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時間は作り出す話

レイモンド・カーヴァーの小説「僕が電話をかけている場所」の中で、繰り返し思い返す場面がある。ずっと頭の中でリフレインしている、ひとつの台詞。

アルコール依存で施設に入っている主人公の「僕」が、同じ境遇のJPという男と療養所のフロント・ポーチで話し込んでいる。
JPの最愛の妻は、夫とのとりかえしのつかなくなった関係を解決する方法のひとつとして、新しいボーイフレンドを見つけるというやり方をした。
家の仕事やら子供の世話をしながら、よくそんな時間があったものだよな。と、JPは言う。

「もし本当にしたいと思えば」と僕は言う。「時間くらい見つけられるものなのさ。時間は作り出すんだよ。」

これだ。ずっと頭の隅っこに住み着いていて、片時も離れずにいる言葉は。物語の帰結とは直接は関係がない台詞だが、忙しさにかまけて何かを後回しにしがちな時に、ふと眼前を横切るのだ。

人は「しない理由」を探すのがうまい。
「忙しいから」「お金がないから」「まだそんな腕前でないから」。そこに流れていくのは本当に簡単だ。水は低きに向かう。

「本当は他にしたいことはあるけれど、今はこれをしないと生きられないだろう」「そんなことは一部のツイてる奴らだけができることだ」人は言う。

本当にそうだろうか。

「時間がない」は‘本当は嘘’で、権力者でも、大富豪でも、天才でも、凡人でも、時間は平等に分け与えられている。売買もできないため、この世で一番均等に分けられているものかもしれない。

「ない」で言えば、皆、時間なんてないのだ。皆そんなことは承知の上で、生活のどこに自分の「生きる意味」を使うのかを考えて、限られた時間になんとか折り合いをつけている。
それに、僕は別に全てをやめて「したいこと」に時間を使うべきだ、などと言うつもりは毛頭ないし、その資格もない。
ただ単に「時間」はその平等性の中から、人が自ら見出し作り出すものだという純然たる事実を述べているだけに過ぎないのだ。

ひとつの物事を後回しにしてしまった時、自分はそれを「本当にしたい」と思っているだろうか?リビドーにも似た迫りくる言い訳に、騙されているふりをしているのではないだろうか?と、そんな自問が頭に浮かんでくる。

僕の頭の中ではいつも、フロント・ポーチに腰をかけたアル中の男が二人、寒空の下で話し込んでいる。

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