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「感覚」とは100万回繰り返したロジックである

「なんか良い」「なんか悪い」という感覚がある。
そんなことをミーティングの場で言ってしまえば、「ハッキリした理由を言えよ」と槍玉にあげられ、誰かの論理立った主張の元に淘汰されることもしばしばだ。
だが、本当にそれでいいのだろうか?論理によって感覚を安易に押し除ける前に、ふと疑問を持って欲しいと僕は思うのだ。

小学生の時の学級会で、こんなことがあった。レクリエーションに関して討論する場面。「ドッヂボールがいいと思います」「紙ヒコーキ大会がいいと思います」とか、遊戯の詳細は忘れたが、まぁそんな感じのやつだ。

小学生ながらに僕が感じたのは、「みんな明らかに『したいこと』が先にあり、その正当化のために理屈をつけているのだなぁ」ということ。
「なんだ、ロジックというのは、自分のやりたいドッヂボールや某かを勝ち取るための、相手を打ち負かすための手段にすぎないじゃん」と。

大人になった現在でも、実はその時抱いた懐疑的な心持ちはあまり変わっていない。
『論理的思考』が幅を利かせているのは、それが人に伝える上での一番効率の良い「手段」であるからだ。論理立てるために事象を歪める人も散見するが、それは手段と目的を見誤っている。
そして論理という手段は、目的に向かって盲目的になるが故に、大義名分をまとうこともままあるのだが、それは、往々として嘘くさい。(そんな空気はすでに世の中にも生まれていると思う。まぁだからこそ『デザイン思考』というふわっとした言葉が流行ったりするのだろうけど。)

本当は、前述の学級会で言えば、「理屈」の裏に見え隠れする「したいこと」を探り出して実行することこそが、生きる上で大事な部分だったのではないか?
そうなると、「したいこと」とはそもそもなんだろう?と、その本質が気になってくる。
したいことの尻尾を掴んで、大本まで辿っていけば、「これをしている自分がなんか気持ちいいから」という「感覚」にブチ当たる。
そう、前段でMr.ロジックによって跳ね除けられた「感覚」だ。

思えば「感覚」というのは面白い。
生まれてすぐは知らないが、物心がついた時には確実に、「これは気持ち良い/悪い」の分別を既に獲得している。それは生存本能だと言われればそうなのだが、例えば、赤信号なのに道路を渡る時、人はみな(多分)ちょっと気分が悪い。
生存本能に「赤信号は危険」という情報はないはずだから、これは人が社会の中で後天的に獲得した感覚であるといえる。
だが、その始まりは、両親の言う「赤信号は危ないから渡ってはいけませんよ」という言葉だったはずだ。「危ないから→渡らない方がいい」という極めて「論理的」なアドバイスである。

それを10回、100回、1000回..と繰り返すうち、論理は昇華され、「赤信号の時は渡らない」という「型」のみが残る。これが「感覚」の正体で、つまり「感覚」とは、「論理的な行動を100万回繰り返した後の型」なのではないか。そして、それはいまだ「感覚」に成りきれぬ論理の「上位互換」の可能性が高いのではないかと僕は思っている。

だからこそ「なんか嫌だな」「なんか良いな」と思った時に、「何故自分はそう思うのだろう?」と掘り返してみることが大事だ。おそらくそこには「感覚」になるまで飽きるほど繰り返された、自分の本当に大切にしていた真理が埋まっているだろう。

「なんか良い/悪い」の「感覚」は正しい。そこを疑うことは得策ではない。何しろ、自分がずっと晒されてきた経験によって判別された真理なのだから。重要なのは、それを信じて、キチンと洗い直して人に伝わるように提示すること。
それこそが、大義名分をまとってはいるが、その実瘦せこけてポッと出の「Mr.ロジック」を打ち倒す唯一の方法なのではないかと、僕は思うのだ。

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