渡りえぬ大河の話・後編

 どれだけの人の流れを見送ってきたのか、私は憶えていない。ただ私は存在しない人間のように存在し、この桟橋から向こう岸へと旅立つ船を見送ってきた。この船は、大きいものから小さいものまであったが、不思議と、乗り切れないほど窮屈になるということも、また逆に閑散とするということもなかった。桟橋に来る船の大きさをどこで判断しているのかはわからないが、どことなく、待つ人の数に見合った大きさの船が来たものである。客足がまばらな時には小さい船が、たくさんの乗客がひしめき合う時には大きな船が。どの船も、乗客が乗り込むとすぐに岸を発ち、ライラック色の薄靄の中に消えていった。そしてまた、乗客を乗せるためにこの桟橋に戻ってくる。戻ってくる船からこの桟橋に降り立つ客は、今まで見たことがなかった。
 彼らはいったいどのような人たちで、なぜ船に乗ってこの大河を渡るのかということも、また、このライラック色のカーテンの向こうが何を意味しているのかも、感覚として理解していた。だからこそ、私はこの場所に存在しないように存在し、この世界と干渉するということがほとんどないのだろう。彼らは私を避けているのではなく、彼らの感覚では、桟橋の幅は、私のいる幅がマジックミラーで仕切られているかのように、私が窮屈に感じない分だけ狭く見えているのかもしれない。おそらく、私の姿は見えていないのだろう。彼らにとって私は見えない存在だからこそ、ぶつかることもなく、言葉を交わすこともないのだ。私たちの世界で、彼らが見えないのと同じように。
 もしかしたら、この河の向こうに何があるの、という子供じみた問いかけは、世界の根幹に対する問いかけなのかもしれぬと、大河の雄大な流れと、決して向こう岸を見せないライラック色の薄靄を見ながら私は考えていた。対岸が彼岸であるのなら、そしてここが彼岸と此岸の境目であるとするのなら。この雄大な流れはどこから来てどこへ向かうのか。また、成仏するということが彼岸へ渡るということなら、彼岸と此岸を往来する船のクルーは、いったいなぜ彼岸に渡ることができないのだろう。そういえば以前、アイルランド民話では妖精は、地獄に行くほど悪いことをしたわけでもないが、天国に行くほどいいことをしたわけでもない人がなるものだと聞いたことがある。もしかしたらこのクルーたちは、船から降りることを許されない存在として、地獄でも天国でもない、この大河の上を往来しているのかもしれない。
 本当に時々ではあるが、船が出発する際に、船の乗客と目が合うことがあった。目があった人の中には、私が手を伸ばすと、手を伸ばしてくる人もいたし、私に何か言葉を伝えようとしている人もいた。ただ、その言葉は聞き取れなかったし、お互いに伸ばす手も、指先が触れることはなかったが。
 なぜ、かかわりあうことがないはずの私たちが、一瞬の、唯一の交流を持つことがあるのか。もしかしたらそれは、前世…直近だけではなく何世代も前かもしれないが…でかかわりのあった人なのかもしれないし、たまたまその瞬間に私と波長が合っただけなのかもしれない。どのような人が一瞬の交流を持つのか私にはわからないが、きっと何かの縁でつながっていることは間違いないだろう。彼らとの交流があった時、私の胸には優しい温かさが残っていたが、それは彼らが、此岸にいた証として、私に何かを託したように思えてならない。たとえ次の瞬間に顔を忘れていたとしても、その温もりだけは消えることはなかった。
 さようなら、いつかどこかで。と、私は、波長が合った彼に、そして去り行く船に声をかける。私の中に温もりが残ったのと同じように、彼の中にも温もりが残ったに違いないだろう。そう思うと、去り行く船を見送るだけではなく、愛する誰かを見送る瞬間のようにも感じた。
 おそらく、私と彼は、過去世、もしくは未来世のどこかの時点において深いかかわりを持ったか、もしくは持つことになるのかもしれない。彼は、過去の記憶も、未来の記憶も持ち合わせているのだろうか。いや、記憶を持ち合わせているのではなく、桟橋に来る際に、地上の時間というものを手放して、永遠という形而上的な時の流れの一部分になっているのかもしれない。
 私たちはおそらく、彼岸の世界において永遠という円環の一部だったのではないか。また、うつり行くように見えるものは、その永遠の一部分を切り取ったものなのだろう。此岸に生まれてゆく際に、永遠の円環から切り離され、時計の時間の中に生きるようになり、また、この桟橋に戻る際に、時計の時間を離れて永遠の円環に回帰していくのかもしれない。この桟橋に死者として戻る際、永遠の記憶の中に生きることになるのだろう。だからこそ、過去世で縁があった人のことも、未来世で出会うことになる人のこともきっと、この人だ、と思えるのかもしれない。時計の時間の中に生きる私には、彼がいつどこで出会う人なのかということはわからないが。
 瞬間の交流が消えた後は、水面はまた雄大な流れに戻っていた。何事もなかったように、ではなく、この河にとってそれは、何事もなかったのだ。彼が行ってしまった切なさが私の心に残ったが、この切なさは、決して触れられぬものへの隔たりに感じる切なさ、もしくは永遠の円環という大いなるものへの畏怖にも似た憧憬であって、私の掌にあるものが指の間から零れ落ちるような喪失感ではない。私の作家としての原風景がこの桟橋に漂う切なさと永遠の円環である以上、「リトル・ギディング」で永遠の円環を詠ったエリオットになりこそすれ、時計の時間の喪失感を詠うマクニースにはなりえなかった。
 目が覚めると、私は、彼岸と此岸の境目から、再び自分の部屋に戻っていた。iPhoneを確認すると、恋人からのメッセージが入っていた。数分前のようで、なるほど、私は此岸の声に導かれてこちらに帰ってきたのかと思えた。どのように帰ってきたのかは、全く覚えていない。もしかしたら、恋人からのLINEが呼び声となり、桟橋を抜けて来たのだろう。私自身の姿も、誰かには桟橋から引き返す人に見えたことだろうか。誰かと言葉を交わしたかもしれないし、何も言葉を交わしていないかもしれない。
 私の姿はおそらく、今まで桟橋から引き返していった幾多の人たちと同じように、思い出したように引き返し、どこともわからない方向に走っていったように見えただろう。私にとってその方向は、恋人の声が導く方向なのかもしれない。そしてお互いに、姿が見えなくなると同時に、顔を忘れている。それでいい、それが彼岸と此岸を隔てるルールなのだから。
 何度も行っているにもかかわらず、私は、桟橋への行き方も、桟橋からの帰り方も知らなかった。知らなくてもいいから知らないことなのだろうし、もしくは、知ってはならないことなのかもしれない。本当の道は、永遠の円環に回帰するときの楽しみにとっておくことにしよう。おやすみ、と返信した後、今度は確かに此岸の眠りにつくのだった。

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戻りえぬ空の話。

ちょっとしたお話の詰め合わせを。
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