見出し画像

「当たり前」は誰かにデザインされている

誰かがやってのけたことは簡単に見える、という話。

モノマネは最初に見つけた奴が偉い。モノマネのモノマネは誰でもできる」と、以前モノマネ芸人の誰かが言ってたけど、万事そうなんだろうと思う。

誰かが作ったフォーマットのコピーは簡単で、当たり前に見える。その当たり前である「オリジナル」のフォーマットを作った人は、実は膨大な量の情報の取捨選択を行なっている。
例えば、モノマネ芸人のホリさんが木村拓哉のモノマネで「ちょ、まてよ」と言うまでは、誰も木村さんがそんな風に言ってるとは気づきもしなかったし、そんなイメージもなかったろう。

何気ないことだと笑っているが、それをディレクションし「言われてみればそうかも!」と共有できるイメージにまで落としこむのは並大抵のことではない。ある部分をクローズアップし、他の要素を排除するという「編集」を入れてるからできることで、これこそがオリジナルが素晴らしいという由縁になる。

こういう「オリジナルがすごい理由」というのは、残念ながら多くの人は知らないでいる。フォーマットを作ることへのリスペクトがないまま、「オリジナルの方がなんかいいに違いない」という気分にだけはなっていて、単純にコピーされているものは二流、というイメージだけが先行していたりする。オマージュやサンプリングに対しても、「要はパクリでしょ?」と思考停止になっている人もしばしばだ。

この「オリジナルがなぜすごいのか?」という感覚は、デザイナーなら誰しも少しは体感的に理解している。
それを強烈に植え付けるのは、美大受験のための「デッサン」という原体験のせいでもあるだろう。デッサンを学んだ経験がある人なら誰でも分かることだが、写真や他人のデッサンの模写は簡単で、モチーフを観ながら描くいわゆる普通のデッサンは難しい。
それは「模写」という行為が、誰かが(またはカメラという機械が)編集したものをただなぞっているにすぎないからだ。莫大なる情報量は既に編集され、調理された後のもの。そのコンテクストをなぞることは造作もなく簡単だ。

デッサンとは、絵をうまく描く勉強ではなく、クリエイティブの根幹を学ぶために有効な手段なのである。絵なんてルールさえ分かってしまえば、上手くたって下手だってどっちでもいいのだ。上手い人なら上手い人なりの、下手な人ならその人なりの「視点」というものがある。

別に僕は、だからコピーはダメだ、二番煎じはダメだ。とかそんなことは言っていない。コピーやサンプリングは、古くは日本の守破離(師の教えを守る、破る、離れて自らの道を作る、という職人の成長フェーズ分け)という教えがあるように、クリエイターにとっては必要な行為だ。「文脈」を手軽に手に入れるには効率的な方法なのだから、学習には適しているし、寧ろ推奨する。
要はコピーがダメなのでなくて、「オリジナルがすごい」のである。

僕のグラフィックデザインの師匠も「親探しと親殺しが必要だ」と言っていた。そして痛快なことに、「それよりも、多くの場合、オリジナルをなぜコピーが超えられないのか?ということの方がクリエイターが考えるべき問題だ」とも言っていた。そっちのがよっぽど作る側にとっては本質的な話だ。

ここで大事なのは、出来上がり終わったことに対して、単なる批評家にならないということだと思う。「一見簡単なこと」は、価値づけ文化のなかった日本では理解されづらい。「あいつはあんな簡単なことで金をもらって」とか、「あれくらいなら俺でもできる」という気分にさせることだってある。

作った側が批判に耐えきれず、「じゃあお前がやってみろ」と言うと、批評ができなくなるのでダメだ。なんていう人もいるが、僕の意見としては、批判するだけになっている人は、一度自分でも作ってみたらいいと思う。多分できないから。
「俺でもできるわ」という考えが、如何に誰かの編集された視点に頼っていたかが分かるだろう。しかし、それは全然ネガティブなことではなくて「なぜできないのか?」と考えることこそが、その物事の「理解」に向かうための、最も簡単なポジティブ思考への転換方法となる。そしてそのままプロになるまで突き詰めれば、一番生産的な「批評」の活かし方だと思うが、そこまでやる人はあまり見たことない。
もっと居てもいいと思うんだけどな、「簡単」だと思ったのがきっかけでプロになりました。って奴。

この混沌とした情報量の日常でも、誰かが編集してくれた「当たり前」には細やかに気づいていきたいし、気づいた時には最大限の敬意を払いたいものだ、といつも考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?