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グラフィックデザイナーが個展をする意味をずっと考えていた

昨年の3月に中目黒のGALLERY 7°Cで。今年の1月にヒカリエで。2度に渡って個展を開催した。
しかし、僕はアーティストでもイラストレーターでもない。グラフィックデザイナーだ。「グラフィックデザイナー」がわざわざ個展をするということの意味とは、一体なんであるべきか。そのコンセプトメイキングに、随分と苦心していた。

「グラフィックデザイン」への恩返し

それまでもずっと個展はやりたかったものの、ずっとモヤモヤと「ああでもない、こうでもない」と内容とテーマを考えるだけで遅々として進まず、ついぞ形にはできていなかった。
それを本気で考えるようになった直接のきっかけは、グラフィックデザインにおける恩師が亡くなったことだ。師は佐藤晃一先生と言って、グラフィックデザインの権化と言ってもいいスーパーデザイナーだった。
訃報に際し、グラフィックデザインの研究と発展に尽力した師の生涯を思った。そして、自分も社会に出た時に志した、師のような格好いいグラフィックデザイナーに成れているだろうか?という自問が湧いてきた。
否、まだそうではない。まだここから何かをやらねば、いつかあの世で師に再会した時に顔向けができない。そう思うと同時に、自分をここまで育ててくれた師とグラフィックデザインに感謝し、恩返しができるようなことがしたい。微力ながらも業界の発展や検証に関する何かがしたいと思った。

それにはいわゆる受注仕事とは離れた「研究」としての発表を展示するのが一番よいのでは。と考え、それが予ねてから寝かせておいた「個展をする」という気持ちに再び火をつけた。同時に、その個展のテーマは、「グラフィックの研究」にすることが、自分には一番性に合っている、と合点がいった。

さて、やりたいことはグラフィックの研究に決まったが、研究課題は何にするべきか?ここでまたそういった別の問題が発生してきたのだが、ここでデザイナーの職業病が邪魔をすることになる。それが、受注脳。

受注脳に陥りやすいというデザイナーの落とし穴

普通、デザインは受注仕事である。仕事の内容としては「課題解決」という目的が先にあるのが普通だ。そしてそれは主にクライアントという赤の他人の悩みの解決が主になる。患者なしでは医者が成り立たないように、デザイナーにとってはクライアントがいないとそもそも商売が成り立たない道理となっている。そのために多くのデザイナーは受注されてから初めて思考が展開できるという、いわゆる「受注脳」になってしまっている。

それが故にデザイナーの個展は往々として、普段の仕事のアーカイブになりがちだ。〇〇というクライアントワークで作ったビジュアルのシリーズです。とまぁ、大抵そんな感じになる。こういうテーマで作りましょう。という誰かが音頭をとるグループ展では、妙に生き生きとしだしたりはするのだが、それはいつものクライアントワークのメソッドに則って行動できるからだろう。なんてつまらないんだと常々思っていた。

しかし、自分も知らず識らずのうちに、そういった思考に陥っていたことに気づく。主体者がいないと発想の源がない。いや、主体者でなくていい、せめて何かとっかかりのあるノイズはないか。と探してしまう。ノイズとは、「条件」のことである。「条件」を提示されると、課題がなくてもデザイナーはなんとか考えのとっかかりを作ることができる。例えば、なにもない真っ白なキャンバスを渡されれば何を描くか迷うが、そこに染みが一個あるだけで、その染みを利用したあらゆる展開の方法は考えつくのである。

受動的な発想をするデザイナーは、いざ自由に展示をしろと言われた時にそのとっかかりとなる「課題」や「ノイズ」がないと動けない。しかし今回の場合、そのどちらもないのだ。一歩間違えて自発的なテーマ設定(たとえば「夢」をテーマに展示します。とか「未来」をテーマにします。とか)にすれば、その課題解決は極めて主観に拠ったマスターベーション的なものになってしまう。本来の目標である「グラフィックデザインのため」には決してならない。これはなかなか難しい問題だった。

隣の畑の「アート」を研究してみる

そこで、僕が解決の糸口として目をつけたのは、地続きだけど遠い隣国、「アート」の研究をするということだ。デザインの畑にその解決策は埋まっていそうにない。だとすればアートだ。他者と比較すれば自己の位置が分かる。それには近しい「アート」という存在がもってこいだった。

アーティストの展示にはデザインの展示にはない独特の力がある。白いキャンバスを渡されても、彼らはいとも簡単に描くだろう。そして、アーティストは課題を自分たちの力で作り出している。それができる理由はなんだろうか? 答えは簡単だった。
彼らは、「アートとはなんだろう?」という問いから発想する。そもそもアートというジャンルそれ自体がデザイン畑でいう「課題」なのだ。それは自発的な答えを出すのに、すごく都合がいいスキームだ。

それに、アーティストが展示をする意味は極めて分かりやすい。彼らは受注仕事のように、看板を出していれば売れるような商売ではない。彼らは能動的に作品を作り続けないとそもそも仕事が生まれることはない。彼らの能動性は、生きるためなのだ。そしてそのために自分のフィールドすらも疑ってかかれる。そこが、デザイナーとの根源的な違いだった。

デザイナーは「デザインそのものが何であるか」とは考えない

一方、グラフィックデザイナーは、「グラフィックデザインとはなんだろう?」と考えることはあまりない。それもそのはずだ。デザインにおいては、内外の様々なファクターを、定義づけ、秩序だてることを良しとする。
故にデザイナーは、自らの立つ土俵のルールそのものを疑うことに慣れていないのだ。ルールという前提を疑ってしまえば、そもそも自分たちの思考がその上に成り立たない。ここが弱い部分でもある。
仕組みを分からなくても使えるテレビと一緒で、デザイナーはデザインそれ自体のことはよく考えずに実用のフェーズに落とし込んでいる節がある。別にそれでもできてしまう。だから「なにもない」ところに問題提起をすることが著しく下手なのだ。

この気づきは自分にとっては発見だった。アーティストと比べることで、どうやらデザイナーが自発的思考が下手なことは分かった。それはもう諦めよう。それでは、本来の目的の「展示における課題」の自発的な見つけ方はどうするか?

森で道に迷った時は木に登ってみる

そこで、思い出したのが、森で道に迷った時は、闇雲に道を探すのでは道に迷ってしまう。その場に留まり、近くの木に登ることが、一番脱出への可能性をあげられるという話だった。一種の比喩ではあるが、何かに詰まった時は、レイヤーを一個上にあげて俯瞰で捉えるのが一番効果的ということだ。

詰まった自分は、考え方のレイヤーを上げてみた。しかもそれは、メタレイヤーにまで。具体的には、グラフィックデザインそれ自体を「クライアント」のように捉えるというメタ的発想に切り替えることにしたのである。
これは、かなりのパワープレイだ。それは、企業や個人と同じようにまったくフラットに「ジャンル」を扱い、グラフィックデザイン氏が「私の問題点を指摘し、改善策を提示してくれ」と言ってる状況を想定するということだ。

「グラフィックデザイン氏」がそう依頼してきたら自分はデザイナーとしてどう解決策を提示するだろう?そうやって思考することで自分はようやく「このポイントが、常々グラフィックデザイン氏にとっては良くないと思っていたんですよ。」という風に自分の中のデザイン的課題解決のメソッドをすっきりと動かすことができた。そしてそれは、「ジャンルの根幹から疑って考える」という隣国アートのメソッドも組み合わされた、唯一アートの抜本的思考にデザインが対抗しうる方法だったのである。

デザインの問題をデザイン的な手法で解決する

かなり強引でぶっ飛んだやり方だったにせよ、このメタ的発想により、自分が今まで悩んでいた問題は、一度に解決した。デザインの抱える不自由さの問題を、皮肉にも、極めてデザイン的な方法によって。

以上のメソッドで考えた一連のグラフィックデザインへの恩返しを「GRAPHIC IN PROGRESS」と銘打って一つのプロジェクトとして続けていくことに決めた。長いスパンでいい。これはもはやライフワークだ。
その第一回は、「DIMENSION」つまり、「次元」という最もベーシックなグラフィックデザインのファクターをテーマとして扱い、自分なりの課題への一連の答えとして展示することに決めた。
こうして個展のテーマはようやく完成した。そして開催に至る。

その時に考えた「グラフィックデザイン氏」への処方箋の内容は、本項のテーマとはズレるので、また別の機会に記す。

結果的にはデザイン思考からは抜け出せなかったとはいえ、そこから苦心して視点を変えるための手法は自分の中でかなり勉強になったので、今回のコンセプトメイキング時に使った手法を最後にまとめて記しておく。
「どういった方法をとれば新たな視点を獲得しやすいか?」という問題解決時の思考の体操として他の事にも応用できそうな気がしたので、視点の固定化による問題でお困りの際には、是非役に立てていただきたい。

問題解決メソッド(視点獲得のための意識の切り替え方)

・隣のフィールドを研究してみる=横軸の視点の変化 (自分のフィールドへの新たな視点が得られる)

・思考のレイヤーを一つ上まであげてみる=縦軸の視点の変化 (俯瞰した視点で捉え直すことができる)

追記:この展示で行った研究内容について書きました↓


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