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受賞に必要なのは、友達と運と「もう一文字も書きたくなくても」書き続けること ――村谷由香里インタビュー【後編】

前回に引き続き、デザイン&編集事務所スケルトンワークス代表の池田明季哉氏に、『ふしぎ荘で夕食を』の発売に伴ってインタビュー記事を作っていただきました!

前編はこちらです。

スケルトンワークスのホームページもぜひご覧ください。

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――大学を卒業して就職した当時は、どんな仕事をしていたのでしょう。

村谷:学習塾の事務の仕事だったんですけど、それがなんにも向いてなくて(笑)。塾も向いてないし、事務も向いてなかった。でも、リーマンショックの翌年で、就職は本当に氷河期で。就活にも疲れていて、お金もないし、もうどこでもいい、取ってくれるところが神様、と思っていたんですが、それまで住んでいた山口を離れて熊本の支店に行くことになってしまったのもあって、もう全然ダメでした。

――地震があったとき、どうしていましたか。

村谷:はじめて職場に行ったのが、2011年の3月12日だったんです。盛大に開通するはずだったのに、ひっそりと運行をはじめた九州新幹線に乗って、ずっと震災のニュースを見ながら熊本に行って。ここでこんなことしていていいのかな、という感じがずっとありました。

――そのとき、どんなことを思っていましたか。

村谷:世界が終わる、と思ったことははっきり覚えています。2012年に日本は終わるし、世界も終わるだろう。でも、終わるなら終わるでいいやって。それくらい辛い毎日で。

私、すごく健康なんです。なんでかっていうと、すぐ音を上げて体調を崩すから(笑)。体を壊したり心を壊す前にドロップアウトするタイプなんですけど、当時はもうずっと体調がおかしかった。それでもう無理だ、と思って、仕事はやめてしまいました。

――でも、書くのは続けたんですよね。

村谷:今も仲のいい友達がいて、彼女は演劇をやっていたんです。同じく就職したんだけど愛知支店に飛ばされてしまって、彼女もけっこう絶望して「演劇なんてやらなくていいんだよね」と言っていました。

彼女に仕事をやめた、と報告したら、こう言ってくれたんです。「私はもうちょっと仕事をがんばってみるけど、ゆかりは小説を書きなさい」。それで、万年筆をプレゼントしてくれた。

その年に書き上げたのが『ブランケット』という小説で、主人公が列車に乗って不思議な世界を旅していく物語だった。そのときは「これが遺作でいいな」と、本気で思っていました。

でも、万年筆をくれた彼女に『ブランケット』を読ませたら、いきなり「仕事やめるわ」って言って、山口で劇団を立ち上げてしまったんですよね。

それで思ったんです。ああ、これは筆を折っている場合じゃないな、って。世界だって、終わっている場合じゃない。1999年だって、世界が終わると思ったけど終わらなかった。だから2011年のあとも、終わらずに続いていくんだな。私も世界も。

そこからもう一度、小説を書きはじめました。

――どんなものを書いていたんですか。

村谷:2011年の夏くらいから2013年くらいにかけては、めちゃくちゃしんどかった。当時はそうは思っていなかったけれど、振り返ると辛かったですね。

公募に出そうと心に決めたものの、当たり前だけど書けるものしか書けないから、できることを広げようとしていたんです。新しいことをしようとしていたから良し悪しも他の人に読んでもらうまでわからなかったし、でも賞は一次落ちばっかりだからダメじゃん、という。『この花が明日を願う場所』という小説がすばるの二次まで残ったんですが、それっきりでした。

――それでもめげずに公募に出し続けたと。

村谷:落ち続けてさすがにしんどくなってきて、どこにも出ない小説が積み重なっていくのも辛かったんですよね。私の書いたものって本当にダメなのかな?と思うようになって、本にならないなら自分で本にすればいいじゃないか、ということで、同人誌を作りはじめたんです。

そこで2014年に「アリオト」という文芸サークルを立ち上げました。vol.1は500円だったんですが、二ヶ月で刷ったぶんは完売できました。この活動は今までずっと続いていて、だんだんいろいろな作家に参加してもらうようになり、vol.4まで出ています。

このとき、今も一緒に活動しているイラストレーターであるイチトレイ氏をはじめとして、いろいろな人たちと出会いました。ここから私の第二期がはじまった、と思っています。

アリオトはいちおう私個人のサークルなんですが、私は文章を書くしか能がないから、誰かと作ろうということは最初から考えていたんですね。文芸部時代に季刊誌の編集長をやった経験があったので、あの頃のテンプレートをほとんどそのまま使って企画を作って人を集めて。アリオトは「古き良き文芸誌の感じがある」と言ってもらえることがあるのですが、大学の文芸誌の作り方をそのままパクったからです(笑)。

入稿しているデータを作るのはイチトレイさんに教えてもらったりして、たまに全部やってもらったりして(笑)。ひとりで作っている感じがなくなったんです。文芸部とかゼミにいたころのようで、心強かったです。

――公募にはどんな作品を出していたんですか。

村谷:森見登美彦さんの影響を大きく受けていました。大学生のあの感じを書きたい人は、私以外にも多かったんじゃないかな。『この花が明日を願う場所』も大学生の話だったので、これが通るならいけるだろう、と。でもそれだけじゃダメだから、いろいろ手札を増やそうと思ってチャレンジしてはいましたが、やっぱり自分が得意だしやりたいのは大学生の話だな、とは思っていました。

大学時代は、私という人間を作った中核にある、人生のなかでも大事だった時期だったので、切実なものも書けるだろうと踏んでいました。最終的にちょっと不思議なことが起きるのは、小川洋子さんの影響が大きいですかね。あとはお芝居をたくさん見ていたことも大きくて、現実と虚構が混ざるところは鴻上尚史さんにすごく影響を受けています。

そう考えると、大学生活が中心で、不思議なことが起きて……という『ふしぎ荘で夕食を』の要素は、ここでもう出てきているんですよね。これがやりたい、ということから、これができる、ということに、少しずつ変わっていった時期だったのかな、という気がします。

――でも、そこからメディアワークス文庫賞を受賞するまでには、まだちょっと距離があるような気がします。

村谷:あまりに行き詰まっていたので、一度思い立って、それまでの作品を全部改稿して電撃大賞に出してみたんです。そうしたら、『ライカ』という小説が、なんとか一次に通った。もう5、6年ぶりの一次通過だったので、電撃でもやってみる気になったんです。

そのときイチトレイさんに「本気でメディアワークスを目指して出したらいいよ」と言われて。最初はびっくりしたんですよ。ライトノベルで戦おうとは全然思ってこなかったから。「そんな5000人とか6000人とか応募するような狭き門にわざわざ出さんやろ?」と思っていました(笑)。

でも、文章も物語も、もう当時の私としてはカンストしてた。ここでなにか変えなきゃ、今のやり方じゃダメなんだ、と思っていたところでもあったんです。それで作ったのが、受賞した『ふしぎ荘で夕食を』でした。

――もともとは純文学系の賞に応募していて、最初に電撃大賞に出したものは一次通過だったわけですよね。そこからいきなり受賞したということは、なにか大きく変わったところが作品にあったと思うのですが、どんなところが変わりましたか。

村谷:これははっきりしていて、キャラクターですね。キャラクターというのは、いわば虚構なんです。でも私は本物の人間が書きたかったし、人間だけは嘘をつきたくなかった。実在の友人をモデルにして書き続けてきましたし、キャラクターにする必要なんてないと思っていました。だからキャラクターを作るということに最初はものすごく抵抗があったんです。ライトノベルというジャンルに偏見があったのは、そういう側面もあると思います。

でも、やっぱりこれまでのやり方じゃダメだということで、私も観念しまして。キャラクターだけ嘘をつこう、と心に決めて書きました。当時の心境としては、なにはなくとも賞を取る、そのためにすべてを捨てよう、という、私にとってはそれくらいの覚悟が必要なことでした。

だからそれまでと変わったのは、本当にキャラクターだけです。

――抵抗があったということですが、『ふしぎ荘で夕食を』のキャラクターは、とても魅力的に書けていると思います。

村谷:それがね、実際にキャラクターを作ってみたら、やつらがかわいいんですよ!(笑) どうやって生きてきたかもわかるし、なんなら友達なんじゃないかと思うくらい。生身の人間なみに、自分のなかに存在しているんですよね。これは実際にキャラクターを作ってみるまでわからなかったことでした。

あの子たちのなかに、私が今まで出会ってきた、好きだった人たちが生きている。光を損なわずに輝いている。ああ、こうしておけばよかったんだ、これは嘘をつくことなんかじゃなかったんだ、そう思いました。

――一方、物語としては「家族」が重要なテーマになっていますよね。このテーマには思い入れがあるのでしょうか。

村谷:もともと、家族をテーマにしようと思って書きはじめたわけではないんです。これはヒロインの夏乃子のおかげで書けた物語ですから。あの子がここまで連れてきてくれた。キャラクター重視で書こう、と決めたのは自分だけれど、物語を作ってくれたのは彼女たちだったんです。だから家族がテーマになったのは、夏乃子の物語だから、というのがすべてですね。

だからもし続編があるとしても、それは私が自分の切実ななにかをテーマにするのではなくて、彼女たちが暮らしていくうえで自然とぶつかる問題を描いていくことになると思います。

――さて、それではいよいよ「どうしたら電撃大賞で受賞できるか」ということを聞いていきたいと思います。まず、応募者にアドバイスをするとしたら、どんなことを言いますか。

村谷:難しいですね。どの段階の人に言うかによっても変わってくると思いますし。でも何回も公募に出しては落ち続けている私みたいな人には「続けてください」と言いたいです。

ある日突然、天啓が来るんですよ。その日まであきらめないこと。筆を止めたら、天啓も来ませんから。それまで手を止めないことです。

――とはいえ、書き続けているだけでは受賞できない、という気もするのですが。

村谷:うーん、それはそうなんですけど。でも書きたいものを書き尽くさないと、自分のことってよくわからないと思うんですよね。

私は小学校五年生から小説を書いてきて、はじめて自分の小説を面白いと思ったのは仕事を辞めたあとの2013年です。登場人物のモデルになった人が面白いと言ってくれるから、それでいいと思っていたんですよね。でも、そのときようやく、自分の小説にもこういう面白いところがあるんだ、だから人に読んでもらいたい、と感じた。そうして生まれたのが文芸同人誌「アリオト」だったわけですけど。

――なかなか自分の小説のよさがわからない、面白いと思えない、という人には、どんなアドバイスがありますか。

村谷:それは、友達を作ること。できればライバルじゃないほうがいいです。たとえば志望者同士で仲良くなることって多いと思うんですけど、そうじゃない友達で、なにかものを作っている人と関わりを持っておくと全然違う。私に筆を握らせたのは演劇人ですし、電撃大賞に応募させたのはイラストレーターですから。別媒体の友達を作ったほうがいいですね。

――人に読んでもらって意見をもらおう、ということでしょうか。

村谷:人に意見を聞いて自分の悪いところを直そう、という話は誰もがするけど、それで落ちたら「マジでなにしてたんだろ」ってなるじゃないですか。だから自分の問題をちゃんと自分で理解するというのが大事なんです。そのためには、やっぱり一度書き尽くしていないといけない。

私の場合は、物語はそれなりに書けていた。文章は、自分で言うのもなんですけど、申し分なかった。それじゃ問題はなんなのか、ということは、ある程度極めないとわからないんです。自分の文章、自分自身を知らないといけない。それがわかってはじめて、納得して人の意見が聞けるんですよね。そうじゃないと、こだわりが邪魔をしてしまう。

キャラクターを書くことに抵抗があったけど、書いてみたらまさに人間を書くことだった、という話をしましたけど、これって「人間を書きたかったのに、人間を書くための最適な方法を取っていなかった」とも言えるんですよね。構成とキャラクターが微妙だったのは、実は自分でもわかっていました。けれど、正直ちょっと意固地になってしまっていたんですよね。これじゃダメだと思わないと、先に行けない。書いて書いて、行き詰まらないとこだわりが捨てられなかったんです。

――自分の強みと弱みがわからないと、人の意見も活かすことができない、ということですね。そのためには、一度書きつくさなくてはならない、と。

村谷:なにができていてなにができていないかの判断って、思っている以上にすごく難しいんですよ。文章というのは数字にできないので、自分では筋が通ってると思っても、人に聞いたらそうでもないかもしれない。

実際、審査員によっても評価は違います。一次落ちした小説を別のところに出して、それで金賞を取った友人もいますから。一概にこうすればいい、というのはないんです。だから自分が納得して改善することが大事だと思います。自分を変えていくことは、バラバラになるみたいですごくしんどいことですけども。

――村谷さんは小学校五年生から書き続けてきたわけですが、「書きつくす」までに実に20年近くかかっていますよね。新人賞を目指している人からすると、もう少し早めになんとかしたい、という気持ちもあるはずです。一度その道を通った者からのアドバイスとして、どうにかしてスピードアップする方法はないでしょうか。

村谷:私みたいなタイプは、もう本当に書くしかないと思いますね。私は10歳のときから特に理由もなくずっとクリエイターで、結果として作ることにすべてを賭けてきたんです。私の友達にも、生まれたときからクリエイター気質、というような人がたくさんいます。きっとそういうタイプの人は、もうすでにたくさん書いていると思いますので、あきらめずに書き続けるしかないです。

一方で、私みたいな作らないと死ぬような人は半分で、もう半分、書くことそのものが目的なのではなくて、作家になることが目的というタイプの人がいると思うんですよ。ずっと読み専だったけれど、クリエイターに憧れて自分で作ってみたくなった人、というか。音楽でいうと、いきなりオリジナルを作るのが私みたいなタイプだとしたら、コピーバンドからはじめるタイプというか。

そういう人は全然スタートが違うので、到達点をしっかり見据えて、そこから逆算して書いていくようなこともできるのかもしれません。そっちの方が成長は早いのかも。

でもいずれにしても運はあるし、私も運がよかったから受賞できたというところも絶対にあります。だから運を掴むまで、チャレンジし続けてほしいです。

――ありがとうございます。最後に聞きたいのですが、デビューして小説家としてのキャリアを歩みはじめた今、どんなふうに小説家として生きていきたいと思いますか。

村谷:私にとって、小説を書くということは、呪いみたいなものです。それがないと生きていられない。だから書くしかなかったし、これからも書いていく。もし売れなくなって落ちぶれる日が来たとしても、なんらかのかたちで文章は書いていると思います。

そしてきっとそのときも「もう一文字も書きたくない」と言っているんでしょうね。

(了)

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