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「完全なるオリジナリティ」は存在するのか?

昔、バンドを一緒にやっていたメンバーと飲みながら「完全なるオリジナリティは世の中に存在するのか?」という話で夜中まで討論になったことがあった。
その時、僕以外の2人は「存在しない」というスタンスで、僕が唱えたのは「人は唯一無二なんだから、誰かから影響を受けたとしても『自分』というフィルターを通している以上、結果的にそれは唯一無二のオリジナルである」という説だった。

まぁ双方どちらにせよ同じことを言ってるのだ。要は人に影響を受けない創作物など存在しないと。

最近、「誰々のあの曲は何某のパクリだ!」と指摘して悦に入ってる人をSNSで散見するが、自分などはもう作り手信仰がいきすぎて、「なるほど、この人はそういうジャンルからも影響も受けるのか。それをこんな風に消化してアレンジするのはすごいな。」としか思わない。だって同じものから影響受けたとしても、別の人は絶対にその曲作れないわけでしょ。

Nirvanaのカート・コバーンは名曲の『Smells Like Teen Spirit』を作った時、「Pixiesをパクったのさ」と言い放った。だがもし、もしもカートが人の影響や類似を気にするような小さな人間で、あの名曲が世に放たれていなかったとしたら残念すぎるし、本当に世の中に生み出してくれてありがとうございますとしか言いようがない。

ついでなのでPixiesでいえば、Nirvanaの他にも彼らを信奉するバンドは数多に存在する。
有名どころで言えばRadioheadや日本のNumber Girl、銀杏BOYZだって聴く人が聴けば分かりやすくPixiesの影響があるが、どこを切り取るかはそれぞれ違っていて、「あぁーそうきたか!」と探すのも面白い。NirvanaやRadioheadは彼らのラウド・クァイエット・ラウドのスタイルをそのまま継承しているし、Number Girlはその「空気感」を巧みに拾って、日本人らしい解釈によって新鮮な青臭さに昇華している。銀杏BOYZに至っては曲のアウトロにそのままサンプリングして登場させたりしている。
このように、同じものに影響を受けてもアウトプットは千差万別なのだ。寧ろ、使い方によって新たな表情がオリジナル側にも生まれていると言っていい。

つまり、大事なのは「自分」というフィルターを一度通してるかどうかだ。
通しているのであれば、影響を受けた部分が9割でも構わない。
ただ、贋作や模写などは「自分を消そうとする」行為だからこれはよろしくない。自分を消すことでプラスになるのは、守破離でいう「守」の部分、師の教えを遵守して我を滅するフェーズだけだ。もちろんそれも承知の上で習作としてやってみるのであれば丸パクリでも全然OKだし、その行為はつまり対象の意志のトレースだから、余分な作業がなくて飲み込みも早い(但し、ちゃんと考えながらできればの話)。修行としては寧ろ推奨する。

クリエイターは影響を受けるもの。多かれ少なかれ他の誰かからインスパイアされるもの。「絶対に誰にも影響を受けない..!」と思ってる人は多分2流だから良いものをもっと見た方がいい。「見たことない素晴らしいもの」は、見たことあるものからしか生まれない。見たことあるものに正しく「自分」というイレギュラーな要素を掛け算するのだ。これは言うほど容易い行為ではない。

創作物というのは自分の解釈を含むという意味においては押し並べてオリジナルであるし、誰かの影響を受けている点で、レプリカでもある。それが同時に観測できるとすれば、その議論すら最早ナンセンスだといえるかもしれない。

では結局なにが言いたいかと言うと、作ってる人はみんなエラい。批評や粗探しばかりで一歩踏み出さない人のがよっぽどダサい。ということ。
批判一辺倒の人を見るにつけ、小林よしのりさんの漫画『ゴーマニズム宣言』であった「ワシはミスをする天才じゃい。お前らはミスが怖くて格好良く立ち尽くす単なるバカじゃい」っていう台詞が脳裏に浮かぶ。
転んだ人を笑ってはいけない、彼は歩こうとしたのだそう。そして、それが創るということだ。

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