーは木下先生が危険な人ではないと判断したのか、素直にそちらへ寄っていった。
「お友達はここで待っていなさい。山田くん、教室に行って良いよ。電気をつけてあげよう」
 ありがとうございます、と僕は言う。メーは物珍しそうに辺りを見回していた。
「あたたかい牛乳でも飲むかね」
 先生がメーに尋ねた。メーは小さく、うん、と答えている。僕は少し笑って、まっすぐ教室に向かった。四年生の教室は四階だ。僕は階段を駆け上がっていく。
 誰もいない夜の教室は、知らない場所のようだった。
 僕の席は窓際の一番前だ。引き出しの中には、算数ドリルだけが取り残されている。「なんで忘れちゃったのかな」と言いながらそれを回収して、窓の外を見た。暗い窓には僕の顔が映り、その向こうには町が見えた。
 国道のバイパス。僕らが通ってきた川沿いの道。その先には住宅街の灯りが並ぶ。
 住宅街は森のように、木々に囲まれている。森の中をイメージして作られた新しい住宅街なんだそうだ。それを母が気に入って、僕が生まれるときに、ここに家を買って引っ越してきたのだと父は言った。
 少し向こうには浄水場のある山がある。山の向こうには海が見えるはずなんだけど、暗くてよくわからなかった。僕は見慣れない夜の風景をしばらく眺めて、それから教室をあとにした。
 戻ってくると、メーは事務室のソファに丸まって眠っていた。また寝てる、と僕は呟く。
「宿題は見つかったかい」
 木下先生の問いかけに、見つかりました、と僕は算数のドリルを掲げて見せた。先生は満足げに笑った。
「目が綺麗だね、この子は」
 木下先生はメーに視線を投げた。
「綺麗な青だ」
 良い友達だね、と先生は続ける。はい、と僕は頷く。僕はソファに寄っていき、メーの背中をつついた。
「メーちゃん。帰ろう」
 彼女は目を閉じたままぐうっと伸びをして「もうかえるの?」と高い声で言った。ソファから下りて、先生の前に立つと、
「またくるね」
 と、彼女は言う。木下先生は眉を下げて笑っていた。
 帰り道、メーは満足そうに
「がっこーたのしかったな」
 と言った。僕は思わず笑って「寝てたじゃん」と応える。メーはにこにこしたまま、
「夢をみたよ」
 そう続けた。
「どんな?」
「ナオがねえ、世界でいちばん高級な味付け海苔を買ってきてくれるの」
「そりゃあよかったね」
 学校に全然関係ないじゃないか。僕が笑っていると、メーはおなかがすいたと急に不機嫌になった。
「うん。帰ろう」
 そのあともメーはおなかがすいたと二十回くらい主張してきて、僕は不機嫌な彼女をビデオカメラに収めていた。家に着いたら味付け海苔をやるからと、二十回言う僕の声も入っている。

    *

 メーとの思い出は断片的で、印象的な場面ばかりが残っている。毎日のように会っていたような気はするのだけれど、もう随分昔のことだしほとんど忘れてしまった。
 僕が彼女と一緒にいたのは十歳くらいまでで、それ以降、僕の人生に青い目の女の子はあらわれない。彼女との思い出を辿る中で最後に思い浮かぶのは、二人で迷子になったときに見た夕焼け空だった。

 それは確か五月で、僕は母の日のカーネーションを買いに、花屋に行ったのだ。父はちょうど休日出勤で、家には僕とメーしかいなくて、僕が外に出ようとすると「めーも行きたい」と彼女もついてきた。
 花屋でカーネーションを二本選ぶ。そんなにお小遣いがあるわけじゃないから、二本が限界だった。これを下さい、というと、
「母の日?」
 と、お姉さんが聞いてくる。頷くと、お姉さんはサービスでピンク色のリボンをつけてくれた。
 カーネーションの花束を持って、来た道を戻る。
「めーちゃん、ナオのお母さんに会ったことない」
 例によって縁石の上を器用に歩くメーが、ぽつりと口を開いた。
「そうだね」
 メーと僕が出会ったのは、母がいなくなったあとだ。
「おれのお母さんは遠いところに行っちゃったから」
 僕はそう言って、カーネーションの花束を見下ろした。去年までは肩たたき券だったけど、今年は花をあげると約束していたのだ。約束は守らなければならない。
 メーは青い目をこちらに向けて、
「会いに行くの?」
 と尋ねる。
「ううん」
 約束は守らなければならない。これは再三、父から教えられていたことだ。だから僕は花を買った。でも、このあとのことは何も考えていなかった。母がどこにいるのかも、僕は知らない。でも今日は母の日だから、もしかしたらお母さんは家に帰ってくるかもしれない。そうしたら、僕は母に花を渡して、ビデオカメラを見せて、あれからどうしていたかを話そうと思っていた。
「家で待とう」
 僕らは家に帰り、メーがいつもそうしているように、玄関先に座って母の帰りを待った。
 まだ五月とはいえ気温は高く、メーが「暑いねえ」と言った。住宅地には、たくさん木が植えられている。僕の家のすぐ隣にも背の高いクスノキが植えられていて、木漏れ日が降り注いでいた。僕はビデオカメラを回して、葉っぱが風に煽られて光がひらひらと揺れる様子を撮り、隣で空を見上げるメーの姿を映した。
「きれいだねえ」
 そう言って眠たそうに目を細め、メーは僕の膝に頭を預けてくる。あたたかい匂いと、重みと、体温を一斉に感じて、わあと変な声が出た。
「暑いって言ってたじゃないかよ!」
「暑いねえ」
 眠いのだろう。ぼやぼやした声で彼女は言って、目を閉じる。彼女の薄い背中が寝息で上下し始める。僕は落ち着かなくて、しきりに辺りを見回していた。誰か来たらどうしよう。こんなの恥ずかしい。僕の焦りとは裏腹に、近くに人の姿はなかった。遠くの方で近所のおばさんたちの楽しそうな笑い声が聞こえる。僕は一度、安らかな寝息を立てるメーに視線を落としてから、右手に持ったカーネーションの花を見下ろした。
 一年前、母にあげると約束した花。
 お母さん。小さな声で口にする。お母さん。そうやってもう一回呼んでみたいと思った。なんで僕を置いて行ったんだって怒ってみたいとも思った。お母さんの料理が食べたかった。僕の話を聞いて欲しいと思った。
 お母さん、ともう一度口にすると、目の前がぐにゃりと歪む。ぼたぼたと涙が落ちて、それでメーが目を覚ました。
「ナオ」
 メーは自分の目の前にある赤い花を見て、
「お花きれいね」
 と、少し笑った。

 玄関先で夕方近くまで待っていたけれど、母がこの家を訪ねることはなかった。
 本当はわかっていたのだ。お母さんはもう、僕のところには帰ってこない。そんなこと、最初からわかっていたけど、ほんの数パーセントの期待を捨てることが、どうしてもできなかった。でも、もう、認めるしかない。この花を渡すことはできないし、いくらビデオカメラで母に見せたいものを撮ったって、それを見てもらえる日なんてずっとこない。
 ずっとこないのだ。
 僕は息を吐き、一度部屋の中に戻って、お財布を取ってきた。千円札が入っている。今日はこれでお弁当を買ってくれと、父に言われているのだ。
「メーちゃん」
 僕は彼女の名前を呼び、くたびれてしまった花束を差し出した。
「これあげるよ」
 人にあげるはずだった花束を女の子にあげるなんて、と思うけれど、あのとき僕はそうすることで救われようとしていたのだと思う。メーは僕とカーネーションを交互に見てから、ぱっと青い瞳を輝かせた。
「いいの? めーにくれるの?」
 僕は頷く。メーは両手で嬉しそうに花を受け取った。じわりと視界が滲む。そうだ。こんなふうに、受け取って欲しかったのだ。
「ナオ、なんで泣くの?」
 メーは心配そうに僕の顔を覗き込む。あんまり泣き顔を見られたくなかったから、
「なんでもない」
 と、僕は手の甲で目元を拭った。もう、母の日は終わりだ。僕はいつも通りに戻って、ちゃんとご飯を食べなきゃいけない。一度だけ目を瞑り、母の姿を思い描いて、目を開けた。目の前には、友達がいる。
「夕ご飯、買いに行くけど」
 僕が笑って言うと、
「めーちゃんもいく!」
 と、彼女は元気に応えた。
 五月も中旬に差しかかり、日没は随分遅くなっていた。長い時間、玄関先に座っていたのに、まだ明るい。そんなことを考えながら住宅街を出たところで、
「そうだ。お花のお礼に、ナオに見せたいものがあるの。ビデオカメラ持った?」
「え、うん」
 メーは急に歩調を速めた。行こうと思っていた方向から真逆に歩き出すので驚いたが、
「こっちー!」
 花束を大切そうに持ったままこっちを振り向くので、僕はそのまま彼女の後に続いた。

 メーはなぜか、町の外れにある山にずんずん向かっていった。この山の頂上は浄水場へ繋がっているので、正規ルートを辿ればきちんと山頂に辿り着く。それなのに、メーは舗装もされていない、道と呼ぶにはあまりにお粗末な経路を選んだ。
「こっちだよお」
「メーちゃん、向こうにちゃんとした道があるよ」
 一応そう言ってみるが、
「こっちからじゃないとダメなの」
 彼女は頑なだった。仕方がないので、彼女の選んだ道を歩いていく。
 道なき道はだんだん険しい斜面になり、落ち葉で何度も足を取られ、転げ落ちそうになる。メーは軽々と進むが、正直僕は何度か死を覚悟したし、泣きそうだった。ビデオカメラを置いてくれば良かったと心底後悔した。太陽はだんだん傾いてきて、ちゃんと家に帰れるのか不安になってきた。
「ナオ」
 少し先を進んでいたメーがこちらを振り返って、僕の顔を覗き込む。
「ナオこわい?」
「べつに……」
 見透かされているのが恥ずかしくて、僕は顔を逸らす。
「だいじょうぶだよ、一緒だから」
 メーは僕の反応に構わず楽しそうに笑い、
「おててつなご?」
 花を持っていない方の手で、僕の手を取った。いよいよ何も言えなくなって、僕は変な顔をしたまま彼女の手を握り返した。

 最終的に僕らが辿り着いたのは、浄水場の裏側だった。フェンスが張り巡らされていて、その中には濾過装置らしきものが見える。確かに、正規ルートからではここには辿り着かない。疲れ切った僕はしゃがみ込み、メーは急に不機嫌そうに「おなかがすいた」と言い始めた。
「メーちゃんのせいだろ」
「めーはおなかがすいた」
「会話してくれ」
 僕は怒る気力も残っていなくて、ちょっと笑った。とりあえず知っている場所に出て安心していたこともある。顔を上げると、遠くに続く海まで見渡せた。ここからこんな綺麗に海が見えるなんて知らなかった。ちょうど夕暮れ時で、赤く染まった太陽が、滲むような光を放ちながら沈んでいく。
「夕焼けね、ここから見るのがね、綺麗だから」
 ナオに見せたかったの。メーはそう言って、海の方を見て目を細めた。
「お花ありがとうね、ナオ」
 彼女が握りしめたカーネーションはもうすっかりくたびれていたけど、僕は充分だった。ビデオカメラを回す。
「あのね、ナオ」
 遠くに滲む夕日から、彼女の横顔までゆっくりと写す。
「めーちゃんはね、よく夢を見るんだけど」
 たくさん寝るからね、と僕は言う。メーは褒められてもいないのにちょっと照れくさそうに「んふふ」と笑った。
「めーの夢には絶対ナオがでてくる」
 彼女の青い目に、夕日の光が映っている。
「だからいつも一緒にいるよ」
 彼女は僕の方を見た。
「さみしくないからね」
 画面越しに笑う、その表情は、綺麗だった。

    *

 子どもは、夢と現実の境界が曖昧だ。
 だから、自分の空想が、擬似的に現実の世界にあらわれるという現象がたまに起こる。本当はどこにもいない架空の友人を作り上げて、本当にそこにいるかのように振る舞う。足りないものを補うように。
 僕にとってのメーは、おそらくそれに近い存在だった。
 ただひとつ違うのは、彼女はちゃんと実在したということ。
 それから先もずっと、僕の側にいてくれたということだ。

    *

 母の日の話には、まだ続きがある。
 どうにかフェンスを越えて正規の道に戻ると、いつの間にかメーはいなくなっていた。あたりはもうすっかり暗くなっていて、僕は走って弁当屋に向かう。家に着くと、ちょうど父の帰宅のタイミングと一緒になった。
「こんな時間までどうしたんだ」
 父は目を丸くしていた。怒るよりも驚く気持ちが先立っていたようだ。僕は何と説明していいかしばらく迷い、
「夕焼けを見に行ってた」
 それだけ答えた。父は叱るタイミングを逃したように、少しだけ変な表情を浮かべた。そんな父の顔を見て、僕は一瞬だけ「今日は母の日だね」と、言ってみようかと思った。それが父を悲しませることも何となくわかっていた。それでも、今日僕が悲しかったことを、伝えてもいいんじゃないか。それくらい甘えても別に、許されるんじゃないか。
 一瞬だけそんな風に思って、でも、僕の花はメーが持っていったのだと思い直す。
「ナオキ」
 父は僕の顔を覗き込み、
「夕飯、一緒に食べるか」
 自分の弁当を掲げて言った。僕は頷き、父と並んで家の中へ入る。電気をつけてテーブルにビデオカメラを置き、僕は弁当を開いた。僕も父も、同じチキン南蛮弁当を買ってきていて、二人で笑った。
 しばらく二人でテレビを見ながら弁当を食べていたが、不意に父親が僕のビデオカメラを見て、
「そういえばこれ、何を撮ってたんだ?」
 と尋ねた。
「いろいろ。友達のこと撮ったりしてた」
「友達? ケイくんたちか?」
「ううん。別の子」
 僕の答えに、父は「ふうん」と頷き、それから、
「見てみようか」
 と言った。僕は頷く。実を言うと、撮り方しか知らなくて、どうやったら再生できるのかわからなかったのだ。父は箸を置くと、テレビ台からプラグを出してきて、ビデオカメラとテレビを繋いだ。チャンネルをビデオ1に合わせ、再生ボタンを押す。
 映像が、ブラウン管テレビに映し出された。僕は画面を見て、目を見開く。え、と小さく声が漏れた。

 そこに映っていたのは、青い目の女の子ではなかった。

 台所の棚の近くで、一心不乱に味付け海苔を食べる白黒柄の子猫。
 彼女に向けて、僕はビデオを回している。子猫は、僕がカメラを回していることに気付くと、耳を後ろに向けて目を細めた。
「顔こわいよ。そんな怒らなくてもいいじゃん」
 僕の声が入っていた。にゃーと高い声で、猫が応える。
「これは悪い機械じゃないよ。思い出を集めておけるものなんだ」
 彼女はレンズ越しに、青い目を僕に向けている。
「お母さんが、ずっとこれでおれの思い出を集めていたから、続きはおれが自分で集めなきゃいけない」
 画面越しに猫は、青い目を三回瞬いた。後ろに向けていた耳を前に戻して、こちらに近づいてくる。カメラに鼻を近づけて、喉をごろごろと鳴らした。画面一杯に猫の顔が映し出されて、僕は笑っている。
「味付け海苔おいしかった?」
 僕は問う。にゃ、と猫は答えるように短く鳴いた。
 画面が途切れて、次は夕暮れの時間帯に縁石を歩いて行く猫の後ろ姿が映し出される。続いて、真っ暗な夜道でニャーニャー不機嫌そうに鳴く猫の声と、「帰ったら味付け海苔をやるから」と何度も言う僕の声が残っている。その次は家の玄関で、僕の膝で眠る猫の姿が映る。
 そして夕日の沈む海の映像が、最後に残されていた。
 画面が揺れて、僕は大人しく座って海の方を眺める猫の横顔を移す。彼女はカメラにすり寄って、ごろごろと喉を鳴らす。小さな僕の手が画面に映り込む。彼女の頭を撫でて、
「帰ろう、メーちゃん」
 と、画面の中の僕は言う。
 ぷつりと映像は途切れて、真っ黒な画面には僕の、呆けた表情が反射していた。
「これ、メルか」
 父が言った。メル、というのは、この住宅地に棲み着いた子猫の名前だ。誰が名前をつけたのかわからないけれど、海という意味の言葉だと聞いたことがある。
 目の青い、猫だから。
「ナオキ」
 父が僕の名前を呼ぶ。ぼんやりしている僕の顔を覗き込んで、
「メル、うちで飼おうか」
 と言った。
「うん」
 僕は頷く。まだ、整理はついていなかった。僕の側にいたはずの少女が、どうして子猫に変わってしまったのか全然わからない。でも、そのとき僕はどうしようもなく、あの猫に会いたくなった。
「探してくる」
 僕は空になった弁当箱を閉じ、ごちそうさまでしたと手を合わせると、玄関のドアを開けた。
「メーちゃん」
 名前を呼ぶ。何度か呼ぶと、近くの植え込みがごそごそと鳴って、猫が顔を出した。目がきらりと光っている。僕は手招きをして、「こっちきて」と言った。メルは植え込みから出てくると、ぐうっと伸びをしてから、僕の方へ走ってきた。しゃがみ込んで迎える。足に頭をすりつけ、にゃ、と子猫は小さく鳴いた。首もとを撫でると、子猫は目を閉じてごろごろと喉を鳴らした。
 なんだか、泣きたいような気持ちになる。
 考えてみればずっと、こうしてこの猫と一緒にいた気がした。
 僕の隣にいた小さな女の子と、目の前の子猫が二重写しになる。僕の顔を覗き込む青い目も、ぴったりと寄り添う体温も、鈴を転がしたような高い声も、ずっと、この子猫のものだったような気がする。
「メル。メーちゃん」
 名前を呼ぶと、子猫は目を開けた。
「うちにきていいって」
 メルは青い目を瞬いた。僕の言う意味がきちんと通じていたのかわからないけれど、
「ナオ」
 と彼女は鳴く。僕の名前を呼ぶように。

 それからの僕の毎日には、必ず青い目をした猫の姿がある。

 彼女は変わらずソファを独り占めしたがったり、味付け海苔をねだったり麦茶をねだったりする。勉強をしていれば邪魔しに来るし、寄っていけば嫌な顔をする。新聞を読んでいればその上に登ってくるので父は居間でまともに新聞が読めなくなったという。ワクチンを打ちに動物病院へ連れて行こうとすると、今まで聴いたことのないような声で威嚇をし、結局海苔につられてケージに入れられ、凄い顔をする。僕が風呂に入っていると意気揚々と風呂の蓋に乗っかって暖を取り、時々湯船に落下して、この世の終わりのような声を上げる。父は、メルがネズミやスズメを捕ってくるたび悲鳴を上げる。それを笑っていた僕の枕元には、翌日、巨大ネズミが置いてあって、メルが得意そうにこちらを見ている。
 そして変わらず僕のベッドに潜り込んで、彼女は眠る。

 僕はもう夜中にひとりで泣くことはなくなっていたけれど、そのかわり時々、あの青い目の女の子のことを思い出した。
 メーは、僕が生み出した存在だ。だから、彼女は概ね、僕の都合の良いように振る舞って、僕がしてほしいように動いてくれていた。僕が子猫を人間の少女だと思っていたのは、きっと、彼女の口を通して、僕の欲しい言葉をもらうためだったのだと思う。

――いつも一緒にいるよ。

 あのときの、あの言葉もきっとそうだ。大切なものが欠けた僕の世界を、補うための言葉。
「ね、メーちゃん」
 僕の腕に体重を預けて眠るメルの眉間を撫でる。彼女は耳を少し動かしたけれど、眠気が勝るのか、目を開けずにしっぽだけで応えた。
 彼女の言葉が、彼女のものでなかったにしろ、僕の側にいてくれることは変わらなかった。彼女が何を考えているのか、実際のところはよくわからない。僕のことを、ご飯とあたたかい住処を与えてくれる都合の良い存在だと思っているのかもしれない。それでも、彼女の体温に僕は何度も救われてきた。
 名前を呼ぶような甘えた鳴き声も、露骨に浮かべる不機嫌な顔も、ときどき枕元に置かれる獲物たちも、やわらかな毛並みも、じっと僕の顔を見つめるその青い目も。
 ずっと、僕の側にあったのだ。

 ***

 この物語は、別れの話だ。
 結局言えなかった言葉の代わりに、今までの思い出を集め直す。
 断片的で拙い、きみへの手紙だと思ってくれたらいい。

    *

 僕は大学に進学するとき地元を離れ、そのまま大学の近くで就職を決めた。ひとり暮らしのアパートからは、海を見ることができる。実家では変わらず父と猫が一緒に暮らしていて、僕は年に何度か、父とメルに会うために実家へ帰った。メルは僕が帰る度に一瞬身構え、それからだんだん思い出して、僕に海苔と麦茶をねだった。
「メルも歳だから、せめて焼き海苔にしたいんだがなあ」
 と父は言う。
「あんまり美味しくないんだってさ。歯につくし」
「歯につくのは味付け海苔も一緒だろ」
 僕の言葉に、父はおかしそうに笑う。反応が昔の自分とまったく同じで、つられるように僕も笑った。メルは麦茶を入れた容器を綺麗に空にすると、満足してソファに飛び乗る。そのまま丸くなって眠りはじめた。その姿を目で追いながら、
「メルはお前がいなくても、お前の部屋で寝るよ」
 と、父は言う。
「習慣になってるのか知らないけど、俺の部屋には絶対入ってこない。たまに思い出したようにお前のこと探して、すぐに『ああ、いないんだったな』みたいな顔をしてひとりで寝る」
 僕はソファで丸くなる彼女を見ながら、
「実際帰ってきたら忘れてるのにな」
 と苦笑する。
「メルの中にもお前が住んでるんだろうよ。実物が急に現れたらびっくりするんだろ。それがこう、きちんと重なるまでにちょっと時間がかかるんだよ」
「父さん、詩的なこと言うね」
「俺はいつも詩的なこと言うよ」
 別に褒めてないのに、ちょっと得意げに父は胸を張る。僕が笑うと彼は照れくさそうにしてから、
「もうちょっと帰ってきてやれ」
 と、やわらかな声で言った。

    *

 メルが肺水腫になったという連絡が父から届いたのは、その翌年の春のことだった。

 肺水腫というのは肺に水が溜まる病気で、猫がかかる病気の中でも末期症状に見られるものだ。何か別の重い病気と併発することが多いのだが、何の病気と併発したのかは、検査をしてもわからないらしい。
 メルは今年で十四歳になる予定で、人間で言えば、ずいぶんな高齢だ。でも、正月に帰ったときには元気に走り回っていて、だから、急に病気になったと言われても、ひとつも実感がわかなかった。頭の中にいるメルは健康そのものだ。僕は疲弊した父にどんな言葉をかけていいのかわからず、ただ淡々と語られるメルの病状を聴くことしかできなかった。
「毎日のように点滴と肺の水抜きには行っているんだけど、あんまり長くないかもしれない。もう何にも食べないし、水も飲まないんだ」
 父は何かを飲み下すように間を空けて、
「会いに帰ってきた方が良いかもしれないよ、ナオキ」
 そう、締めくくった。わかった、と僕は応えて電話を切る。そのまま携帯電話を置いて、しばらく呆然としていた。
 メルはまだずっと長生きするものだと思っていた。
 野良猫出身で身体も丈夫だったし、まだまだゆっくり年を取って、僕らもゆっくり彼女との別れの準備をしていくものだと思っていた。
 メルが、死ぬかもしれないということ。
 実感はない。でも、事実なのだ。
 一度目を瞑りゆっくりと息を吐いてから、もう一度携帯電話を手にして、週末実家に帰れるよう、新幹線のチケットを取った。

 土曜日の夕方実家に帰ると、メルはいつものソファの上にはいなくて、風呂場の隅でじっとうずくまっていた。肺に水が溜まって苦しいのか呼吸は荒く、左足は浮腫んで膨れあがっていた。
 現実を受け入れることは、とても難しい。
 急にこんなに変わり果ててしまうことに、心がまるで追いつかない。僕は少し震える指で彼女に手を伸ばした。
「メル」
 名前を呼ぶ。彼女は僕の目をまっすぐに見て「ナオ」と細い声で鳴く。
「メーちゃん」
 そう呼んで頭を撫でた。彼女は目を細める。喉からはぜーぜーと苦しそうな息の音と、身体の中からは微かに水の音が聞こえる。肺の中には水が溜まり続け、抜いても抜いてもあまり意味はない。それどころか、彼女の体内にある大切な栄養素を一緒に奪ってしまう行為であると、医者は説明する。それでも彼女の青い目はまだ爛々としていて、きちんと生きているのだということを伝えているのだ。だから、なるべく苦しくないように、今できることを、してやることしかできない。
「今日は俺が病院に連れてってやるから」
 そう言ってケージを出すと、彼女は大人しくその中に入った。今まで病院に行くよと言えば大騒ぎをして逃げ回っていたメルが、まったく抵抗せずにケージの中へ入ることに、心が痛んだ。病院に行けば楽になるということを、わかっているのだ。
 僕は父の車を運転して、隣の市にある大きな動物病院へ向かう。毎年ワクチンを打ちに行っていた町医者では、もう対処できないらしい。助手席にメルのケージを乗せ、信号にかかると扉を開けて、その背中を撫でた。何も食べず何も飲まない彼女は、やせ細って骨が浮いている。
 窓に西日が差し込んでいた。
「夕焼け」
 空は白々しいほどに綺麗な茜色に染まっている。
「メーちゃん。空綺麗だよ」
 彼女の痩せた背中を撫でながら空を見ていると、なんだかどうしようもない気持ちになった。何かを失いつつあるということを体感していた。諦めと、どこかで、もしかしたら、奇跡が起こるんじゃないかという、そんな思いだ。後ろからクラクションを鳴らされるまで、僕は信号が変わったことに気付かなかった。
 その日は、病院で百五十ミリリットルの水を抜いた。

 結局僕が実家にいた二日間で、メルは一度も何も口にしなかった。栄養価の高い缶詰をスポイトで食べさせようとしても、嫌がって絶対に口を開かなかった。あんなに好きだった海苔にも麦茶にも目もくれず、ただ、時が過ぎるのを耐えるように、部屋の隅でじっとうずくまっている。
 僕の家は、彼女と一緒に暮らすためのもので溢れている。
 餌用の皿も、トイレ砂も、爪研ぎ用の木材も、彼女が気に入っている毛布も、ほったらかしになっているおもちゃも、ぬいぐるみも。
 彼女がここで生きていくためのもので溢れている。
 でももう、メルはそのどれにも反応を示さない。部屋の暗い場所でじっとうずくまっている。別に愛着もないであろうお風呂場の、その冷たい床の上で苦しそうに息をする。

 実家から帰る前に、僕は寝室にメルを抱いていった。
 彼女がいつもそうしていたように僕の布団に乗せ、毛布でくるむ。本当は、こんなことして欲しくないのかもしれない。猫は自分の死期を悟られたくないから、暗くて寒い場所に身を隠すのだとよく聞く。だから、これは、ただの僕のエゴでしかないのかもしれない。それでも、
「ここの方が暖かいから」
 そう言って、僕は彼女の首元を撫でた。彼女が喉を鳴らすことはなかった。メルはじっとうずくまって、僕の顔を見ている。何か、僕の言葉を待っているようにも感じた。
 これ以上、彼女にかけられる言葉があるのだとしたら。
 それは、別れの言葉だと思う。
 そうだ。僕は彼女にさよならを言うために、この家に帰ってきたのだ。
 メーちゃん、さようなら。
 口を開こうとした。視界が歪んで、僕は奥歯を噛みしめた。
 一度手の甲で涙を拭い、鼻を啜って深呼吸する。それから、
「メーちゃん」
 僕は彼女の青い目を見る。
 言わなければならない。別れを。さよならを。僕は口を開く。
「次に……次に、帰ってくるときは、世界でいちばん高級な味付け海苔を買ってくるから」
 声が震えて、涙が零れた。
「約束するから。だから、元気になりな」
 僕の言葉に、メルは高い声で「にゃ」と応えた。

    *

 メルが亡くなったのは、その三日後だった。父が仕事から家に帰ったときには、居間の隅で亡くなっていたそうだ。メルの身体はまだ温かくて、もう少し早く帰れたら見送れたのになと、父は言う。
 僕は翌週も、実家へ帰ることにした。家に帰っても、メルのえさ場やトイレがないことが不思議だった。彼女が通れるようにドアを少し開ける癖が直らなかった。僕はメルの遺骨が入れられた小さな、本当に小さな箱に、手を合わせた。
 
 空は、三月特有の乳白色を混ぜた薄い青色で、もうすぐ日が沈もうとしている。僕はだらだらと生まれ故郷の町を歩き回った。十四年前は新しかった住宅街もすっかり古びて、植え込みは草むらのようになっている。通っていた小学校は、去年校舎の改修工事があったのか、知らない場所みたいになっていた。僕は淡々と歩いていく。町外れの山は、裏側にも、いつの間にか車道が通っていた。メルに連れられて命からがら山を登ったのが嘘みたいに、あっという間に山頂に着いた。
 ここから見える景色だけは、あの頃と全然変わらない。
 遠くに見える海に、夕日が沈んでいく。
 僕には、十四年前の母の日に見た夕焼け空と、この前、動物病院に向かう途中で、痩せたメルの背中を撫でながら見た、あの白々しいほど綺麗な夕焼けを思い出す。
「……メル」
 メーちゃん。
 名前を呼んで、そのままこみ上げてくるものを飲み込んでしまおうとした。でもそんなことできるわけがなかった。糸が切れたように、涙があとからあとから溢れて止まらない。大切なものをなくしたのだと思った。もう戻れない。二度と。僕はしゃがみ込んで、声を殺して泣いた。そのときだった。

「泣いてるね」

 誰かに、声をかけられた。驚いて、僕は慌てて顔を拭う。懐かしい匂いがした。
聞き慣れた声だと思った。記憶が蘇る。僕は顔を上げて、目を見開く。
「おかえり、ナオ」
 そこには青い目をした僕と同い年くらいの女性がいて「んふふ」と笑っていた。
 彼女のことを、見間違えるはずがない。
「メーちゃん」
 僕は目を見開いて、彼女の名前を呼ぶ。
「なんで」
 なんで、なんて。
 その答えはわかりきっていた。僕がもう一度会いたいと思ったからだ。僕がもう一度会いたいと思って、ここに映し出しているのだ。
 本当はもう、どこにもいない彼女を。
「海、久しぶりに見た」
 メーは言う。僕は鼻を啜って、少し笑った。
「俺が今住んでるところは海の近くだよ。アパートのベランダから海が見える。曇った静かな夜にはときどき、海鳴りの音が部屋まで聞こえる」
「ナオが知らないところで生活してるの不思議だったな」
「ごめん。もっと帰ってくれば良かった」
 もっと、たくさん帰ってくれば良かった。
 僕がいなくなっても、彼女の寝室はずっと僕の部屋だった。暖を取る相手もいないのに彼女はずっと、猫が使うには広すぎるベッドに丸まって眠っていた。
 メーは眩しそうに目を細めて、「ううん」と首を振った。
「ナオが遠くに行っても、ずっと側にいたよ」
 僕は首を傾げる。メーは「ふふふ」と笑って、再び口を開いた。
「だってね、めーちゃんはいっつもナオの夢を見てたから」
――だからいつも一緒にいるよ。
 いつかの声が蘇る。彼女の体温も、やわらかな毛並みも、高い鳴き声も、怒った顔も、やせ細った背中も、浮腫んだ前足も、苦しそうな水の音も、最後に僕をじっと見た、あの瞳も、すべて、一緒に蘇る。
 視界が滲む。僕は、絞り出すように口を開く。
「ありがとう。メーちゃんがいたからさみしくなかった。ずっと。十四年間、ずっと」
 メーは満足そうに頷いて、
「夕焼け綺麗ね」
 と言う。赤い太陽が沈んでいく。僕はスマートフォンを取り出してビデオモードを開く。
 何の意味もないことは、ちゃんとわかっていた。
 それでも僕はあの日と同じように、遠くの海を、それから、隣に立つ彼女を写した。遠くで海鳴りの音が聞こえる。東の空は一日を終わらせようと宵闇に染まっていく。冷たい風が、海へ抜けていく。
 彼女は、こちらを見て笑った。

「めーちゃんはね、ナオが世界でいちばん高級な味付け海苔を買ってきてくれるのを待ちたかった」

 僕は目を見開いた。さいごに僕が彼女に言った言葉だった。
 僕の脳裏に、十四年前のカーネーションの花が浮かぶ。いつもそうだ。僕は届かない約束ばかり交わす。それを握りしめていれば、再会できると信じていた。本当はもう、二度と叶わないことはわかっていたくせに。
「忘れてないよ、俺は。だから、」
 この後に及んでも僕は必死になって、彼女の姿を機械の中に収める。
 画面の向こうで彼女はこちらに笑いかけてみせる。
「また会える?」
 僕の問いかけに、
「会えるよ」
 彼女は頷いた。
 
 次に瞬きをしたとき、そこにはもう、メーの姿はなかった。遠くの海に夕日が沈んでいくのを横目に、僕はさっき撮った動画を再生する。
 そこには、誰の姿も映っていなかった。
 青い目の女の子も、白黒柄の猫もいない。ただ、僕の声だけが再生される。

――忘れてないよ、俺は。だから、

 結局、別れの言葉は言えないまま、

――また会える?

 その問いかけには誰も応えず、降り注ぐ夕焼けの光だけが、画面の中に残されていた。



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