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小学五年生で書きはじめた作家が「もう一文字も書きたくない」と思うまで ――村谷由香里インタビュー【前編】

みなさま、いつも村谷由香里のnoteをご覧いただきありがとうございます。2017年から、わたしは友人のデザイン&編集事務所スケルトンワークスで働いているのですが、その代表の池田明季哉氏に、『ふしぎ荘で夕食を』の発売のお祝いにとインタビュー記事を作っていただきました。

スケルトンワークスのホームページはこちらです。

明季哉さんとは中学生のころからの付き合いで、わたしはかつて彼から文章の書き方を教わっていたこともあります。現在では仕事の上司となり、小説を書く仲間でもあります。

そんな彼のプロデュースと編集で生まれたインタビューです。
ぜひごらんください。

***

はじめに

――電撃大賞メディアワークス文庫賞受賞、それからデビュー作『ふしぎ荘で夕食を~幽霊、ときどき、カレーライス~』発売、おめでとうございます。

村谷:ありがとうございます!

――今回は、ふたつのことを聞こうと思っていて。電撃大賞のメディアワークス文庫賞って、エンターテイメント小説ではもっとも競争率の高い賞のひとつですよね。でも受賞者が受賞するまでの過程って、あまり詳細に語られることがない。

でも『ふしぎ荘で夕食を~幽霊、ときどき、カレーライス~(以下『ふしぎ荘で夕食を』)』は電撃大賞で受賞したことで話題になっている小説ですから、読者には自分も書き手だ、という人も多いはず。そういう人は、いったいどんな人がどんなふうに書いてきたのか、気になっていると思うんですよね。

なので、まずは村谷さんがどういうふうに小説を書いてきたのかということを聞いて、それから誰もが知りたい「どうしたら受賞できるのか」というところまで行けたらいいなと思っています。

村谷:はい。うわー、プレッシャーですね。私のことが役に立つかはわかりませんけども。がんばります。

『耳をすませば』を見て小説を書きはじめる小学五年生

――いつごろから小説に興味を持つようになったんですか。

村谷:もともと親はさほど本を読む方でもなかったんですけど、絵本はめちゃくちゃ買ってくれていたんですよね。『日本昔ばなし』とかの正方形の本、あるじゃないですか。ああいうのをたくさん読んでました。

実はマンガを読むのが小学校高学年くらいまで苦手だったんですよ。コマ割とかが苦手で、どうやって読んだらいいのかわかりにくくて……。まわりのみんなは少女漫画とか読んでいたと思うんですけど、文字を読むほうが好きだったんです。だから自分で買うのももっぱら小説でした。

小学校五年生のとき、ハリー・ポッターの最初の作品(『ハリー・ポッターと賢者の石』)が出たんです。劇中のハリーと同じ歳で、シリーズが進むにつれてハリーたちと一緒に年齢を重ねられたのが嬉しかった。最初の3作品くらいは徹夜して読みましたね。それが本当に小説に夢中になった最初かなと思います。

――小説を書きはじめたきっかけはありますか。

村谷:同じくらいの時期でしたかね、『耳をすませば』を見て。雫ちゃんが小説を書くじゃないですか。それに憧れて書きはじめたんです。当時はちょっと背伸びしたものが書きたくて。当時好きだった図書館が舞台だったり、恋愛要素が入っていたり、でもドラマチックにならないから人を殺してみたり(笑)。当時から一応はちゃんと完結させていました。量はノート一冊分、って感じです。当時はアナログだったので、気に入らないページはちぎったりしていて、本当に一冊分はなかったんですが。

中学一年生になったころに、家にパソコンが来たんですよ。ピーガガガっていって回線に繋がるやつ。インターネットは一日二時間まで、という今では考えられないような家のルールが敷かれていたので、回線の切れたパソコンでずーっと小説を書いていました。

私、実はタイピングは左手しか使ってないんです。このころ変な癖がついてしまったまま今にいたってしまったという。ちゃんと直しておけばよかったなーとも思いますけどね。速さは問題ないんですけど、片手だと負担が大きくて。

――小説以外に好きなものはありましたか。

村谷:ラジオはけっこう好きでした。当時は山口県に住んでいたので、FM山口のリクエスト番組を聞いていて。これから売れていくような駆け出しのバンドなんかがよく出てくるんですよね。BUMP OF CHICKENもラジオで出会ってファンになりました。まだ周りは誰も知らなくて、『天体観測』が売れる前です。だいたいマイナーな音楽聞いている子でしたね。

――小説は当時から人に見せていましたか。

村谷:一応公開されてはいるんだけれど、人に見られることを意識しなくてよかったので、あの頃は気楽でしたね……。インターネットに今ほど人がいませんでしたから。作って、載せて、友達が見てくれて、それでよかった。学校が終わって友達ともういっかい集まれる場所、近所の公園くらいのパブリックさでした。

高校に入ってから仲良くなった4、5人の女の子のグループがいて、その子たちがいろいろな役柄でいろいろな世界に行くような内容を書いてました。スターシステムですよね。友達に読ませるためだけに書いていたと思います。

ジャンル的にはハイファンタジーをやろうとしてましたかね。天使とか悪魔が出てきて、というような。高校ではBUMP OF CHICKENも続けて聞いていたし、Coccoとか椎名林檎とか鬼塚ちひろが好きでした。TRPGなんかもちょっとハマったりして。そういうものの影響はすごく受けてました。

――平成、って感じですね。

村谷:ある意味、平成のはじまりから終わりまでを見届けた、典型的な文系女子なのかもしれません。

「キミ、感性が枯渇しとるね?」

――大学は人文学部の哲学科に進学されたんですよね。

村谷:中学生のときに『ソフィーの世界』という本を読んで、それで人生が全部狂いました(笑)。哲学というものがこの世界にあるんだ、ということをはじめて知って。ただ、今ほどわかりやすい哲学の解説書があったわけでもないし、インターネットにも専門的なサイトしかなかったので、しばらくそこで止まってしまっていたんです。

ところが高校三年生のときに、倫理の授業を受けてしまった(笑)。そのとき「これだ、哲学をやろう」と思ったんです。センター試験の倫理なんて92点とかでしたから、相当好きだったんですよね。

そこでオープンキャンパスで行った山口大学の哲学科にどうしても生きたくて、でも数学があまりにできなかったから当時の学年主任の先生に「どうにかしてください」と詰め寄って。推薦で受けろ、センターの文系科目で8割5分取れればいける、と言われて、国語・英語・社会と小論文と面接で、山口大学に合格して入学しました。

――大学ではどんなことをやっていたんですか。

村谷:山口大学には文芸部があるんですよ。当時はニコニコ動画ができてボカロが流行りはじめたころで、オタク系のサークルに行こうかなとも思ったんだけれど、結局文芸部に行くことにしたんです。そうすると当たり前だけど、全員文章を書くために集まっているわけじゃないですか。ものをつくっている人がそれまでまわりにほとんどいなかったので、こんな世界があるんだ、と衝撃を受けました。

――具体的にはどんな影響を受けましたか。

村谷:週に一回、批評会というものがあって、書いてきたものにコメントし合うんです。そこで文章表現はめちゃくちゃ鍛えられましたね。

批評会って「ここどうなんですか?」って、厳しく言う人は言うんですよ。だから誰にも文句を言われたくなくて、20歳から美しい文章を書こうということにこだわりはじめました。それに、私は言う人の側だったんで、そういう人が突っ込まれると恥ずかしい(笑)。村谷さんはいつも完璧だね、と言われたかったんですよね。

――哲学はどういうことを勉強したんですか。

村谷:本格的に哲学をやるようになったのは、大学三年生になってゼミに入ってからですね。山口大学は哲学・倫理学でひとりずつ担当している先生がいたんですけど、合同ゼミだったので、ほとんど一緒みたいなものでした。あとは宗教学もあったので、その三つを合わせて「哲倫宗(てつりんしゅう)」と言っていました。

私がいたのは哲学ゼミで、時間学をやっていたんですが、そういう哲学的な題材を中心にあつかうゼミでした。人物の研究、たとえばハイデガーとかニーチェについてやりたい、というのが倫理ゼミ、というようにわかれていた感じです。

面白いのは、全員がバラバラのことをやっているんですよ。卒論の演習で発表があって研究内容を話すのですが、誰が話しても全員「は?」という顔をしている(笑)。自分の専門分野もよくわかっていないのに、人の分野なんてなおさらよくわからない。そういうある意味すごいところにいました。

――『ふしぎ荘で夕食を』も大学の話ですよね。大学生活はどんな感じでしたか。たとえば朝起きるとするじゃないですか。それから一日どんなふうに過ごしていましたか。

村谷:まず、朝起きませんよね(笑)。友達の家に行って、64のスマブラとかやって、午前二時に解散して「明日は3コマかーいけるやろー」といって、しかし寝過ごす(笑)。そんなことばかりやってました。一年生のときに集中講義に出たりして真面目にやったので、二年生からは楽だったというのもあります。

大学の研究室で8人とか9人で大富豪をしていて、顔を上げたら授業がはじまっていた、ということもありましたね。さすがに先生に「ちょっとあなたたち!」と怒られましたけど。

このころの友人たちの多くとは、今も連絡を取り合っています。当時はmixiの全盛期で、twitterに徐々に人が流れていったくらいのころだったんです。SNSでのつながりができていたので、同じ場所にいなくてもなにをしているのかわかるようになったのは大きかったですね。

――大学のころは、どんな小説を書いていましたか。

村谷:当時もやっぱり、実在の友人たちをモデルに小説を書いてはいたんです。誕生日に小説を書いて贈ったりとか。でもこのころはとにかく雰囲気を重視していて「起承転結よりも世界観!」と思っていました。物語よりも、文章を書くことに振っていたというか。

よく言われたのは「演出がくどい」「比喩表現に次ぐ比喩表現で逆になにがいいたいのかわからない」ということだったんですけど、「うるせえ!俺はこれがやりたいんだー!」「キミ、感性が枯渇しとるね?」と返してました(笑)。今考えると、単に技量不足だったんですけど。

――このころはじめて、同じように小説を書く人たちと出会ったんですよね。当時のまわりからの評価はどんな様子だったんですか。

村谷:大学に入った時点で小学生から8年書き続けていたので、ずいぶん書きなれたやつが入ってきたな、という感じではあったんですよ。でも書きなれているだけで、決してうまくはなかった。

とはいえ、文芸部ではよかったものをピックアップして載せる季刊の文芸誌を出していたんですが、それはすべての号に載せてもらいました。三年生のときは編集長だったので、自分の作品を選んでしまったこともあるんですけども。

でも文芸部にはもうひとり、それこそ感性のかたまりのようなやつがいて、彼と比べて「村谷はまだ読みやすいからいいけど……」と言われていました。やつにはいまでも、正直勝てる気がしませんね。松下和生という男で、いまも小説を書いています。

「もう一文字も書きたくない」けど、やめたら死ぬ

――村谷さんはよく「もう一文字も書きたくない」と言っていますよね。このころからそうでしたか。

村谷:そうですねえ。大学時代はいま振り返ると、本当にやりたい放題できたなと思います。書きたいと思うものはもう書き尽くしてしまった。同時に自分のやりたい表現ができてきた時代でもあって、やりたいことと実力のギャップに悩んでもいて。だから「もう一文字も書きたくない」というのは、このあたりから思いはじめたような気がします。

――普通に考えると、書きたくないならやめてしまうと思うんですよ。それでも書き続けていたのはなぜなのでしょう。

村谷:止まると死ぬと思っていたからですね。一回手を止めたら、もう書かなくなるってわかっていた。ずっと人間としては死にたいと思ってきたんですが、作家として死ぬのは勘弁だった。

この時点で、人生の半分は小説を書いていたんです。物心ついてからはずっと書いてきた。ここでこれを失ってしまったら、私にはなにも残らない、そんな気がして。自分のことは好きじゃなかったから、書くことがなくなったら、もう自分を認めてあげることができないと思っていたんです。いまは社会的に物書きになっているので、もうちょっと感情的じゃない部分もあるけれど、あのころは純粋に趣味だったから、感情100%で書いていて「やめたらマジで死ぬ」と思ってました。

まわりにものをつくっている人が多かったんですよ。絵をかいている友達もいたし、写真を撮っていたり、演劇をやっている子もいた。そのなかで自分がなんなんだろうと考えたとき、周りから見ても、自分でも、「物書き」だった。

そんな友人たちと仲良くしていられるのは自分が書いているからだ。これをなくした瞬間に全部なくす。物書きじゃなくなった自分を、友達と言ってくれるだろうか。そんなふうに思っていて。それは今もそうです。自分自身の誇りが、それしかないんですよ。

就職、断筆、そして震災

――趣味で書いていた、ということですけれど、公募には出していなかったんですか。

村谷:はじめて公募に出したのは、大学を卒業したときです。大学四年生はもう文芸部も引退していて締切がなかったから、記念に一回出そうかな、ということで、就職活動をしながら出したんですね。だから完全に記念応募です。そのときに書いたのが『クオリア』という小説で、共感覚を持ち音楽から色を感じる絵描きの少年と、色覚異常を持つ音楽家の少女の人間ドラマです。大学時代の集大成ですね。13万字くらい書きました。

――応募したのは、やっぱり電撃大賞?

村谷:いえ、そのときは「すばる文学賞」です。当時は小川洋子さんの大ファンで、すごく影響を受けていて。あとは夏目漱石とか、太宰治とか、いわゆる文豪と呼ばれるような人たちの作品をたくさん読んでいました。

ライトノベルは読んでなかったわけじゃなかったんですけど、大人になっていくうちにライトノベルというジャンルから離れてしまった読者なんです。文章がきれいじゃない、という偏見があって……。ライトノベルという畑にいなかったから、電撃に出すという発想もありませんでした。メディアワークス文庫賞ができてすぐくらいのころでしたから、当時のライトノベルの様子は、今とは全然違いましたし。

――大学最後に公募に応募して、その後は就職したわけですよね。

村谷:就職が決まったとき、これでもう一文字も書かなくていいな、と思ったんです。本当は筆を折るつもりでした。私の人生、小説を書くのはここまでだろう。やめられるんならそれでいい。こんな呪いみたいなもの、ないならないほうがいい。いつ誰が言っていたのか忘れたけど、「社会人になってバンドを続けるより、やめられるんならやめたほうが幸せだ」という言葉が頭にあったのを覚えています。

だから就職して、ようやくあんなわけのわからないものから開放されるぞ、私は社会人になるんだ、と思っていたんです。

それが2011年の3月。ちょうどそのとき、地震が起きました。

ーー後編はこちらから。

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