【短編小説】コインランドリーで待ち合わせ

「俺コインランドリー好きなんだよね」
 ぽつりと言ったタナベに、隣に座ったケシは眉間の皺を解かないまま、
「知ってます」
 と面倒くさそうに応えた。
「コインランドリーの写真ばっかり撮ってた」
「それもこの前聞きました。物好きですね」
 横並びに一列、ずらっと椅子が並んでいる。その真ん中あたりに、ケシとタナベは並んで座っていた。
「お前は好きなの」
「好きでも嫌いでもないですよ、こんな場所」
 ケシはそう言ってため息を吐き、ちらと一番端の椅子に座った男性の方に目をやった。男性はぼんやりと、稼働する洗濯乾燥機を見つめている。壁を埋め尽くす洗濯乾燥機のうち、右端のひとつがごうごう音を立てながら洗濯物を回転させていた。乾燥中のランプが残り時間を示している。残り十秒。あの椅子に座る男性の洗濯物だ。残り五秒。男性はゆっくりと一度瞬きをした。三、二、一、ピピー。乾燥が終わる。
その瞬間には、男性の姿は跡形もなく消えていた。まるいガラス扉の向こうにある洗濯物も、蒸発するように消えていた。最初から、誰もいなかったみたいだ。何もなかったみたいだ。
 仕事を終えた洗濯乾燥機は、緑色のランプをせわしなく点滅させて洗剤切れを訴える。ケシは立ち上がり、洗濯乾燥機の洗剤入れを開けると、ストックしてあった洗剤を注いだ。
 単調に作業をするケシも、それを見守るタナベも何も言わない。コインランドリーに、静寂が満ちる。
 洗濯乾燥機のランプが消え、ケシはタナベの隣に戻ってきた。二人は一度目を合わせ、どちらともなく逸らす。ケシはタナベの手の中にある洗濯物の入ったビニールバッグに視線を移していた。彼が油断しているとでも思ったのか、そっと手を伸ばしてそれを奪おうとする。タナベは涼しい顔で、ひょいとケシの手をかわした。
「もう! 何なんですか!」
 ケシは地団駄を踏みながら立ち上がって、力尽くで洗濯物を奪おうとタナベに攻撃を仕掛ける。タナベはうおおお、と飛びかかってくるケシを交わし、ぽーんとバッグを放った。ケシは飛び上がってそれを奪おうとするが、バッグは二段重ねになった洗濯乾燥機の上に乗っかる。背の低いケシの手は届かない。ぐぬぬぬ、と悔しそうに唸り、タナベの方を振り返った。
「何なんですか! 毎日! ワタシをいじめて楽しいですか!」
「怒ってるねえ、カルシウム足りてないんじゃないの」
「違う! アンタのせい!」
 ケシは、叫んでタナベを指さした。

 ケシはこのコインランドリーの管理人である。
 機械のメンテナンス、洗剤の調達、掃除もろもろ、このコインランドリーに関することは全てケシに任されている。本来なら無人のはずのコインランドリーにケシがやってきたのはひと月前だ。コインランドリーにはひとつ大きな問題があって、それを解決するために寄こされた。
 その問題とは。
 この、タナベという男だ。
「タナベさんわかってます? ここコインランドリーですよ」
「うん」
「洗濯するとこ! わかります?」
「うん」
「洗濯してくださいよ!」
「それはできない」
「なんでですか」
「言ったじゃん。俺コインランドリーが好きなんだ。ずっとここにいたいんだよ。洗濯が終わったら、いられなくなっちゃうだろ」
 ケシは頭を抱える。コインランドリーに来て、いつまでも洗濯機を回さず、ここに居付いた男をどうにかするのがケシに与えられた任務である。この男がどうしてここに居付いたのか、何故頑なに洗濯しようとしないのか、ケシには全く理解できない。
 ケシは人間に生まれたことがないからわからないが、ここで洗濯をするのが一番最後の人間たちの仕事だ。
人間は死んだあと、持ってきた洗濯物をここの洗濯乾燥機に入れる。そういう決まりなのだ。このコインランドリーの先に何があるのかケシは知らないが、きっと素敵なことが待っているはずである。少なくともここよりは良い場所に行けると思う。なのにここにい続ける理由は何なのか。タナベに何度尋ねても、さっきみたいにはぐらかされるばかりである。
「ワタシ、アナタをどうにかしないと家に帰れないんですけど」
「それは、お気の毒に」
「うおおお」
 ケシは飛び上がって洗濯物に手を伸ばす。届かない。タナベはそれを見てわはは、と笑った。もう一度高くジャンプして結局届かず、ケシはそこに置きっぱなしにしていた洗剤のボトルを盛大にひっくり返した。タナベはさらに笑う。ケシは座りこみ「うあーん、もういやだよー」と泣きごとを言う。
「甘いんだよなあ、お前は」
 タナベは言った。ケシは眉間に皺を寄せる。
「本気でやればいいのに」
「うるさいですよ」
 このくだらない鬼ごっこが始まってひと月。初日こそ、洗濯物を奪い取って無理矢理にでも洗濯機に押し込んでやろうと思っていたケシだが、最近はただのルーティンワークになっているきらいがある。一ヵ月の間、隙をつくことのできる瞬間なんていくらでもあったし、ケシもそんなに馬鹿ではない。では何故、ケシはタナベの洗濯物を奪おうとしないのか。
 最初は好奇心だった。彼は何故ここに居座るのか。その理由を知りたいと思った。だからずっとこうして、隣に座って話を聞いて、退屈になったら身体を動かすことを繰り返していた。
 そうしているうちに、何となくこの毎日にもこの男にも愛着がわいてきてしまっている。それもケシが鬼ごっこを終わらせられない理由である。口が裂けても言えないが、単なる好奇心とは別の思いで、ケシはタナベがここにいる理由を、知りたいと思っている。
 ケシは立ち上がり、息を吐いた。
「ワタシは洗剤を調達してきます。タナベさんは床を掃除しておいてください。ああ! もう! ワタシが帰ってきたら今度こそ洗濯してもらいますからね!」
 タナベはくつくつ笑いながら、一緒に脚立も調達してきたらいいよ、と言う。ケシはそれを無視してぷんすかと怒ったままコインランドリーを出て行った。

 タナベは壁際のロッカーからモップを取り出し、床を丹念に磨く。ふき取りが終わるとモップを洗い、もう一度床を磨き、滑らないか確かめた。よし、と呟きモップを片付ける。それから彼は思い出したように、上段の洗濯乾燥機の上に乗った自分のバッグを取った。そのときふとコインランドリーの手動ドアが開く気配がして、タナベはそちらを振り返る。そこに立った若い男が、彼の顔を見て目を見開いた。タナベも、同じ表情を浮かべている。
「お前、タナベか?」
 男の言葉にタナベは頷いて、少し笑う。
「久しぶりだなあ、キシモト」
 本当に久しいなあ、と彼らはお互いの肩を叩き合った。いつぶり? もう思い出せないよなあ。元気に暮らしてたか? そこそこね。
 キシモトはタナベの大学時代の友人だ。タナベが大学を中退してから、もう随分長いこと会っていなかった。あまりに久しぶりで何から話をしていいのかわからない。
「とりあえず洗濯機回すわ」
 キシモトは左から三番目の下段の機械の扉を開ける。
「いいの?」
 タナベが問いかける。
「うん? いいよ」
 キシモトは少し怪訝そうに笑った。タナベはそうか、と応えた。
「ここのボタンでいいのか?」
「うん」
 洗濯物が、回転し始める。キシモトはおそらく知らないのだろうとタナベは思う。洗濯が終わる頃、何が変わっているのか、彼は知らない。けれどタナベは何も言わなかった。あるべき形を守らないのは、自分だけで十分だと思ったし、その方がキシモトにとっても幸せだからだ。

     *

 セノはその山中で、しばらくぼんやりと立ち尽くしていた。あたりは静かだ。時折木の枝が風に揺られる音や、小鳥のさえずりが遠く聞こえる。木漏れ日の落ちる地面には、雑草と小さな草花と落ち葉、供えられた花束、そして錆びついた部品が忘れられた記憶のように佇んでいた。
 セノは目を瞑る。あの鮮烈な映像が、今まさに起こっていることのように頭の中に蘇る。思い出すのはいつも、自分の机の上に置かれた便せんと、テレビの報道だった。
 ブラウン管の画面の中、遠く離れてしまった自国のニュースが大きく取り上げられていた。燃え上がる機体。午後十二時三十分発、○○から××へ向かう飛行機の墜落事故。乗客は全員死亡、とキャスターは告げた。セノは彼のことを思い出した。途端、血の気が引いた。彼女は震える手で、前日届いたメールを開く。パソコンの画面に並んでいたのは、簡潔にまとめられた彼の近況報告と、もし何かあれば、と書かれた実家の住所、そして、
――明日の十二時半発の××行きの飛行機で、実家に帰ることになりました。それじゃあ、お元気で。

 セノは首から下げていたカメラを構え、何枚かシャッターを切った。
「セノさん」
 あとからついてきた助手のハラダが、セノに声をかける。彼女は振り返って、
「ああ、ありがとう。重かったでしょう」
 と、申し訳なさそうに笑った。いえ、とハラダは目を伏せて首を振った。
「ハラダくんは、ここ、来たことあった?」
 セノの問いかけに、ハラダは首を振る。
「はじめてです」
 そう、とセノは頷く。ハラダは三脚を置き、開いた手に持っていた花束を置いて、手を合わせた。
「十年前、ですよね。僕はまだ、高校生でした」
「わたしは大学を卒業したばっかりだった」
 十年前に起きた、国内線飛行機の墜落事故。その墜落現場が、この場所だった。
「でも、どうして急に?」
 ハラダの問いにセノは俯いて、自分の供えた花束をじっと見つめた。
「やっと、ここにくる覚悟ができたから」
 セノの応えに、ハラダは首を傾げる。
「恋人が死んだの」
 単調に、セノは言った。え、とハラダが乾いた声を漏らす。
「あの飛行機に乗っていたの」
 上の方で、鳥が飛び立つ音が聞こえた。緑の葉が舞うように落ち、木漏れ日が揺らいだ
「……そうだったんですか」
 ハラダは少し傷付いたような顔をしていた。それから言葉を探すように目を泳がせ、何も言えずに俯いた。セノはカメラを構え、思い詰めたように、シャッターを切る。

     *

 ガラスのまるい扉の向こうで、キシモトの洗濯物が白い泡と一緒にぐるぐると回っている。
「キシモトはあれから、アズミさんと結婚したの?」
 タナベは尋ねる。キシモトは頷いた。
「うん。二十六になる年だったかな」
「それからずっと?」
「ああ」
「長い付き合いだ」
 そうだな、とキシモトは笑う。
「キシモトはアズミさんと付き合うようになってから急激に俺と会わなくなったな」
 タナベが懐かしそうに言うと、キシモトは眉間に皺を寄せた。
「そんなことねーだろ。学内では大体一緒だったじゃねーかよ。お前だってほら、あの、なんて言ったっけ、あの彼女と付き合うようになってから疎遠になっただろ」
「そんなことない。俺は友情も大切にするタイプだった」
「そうだったか?」
 記憶にないな、と言うようにキシモトは笑う。
「四人で出かけたよな。海行ったろ。覚えてる?」
 キシモトの言葉に、タナベは薄く笑って頷いた。

 夏の海だった。みんな大学生で、卒業も就職も遠くて、心配なことなんて何ひとつなく笑っていた。タナベはずっと、自分がカメラのシャッターを切っていたことと、恋人がシャッターを切る自分にカメラを向けて楽しそうにしていたことを覚えている。二人は、写真部で出会った恋人同士だった。
 キシモトの恋人、アズミカオリとタナベが会ったのはそのときが最初で最後だった。表情がくるくると変わる、快活な女の子だった。カメラを向けると子どもみたいに笑って、どんな体勢でも必ず両手でピースをした。バランスを崩して転ぶこともいとわなかった。何がそこまでアズミをダブルピースに執着させるのかと不思議に思うくらいだった。始終、キシモトがおかしそうに笑っていたのをよく覚えている。二人でいれば笑ってばかりのカップルなのだろうとタナベは思った。
 現像したあの日の写真を、タナベはそれからあとも何度も見返した。自分と彼女の撮った写真を一冊のアルバムにまとめて――もしかしたらあの頃が、一番楽しかったかもしれない。あのアルバムは、あれからどうしただろうか。
「四人で遊んだのはあれっきりだった。まあそもそもが接点なかったし……俺たちの出会いが出会いだったからな」
 回る洗濯物を見て、キシモトは言った。その目がぼんやりと遠くなる。
「どんな出会いだったっけ?」
 タナベはキシモトを見る。答えを確かめるように尋ねた。
「そう、それを思い出そうとしてるんだけど」
 キシモトは眉間に皺を寄せ、
「変だな、思い出せないんだ」
 と、言った。タナベは少し、顔を歪めた。始まった、と思った。
「……結婚までは、どうしてた?」
 タナベは前を向いたまま、話題を変える。回る洗濯物から、どんどん染みついたものが落ちていく。
「大学卒業してから……二人とも別の場所に就職して、ちょっと遠距離になった。あの頃はよく喧嘩した。でも、何とか結婚できたよ。子どもも生まれて愉快だった。うん。あれ、何だかぼんやりするな。変だな。何だっけ。何があったんだっけ」
 キシモトは不安げな表情を浮かべる。確かめるように、彼はアズミの話をしようとした。開いた口は、動かなかった。キシモトは洗濯乾燥機を見つめながら、眉根を寄せた。タナベも洗濯物に視線を移す。白い泡は容赦なく丸窓の向こうを埋め尽くして、翻弄されるように洗濯物は回転を続ける。 
洗濯乾燥機は、記憶を洗い流していく。
ここで生前の記憶を全て失うことが、人間に与えられた最後の仕事だ。
 沈黙が続いた。
 タナベは目を伏せて、キシモトの頭から消えてしまった二人の出会いを思い出していた。そう、いつか学生食堂で、彼女ができたのだと、キシモトは自慢げに報告したのだ。

「何処で知り合ったんだよ。部活か? まさか学部の子じゃないよな」
 訝しげな顔をするタナベに、キシモトはくつくつと笑い、したり顔で応えた。
「コインランドリー」
「え? コインランドリー?」
「そう」
 キシモトは頷く。タナベは一層怪訝そうな表情になる。
「コインランドリーって、あの、洗濯するとこ?」
「うん」
 タナベの顔を見て笑いながら、キシモトはまあ聞けよ、と言った。
「その日雨降っててさ、でも洗濯物超溜まってて明日着る服もねーじゃんってなって、コインランドリーに行ったんだよ。俺ひとりしかいなくてさ、終わるの待ってたわけ。そしたらその子……アズミカオリっていうんだけど、彼女が来て、洗濯機の扉開けようとして悪戦苦闘してんのね。レバー押してひねれば良いのに気付かなかったみたいで。可愛いし面白いしで俺しばらく見てたんだけど」
「お前性格悪いよな」 
「うっせ。まあ埒あかないから俺が手助けしたの。話しやすい子でさ。やべえな、これ一目惚れってやつじゃねーかなと思ってたよ。俺もう洗濯終わってたんだけど、まだ終わってない振りして話してた。それから自分ちの洗濯機使わなくなったね、俺は」
「コインランドリーで待ち伏せてたわけな」
「人をストーカーみたいに言うなよ。まあでも、不思議とタイミングよく会えたんだわ、何回も。だんだん仲良くなって、メールアドレス教えたりして、次はいつ、コインランドリー行きます、みたいなさ、そういう待ち合わせみたいなのが続いて」
「付き合うようになったと」
「そういうこと」
 キシモトは、幸せそうに笑っていた。まだ、十九歳だった。その話を聞いてから、タナベは何となく、街にあるコインランドリーに目をやるようになっていた。
 その翌年、タナベは付き合い始めた恋人にキシモトとアズミの出会いの話をした。彼女はそのエピソードをとても気に入って、一緒にコインランドリーの写真を取りに行ったこともあった。キシモトたちに倣って、コインランドリーで待ち合わせをしたこともあった。そうだ。その頃から、タナベはコインランドリーという場所が好きになった。
 いつの間にか自分の記憶に行きつく。そしてまた、あの夏の海のことを思い出す。
 そういえば、あのときの写真を、結局キシモトに渡せなかった。いつでも会えると思って、気付けば二度と会えなくなっていた。大事な思い出を二人にもきちんと手渡すべきだったのに。
 写真に切り取ったアズミの笑顔を、タナベは今もよく覚えている。キシモトはどうだろうか。まだ、思い出せるだろうか。
「死ぬまでずっと好きだった? アズミさんのこと」
 沈黙を破り、タナベは、キシモトに尋ねる。
「急に何お前。何言わせようとしてんの」
 キシモトは力いっぱいタナベの背中を叩く。照れ隠しをするときのキシモトの癖だった。懐かしいな、とタナベだけが思う。
「いいから答えろよ」
 タナベの言葉に、キシモトは不機嫌そうな顔で、
「そりゃあな」
 と言った。
「そりゃあ、好きだったよ」
 もごもごと口ごもりながら言って、キシモトは両手で赤くなった顔をぺちぺちと叩いて座りなおした。息を吐き、話題を変えようと彼はタナベの方を見る。
「タナベは、あれからどうしてた?」
「俺はあれからすぐに死んじゃったからなあ」
 タナベは困ったように笑って、そう応えた。

     *

「昔話をしてもいい? 聞き流してくれて構わないから」
 セノは言う。聞いていますよ、とハラダは応えた。
 ありがとう、とセノは少し笑う。

 正確にはね、そのときはもう、わたしたちは恋人同士じゃなかった。彼はひとつ年下でね、同じ部活の、写真部の後輩だったの。付き合い始めたのはわたしが三年生になった頃。それから二年間近く一緒にいた。彼はわたしの写真を好きだと言ってくれた。わたしも、あの子の写真が好きだった。
 わたしたちの関係がこじれた原因は、わたしの就職先だった。わたしは大学のある街で内定をもらっていてね、卒業後も、彼と一緒にいるはずだった。でも、その後で海外勤務の話が出たの。尊敬するカメラマンと一緒だった。向こうで彼について、写真の勉強をしながら仕事ができるって聞いて、わたし、行きますって、言っちゃったのね。
 向こうに行ったらしばらく帰ってこられない。彼は落ち込んでいた。急に遠距離恋愛になることにも、わたしの優先順位が、彼よりも写真にあったことにも。彼はもしかしたら、わたしと一緒に行くカメラマンに嫉妬をしていたのかもしれない。真意はわからなかったけど。
 ぎくしゃくしたまま、わたしは卒業して、海外に行った。それからもう、ほとんど自然消滅の形だったな。連絡が完全に途絶えたわけじゃなかったけど、付き合っている感じでは、もう、なかった。
 あの事故の前日に、メールが届いていたの。彼は大学を辞めたって言った。そのあとで、実家の住所を書いてくれていた。それが、彼のささやかな未練なんだと思った。メールの末尾には、あの十二時三十分発の××行きの飛行機に乗ると書かれていた。

 セノは言葉を切った。
「ニュースが流れたとき、わたしは彼に、手紙を書いてたの。彼の実家あてにね。未練ばかり書き連ねた手紙だった。彼からのメールを読み返して、どうか、あの飛行機じゃありませんようにって思った。彼が乗っていませんようにって……」
 ハラダは、目を伏せて頷く。当時、毎日のように流れていた凄惨な映像は、海外でも報道されていたのだ。
「それからすぐ、日本の友達から彼が亡くなったって連絡を受けた」
「後悔、しましたか」
 ハラダは尋ねて、すみません、と言った。セノはいいの、と薄く笑い、
「後悔した」
 と、応えた。
「何でわたしここにいるんだろうって思った。わたしがあの街に残っていれば、彼は死なずに済んだかもしれないとも考えた」
 セノは目を閉じ、それから、と呟く。
「いなくなるなんて酷いって。そう、思ったの。先にいなくなったのは、わたしのほうだったのにね」

     *

 洗われるたび記憶は抜け落ちて、最後には自分のことも忘れてしまう。洗濯が終わる頃には、洗濯物も、その人自身もここから消える。
 その先に何が待っているのか、タナベにはわからない。完全に消滅してしまうなら悲しいなと思う。もしかしたら天国と呼ばれる場所に行けるかもしれないけれど、全てを失わないと行けない楽園なんて、全く意味がない。
彼は何となく、ここを出たらまた生まれ直すのではないかと考えている。そして一からまた始めるのだ。それは、幸福なことだろうか。
 ここにいることが幸福とも、タナベには思えない。きっと摂理に従うべきなのだ。その方が正しい。こんな場所でいつまでも死にきれないなんてそれはそれで酷い話だ。
 ここで何が起こるのか知らない人に全て告げて、あえて引きずり込む必要もない。だから、タナベは誰にも何も言わなかった。
 タナベがここに来たとき、他にもたくさんの人間がいた。みんな淡々と洗濯機を回した。ここが何なのか理解するよりも、手の中にある洗濯物を綺麗にしなければ、という意識が働いているようだった。それはもう、本能のようなものだ。そうしてみんな、全て忘れて消えていった。誰も、何が起こっているのかわかっていなかった。タナベだけは知っていて、頑なに自分の洗濯物を守り続けた。そのうちみんないなくなった。それからも時折誰かがやってきた。みんな何食わぬ顔で機械のボタンを押した。その指が、全てを失うスイッチを押していることを誰も知らなかった。タナベだけが知っていた。

「おかしいな、俺も呆けたかな」

 キシモトは呟くように言う。記憶が消えていくことに、取り乱したりはしなかった。透明な表情をしていた。
 時々、忘れていく恐怖に気が狂ったように暴れる人もいた。途中でこの洗濯乾燥機のせいだと気付く人もまれにいた。そんな人間に殴りつけられることもあったけれど、ここにはもう痛みなんてないし、タナベは恐怖に歪んだ相手の顔をじっと見ているだけだった。殴られたってひとつも痛くはなかったけれど、胸のあたりはじくじくと苦しくて、いつだって泣きそうだった。
 そんな人も、洗濯が終わる頃には恐怖も悲しみも忘れて、透明な表情になった。彼らは自分が人を殴ったことに驚いて、平謝りして、いなくなった。
「あいつな」
 キシモトが、ぽつりと言った。乾燥中のランプが点滅する機械をぼんやりと見つめる彼は、この数分のうちに、急激に老けこんだようにタナベには映った。彼は気付いているのだろうか。この洗濯物に染みついていたものが自分の記憶だったと言うことに。気付いていないのかもしれない。彼は失いたくなんてなかっただろう。こんなとき、俺は酷いことをしているのかもしれないと、タナベは思う。
「あいつ、何年か前からすっかり呆けちゃって」
 キシモトは必死に記憶を手繰っていたようだった。アズミに関する記憶だ。驚くべき速さで消えていく記憶を掴もうとするように、口を開いた。
「どんどん、忘れていってな。最後には、俺のことも、わからんようになってしまったよ」
 ふ、と懐かしむようにキシモトは笑った。
「忘れられるのは寂しかった。でも、忘れるのも寂しいことだったんだな。怖かったろうな。あいつ、俺のこと忘れたくなかったろうにな」
 そう思うことも、忘れるんだろうな。
 キシモトは言った。彼はもう、俺のことを覚えていないかもしれない、と、タナベは思う。
「キシモト」
「うん?」
「お前、いくつで死んだ?」
 キシモトはぼんやりとタナベの顔を見る。彼は応えなかった。多分もう、覚えていないのだ。けれどタナベは一瞬だけ、皺が深く刻まれ、膝を悪くして耳も遠くなった、八十過ぎの白髪の老人の姿が、キシモトに重なるのを見ていた。ああ、俺が死んでもう六十年以上経つのだな、とタナベは思った。洗濯乾燥機は温風を吹き上げる。あと十五分、とランプが告げている。
 そのときだった。
 コインランドリーに、ひとりの女性が入ってくるのがわかった。タナベとキシモトはそちらを見る。彼女の顔を見て、その手が持つ荷物の少なさを見て、タナベはそっと立ち上がった。彼女はあの夏の海で、両手でピースを作ってカメラに笑みを向けた女性と全く同じ顔をしていた。タナベは何も言わず、彼女と――アズミとすれ違い、コインランドリーの外へ出た。

 記憶力の良い人ほど、洗濯物の量は多い。逆を言えば、覚えていることが少ない人は、ほんの少しの洗濯物しか持って来ない。
 アズミはたった一枚の薄手の毛布を手に、ぼんやりと座っているキシモトの前を通り過ぎて、真ん中あたりの下段の洗濯乾燥機の前に立った。
「あれ」
 アズミは扉に手を掛ける。が、それはうんともすんとも言わない。おーまじかー、とアズミは小さく呟いた。彼女はあの手この手で扉を開けようとする。上手くいかなくてぐぬぬぬ、と唸る。
 それをしばらく黙って見ていたキシモトが吹き出した。アズミは人がいたことを忘れていたようで、驚いて振り返ったあと、赤面しながら、
「あらー、どうもこんにちは」
 と言った。
「これ、何で開かないんですかねー、あはは」
 照れを隠すように笑う。キシモトは立ち上がって、
「ちょっと貸してください」
 扉のノブを手にした。そしていとも簡単に開けてしまった。アズミは目を見開いて、
「えっ、どうやったの?」
 と、手品でも見せられたかのようにキシモトと扉を見比べた。
「ここを押して、こうひねったら開くんだよ」
 キシモトは言う。ああ、とアズミはまた恥ずかしそうに笑った。
「全っ然気付かなかった。魔法でも使ったのかと思った」
「まじか。魔法使いですって言えば良かった」
 キシモトはけらけらと笑う。それから少し、沈黙が流れる。
「あー……あなた、洗濯物は?」
 アズミが尋ねる。あれだよ、多分ね、とキシモトは応える。言い切れない。忘れてしまった。もう、何も覚えていない。
 アズミは少し不思議そうな顔をして、それから洗濯乾燥機の開始ボタンを押した。
「ねえ」
 彼女はじっとキシモトの顔を見る。
「何処かで会ったことある?」
 キシモトは一瞬だけ顔を歪めた。首を振る。
「はじめましてだよ」
 その言葉に、アズミは目を細めて、そっか、と応えた。
「はじめまして」
 アズミは言う。
「これ一枚だったら、十分あれば終わるかな」
 そう続けて首を傾げてみせた。
「そうだね」
 キシモトは頷いた。
「まあ、もし終わらなくてもそっちの洗濯が終わるまで、ここにいるよ」
 そう、とアズミは頷いた。二人は少し赤くなり、はにかみながら微笑んだ。

 コインランドリーの外で、タナベは洗剤を抱えたケシと並び、窺うようにキシモトとアズミを見ていた。
「何で入らないの」
 タナベの言葉に、ケシは眉間に皺を寄せて、
「何かそういう雰囲気じゃないでしょ」
 と言った。
「お前ここの管理人でしょうよ」
「それでも!」
「甘いなあ、だから俺みたいなのが出てくるんだ」
「アナタが言いますか」
 呆れたようにケシは言った。タナベは笑い、キシモトとアズミの方へ視線を戻す。そして、
「……写真撮りたいな」
 と、ぽつりと呟いた。そんなことを思ったのは、酷く久しぶりだ。はあ、と隣のケシがため息を吐く。そして洗剤の入った袋に手を突っ込み、はい、とその中から取り出したものをタナベに渡した。カメラだった。
「……お前、なんで」
「仕事の一環です」
 ふふ、とケシは笑う。タナベは泣きそうな顔をして、でかした、とぐしゃぐしゃケシの頭を撫でる。
「アナタに褒められてもこれっぽちも嬉しくないですが」
 ケシは照れを隠すように、不機嫌そうな顔をして言う。タナベはコインランドリーの手動ドアを開けた。乾燥機が動いている。二つの機械は、同じ時間を表示する。
 あと、二十秒。
「キシモト、アズミ」
 二人の名前を呼ぶ。あと十五秒。もう、自分の名前なんて忘れてしまっているはずなのに、二人は揃ってタナベの方を振り返った。
「写真、撮るよ」
 そう言って、タナベはカメラを構える。あと十秒。キシモトとアズミは一瞬驚いた顔をして、すぐに笑った。ファインダーの中にいるのは出会った頃の二人だった。二人は一度顔を見合わせ、寄り添う。穏やかな透明な笑顔。アズミはカメラの方を見て、両手でピースサインを作って見せた。カシャリとシャッターを切る音。ピピー。洗濯乾燥機が二台同時に止まる。タナベが覗き込むファインダーの向こうには、もう、誰の姿もなかった。

     *

 セノは、シャッターを切る。今、自分のいる場所を、一心不乱に撮る。
「ハラダくん、そっちの機材、準備してくれる?」
「はい」
 写真は、選択の芸術だ、と言われることがある。ここに映るのは、自分の目の前にあるものだけだ。それを切り取る。ここに辿り着いてしまったという事実が、写真にはありありと現れる。
「フィルム、交換して」
「わかりました」
 逆を言えば、選べなかったものは、決してここには写らない。自分の頭の中にあるものが、フィルムに焼きつくことは絶対に、ない。画家ならば記憶を絵に描ける。小説家ならば可能性を文章にできる。けれど写真家は違う。自分が選んで掴んだ今を残す。それがすべてだ。
 セノはそんな写真の在り方が好きだった。けれど今は、少し痛い。
「セノさん」
「何?」
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですが……」
 大丈夫、と、セノは笑う。
「でも、うん、少し、休憩しようか」
「はい」
 ハラダは自分のリュックから水筒を取り出し、コップにお茶を注いでセノに渡した。セノは礼を言ってそれを受け取る。ゆっくりと飲み干し、
「ここにくる覚悟が、できたって言ったでしょう?」
 そう、呟くように言った。ハラダは顔を上げる。
「忘れる覚悟を、したの」
「……彼のことを、ですか」
 セノは目を瞑り、頷く。
「この場所を撮って、終わりにしようと思うの。だから、あともう少し」
「わかりました」
 ハラダは、セノにカメラを手渡した。
「セノさん」
「うん?」
「終わったら、この前の返事、してもらえますか」
 ハラダはまっすぐにセノを見る。

――僕は、セノさんのことが好きなんです。

 少し前、ハラダにそう言われた。セノは目を見開いて、それからはぐらかしてしまった。ハラダはそれ以上、何を言うこともなかった。いつも通りの毎日が続いていたけれど、セノはずっと考えていたのだ。そして今日、ここに来た。それが、ほとんど答えと言ってもいいくらいだった。セノは俯いたまま、
「そうね」
 と、言った。

 あの日の選択を何度も悔やんだ。彼を選んでいればきっとこんな風にはならなかった。悔やんでも悔やみきれなかったし、勝手にいなくなった彼を、タナベを、責めたこともあった。いくら泣いても声が届くことはなかった。セノがタナベのことを思い出さない日はなかった。
――でも、今日。
 シャッターを切るたびに、ひとつずつ忘れていこうと思う。ひとつずつ丁寧に思い出して、さようならを、言おうと思う。酷いことをしているだろうか。けれど、わたしは生きていかなければならない。ここに写ることのない過去だけで生きていけるほど、わたしは強くない。
 ファインダー越しに、いつかの思い出を見る。それは大学近くのコインランドリーで交わした、他愛もない会話。

 写真集を作ろうと、タナベは言った。
「コインランドリーの?」
 セノの問いかけに、彼は頷く。
「写真絵本みたいなのが作りたいんだよ。コインランドリーの話」
「どんなの?」
 二人の洗濯物が、まるい扉の向こうで回るのを見ながら、セノはふわりと問いかけた。
「世界の果てにはコインランドリーがあって」
 タナベは読み上げるように話をする。セノはその声が好きだった。
「人は死んだらみんなそこに行くんだ」
「どうして?」
「忘れるため。命を洗濯して、まっさらになってもう一度世界に帰ってくるため」
 タナベはそう言って笑った。
 二人のうちどちらかが先に死んだら待っていよう。こうしてコインランドリーで待ち合わせしよう。二人で一緒に洗濯機を回して、昔話をしながらゆっくり忘れていこう。
「そしてその先で、もう一度生まれ直して会えたらいいね。コインランドリーで、何処かで会ったことある? なんて言って。それを何度も繰り返すんだ。世界が、終わる頃まで」
 そんな話を作りたい、とタナベは言った。それとてもいい、とセノは笑い、タナベの手に触れた。

 セノは泣きながら、それでもシャッターを切る手は止めなかった。今だって鮮明に蘇る。頭の中にはこんなにもきちんと、彼の笑顔も声も温度も蘇る。けれどもう忘れよう。それはあのときから、彼女が海外行きを決めたときから、定められていたのかもしれなかった。本当は選びたくなんてなかった。どちらかを選ぶ気なんてさらさらなかった。元通りになると思っていた。また会えると思っていた。そんな虫の良い考えをしていた。馬鹿だった。でも、わたしは、ここにいるのだ。ここに写るこの世界が、わたしの望んだ世界なのだ。

――さようなら。

 最後の一枚を撮り、セノはいつまでも巻き終わらないフィルムを巻き続けた。しばらく経ってからようやくその親指を止め、息をついて、振り返った。
 ハラダと目が合う。彼は何も言わずに頷いた。
 この人と生きていこう。そのためにここに来たのだから。セノは袖で涙を拭う。
「ハラダくん」
「はい」
 少し緊張した面持ちで、ハラダは応えた。
「もう一度言って。この前の」
 ハラダはまっすぐにセノを見る。少し息を吸った。
「好きです」
 少し苦しそうに、ハラダは続けた。
「僕と一緒に、生きてください」
 静寂が訪れた。木の枝が風に揺られる音や、小鳥のさえずりが遠く聞こえる。
「お願いします、セノさん」
「……うん」
 セノは頷く。頷いて、どうにか微笑んだ。木漏れ日の落ちる地面には、雑草と小さな草花と落ち葉、供えられた花束、そして錆びついた部品が忘れられた記憶のように、佇んでいた。

     *

 コインランドリーではまた、タナベとケシが並んで椅子に座っていた。
「……タナベさん」
「うん?」
「何であなたは、ここにいるんですか」
 タナベは目を伏せた。その問いは、このひと月の間、何度もケシにぶつけられたものだった。そのたびにはぐらかしてきた。でも、もう、ごまかせないような気がした。
「アナタにも、キシモトさんとアズミさんみたいに、ここでもう一度出会いたい人がいて、その人を待っているんじゃないですか」
「ケシは、何処まで知っているの、俺のこと」
 タナベの問いかけに、ケシはほとんど何も知りませんよ、と応えた。
「アナタがワタシに話してくれた情報と、さっきキシモトさんと話していた情報くらいです。写真を撮っていたことと、昔恋人がいたこと、コインランドリーが好きなこと」
「ほとんどそれが全てだよ」
「……彼女は、どうなったんですか」
 タナベは黙ったまま、彼女の姿をまぶたの裏に思い描こうとした。シャッターの音が響くコインランドリーと、おとぎ話のような約束。
「俺はね、彼女に会えなかったんだよ」
 タナベは薄く笑った。その声は掠れていた。
「人間の世界の時間で言うと、十年くらい前になるのかな。たくさん人が死ぬような天災があって、ここにもたくさん人間がやってきた。その中に、彼女の姿もあった」
 思い出す。タナベには、すぐにわかった。セノの顔を忘れたことは一度だってなかった。それを守りたいがために、ずっとここにいたのだ。
「彼女は、自分の夫の手を握りしめていてね、それを見た瞬間、俺は逃げるように二人の側を離れて隠れたよ。人はたくさんいたから、彼女は俺に気付いていなかったと思う。二人は同じ洗濯乾燥機に洗濯物を入れて、それが洗われるのをじっと見ていた。彼女はここがどんな場所なのか知っているようだった。自分の隣にいた、ずっと連れ添っていた夫と、彼女は思い出話を始めたんだ」

――二人で一緒に洗濯機を回して、昔話をしながらゆっくり忘れていこう。そしてその先で、もう一度生まれ直して会えたらいいね。コインランドリーで、何処かで会ったことある? なんて言って。

 タナベは何かを飲み込むように一度言葉を切って、飲み込みきれなかったものをはき出すように、再び口を開いた。
「ああ、俺は選ばれなかったんだなって、そのとき思った」
 揺らぐ声を、ケシは黙って聞いている。
「彼女と別れるときも同じことを思ったなって、そんなことを思い出した。名前を呼んで、出ていけば良かったのかもしれない。彼女の手を掴めば良かったのかもしれない。そうすれば何か変わっていたのかもしれない。あのときも……でも、俺にはできなかった。二人が全部忘れて、消えていくのを見ていた」
 そして、タナベにとっての全てが終わったのだ。彼女は消え、タナベがここにいる意味もなくなった。
「じゃあ、どうして……」
 ケシは泣きそうな顔で問う。タナベは、そっと笑って見せた。
「俺が覚えていれば終わらないかなって、思ったんだよ。何処にもいなくなって、彼女は本当に、本当に、俺の全てになった。俺がここにい続ければ、忘れなければ、それだけは終わらないよなって思って。そんなわがままでここにいるんだ。馬鹿だなって思うよ。洗濯しなくたってさ、思い出せないことはたくさんあるのに。時間が経てばそのうち彼女の顔すら、思い出せなくなるかもしれないのに」
 タナベは言葉を切り、ケシの方を見た。
「ごめんな」
 タナベはケシの顔を見て笑う。
「何で泣いてんの」
「泣いてません」
 ケシは言う。タナベはカメラを向ける。
「やめてください」
「いいから」
 ケシはそれ以上何も言わずに、声を上げずに泣いた。涙は不思議と溢れてきた。タナベはそれを、写真に撮る。笑ってよ、とタナベが言う。無茶いいますよね、とケシは、それでもぎこちなく笑って見せた。
「わかりましたよ」
「うん?」
 ケシは涙を拭う。
「洗濯、しなくっていいですよ」
 タナベは少し驚いたように目を見開いた。
「俺をどうにかしないと、帰れないんじゃなかったの」
「帰らないんですよ」
 ケシはまっすぐにタナベを見る。
「ワタシがいます。ここに」
 それは同情とは少し違った。愛情とも、少し違ったと思う。愛着はあるが、そういうものではない。ただ、ケシはここで全てを抱えて立ち止まる彼を、そっくりそのまま、選んでもいいと思ったのだ。
「ワタシは、何処にも行きません」
 ケシを見て、タナベは目を細めた。
「……いつまで?」
「そうですね……」
 考えるように目を伏せるケシの横顔を、タナベはファインダー越しに見る。
「世界が、終わる頃まで」
 ケシは笑った。タナベはシャッターを切った。ケシは一層、綺麗な笑みを向けた。見届けてもいいと、ケシは思う。彼が覚えていることも、選んだことも。少しずつ、忘れていってしまうことも。



         


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村谷由香里

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