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「スタンバイ」の質がクリエイティブの良し悪しを決める

何度でも言うが、「物を作る」なんて字の通り“造作もない”ことだ。創作においては、作るフェーズよりも圧倒的にスタンバイの方が大事なのである。
そしてそのスタンバイの質はダイレクトにクリエイティブの質に繋がるのだが、その理由とスタンバイの質を上げる方法を書いてみた。

「顔に見える場所」を撮る写真課題の意図

多摩美の学生の頃、写真家の十文字美信先生の課題で「顔に見える場所を撮る」というものがあった。その時に仰っていたことが素晴らしくて、今でもよく覚えている。
「顔に見える場所を撮る意図は、人が『スタンバイ』の状態になる状況を作るということ。『顔を探そう』と思っていれば、壁にある3つの丸い染みでも顔として見えてくる。ただ、これは『探そう』と心のスイッチを入れておかなければ見過ごすものなのです」

はたと膝を打つ理屈だった。つまりは世界をどういった視座によって「知覚」するかが問題で、物理的に見えているかどうかは関係ないということ。そしてそれを作るのが「スタンバイ」という前提条件で、知覚しないものは「存在しない」と同義なのだということがその話には詰まっていた。

モースはただそこにあった大森貝塚を「発見」した

「知覚しない」という点では、大森貝塚発見のモースが例にあげられる。「大森貝塚発見」と言えば歴史的発見だ。それ故にモースが苦心して発掘をし、努力の末に発見したと思いがちだが、事実はそうではない。たまたま乗っていた鉄道の窓から見えたので「発見」したのである。

その貝塚が露出していた斜面の壁は、日本人は見慣れていたが、「誰もその事を知覚していなかった」のだ。
正確には見えてはいたのだろうが、「そういう壁」としか認識していなかったことは容易に予想がつく。「それは前情報がなかったから」と言う人もいるだろうが、それこそが「スタンバイ」の状態なのである。つまりは前提条件がなければ人は知覚すらも難しい。

余談だが、教育において、数学での定理は社会で使わないから要るか?ということがたまに論じられているが、僕としては知覚できる世界はなるべく広く置いてあげて欲しいと感じる。例えば因数分解ができなくても、その定義を知っていれば、「その話を因数分解すると..」というような物事の認識の仕方もできるわけだ。教育で大事なのはその間口をいかに広くしておいてあげるかだろう。

「インスタ映え」は人々に「スタンバイ」を促した画期的な発明

そういう意味では「インスタ映え」は画期的だと思う。
世間ではなんとなく軽薄なネガティブイメージをも纏わせる言葉であると思うが、考えてみて欲しい。
クリエイターでもない一般の人に、普段は興味がなくて見もしなかった壁や汚れた床なんかに「インスタ映えするかもしれない」とカメラを向けさせ、シャッターを切らせる。これはどんな偉大な写真家やクリエイターでも成し遂げられなかったことではないか。
「インスタ映えするかもしれない」という気持ちでいさせるということは、「スタンバイ」の一例であり、クリエーションの萌芽でもある。

スタンバイの質を上げるには

では、どうしたら『スタンバイ』の質をあげることができるのか?
スタンバイの質とは、要は「前提条件をどううまく作るか」ということと同義だ。その人自身がどこに着目しているのかが大事なのはもちろんだが、一般化できるメソッドとしては、「なるべく精度をあげた仮説を早い段階で頭の片隅に置いておく」ということだろう。

何か課題がある場合、得意なことはスルスルと考えられるだろうからそれはほっといても良い。だが、苦手なことは絶対に「とりあえず後回し」にしておいてはいけない。一度、早めに仮説を考えておくのである。その内容はどんなに陳腐で何番煎じなものでも良い。一度仮説を作ったものは容易に頭の中からは消えないし、それどころか、その仮説は「知覚」された自分の外の情報と化学反応を起こして、さらに良いアイディアへと変貌をとげるのだ。

ちなみに言うとその時の化学反応を起こす外部情報は、仮説から一見、遠いものであればあるほど良い。一般的には結びつけづらいもの同士がコラージュされた時、誰もが見たこともない景色が生まれてくる。

考えづらいこと、苦手意識のあることに手をつけないのは悪手だ。
自分の中でやりづらいことほど、一度徹底的に考えて、スタンバイの状態を作っておくことが大事なのである。

それさえできてしまえば、あとは手を動かすだけだ。見つけたものを丁寧に掘り起こして、形にしてあげればいい。

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