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クリエイターの真の使い道

また芸人さんの例えになって申し訳ないが、以前。
古いテレビ番組の『松紳』を作業中に流してたら、松本人志さんが、「相方の休む日に番組を一人でやってくれないか?」とスタッフに問われたことに対して、「できるか!」とキレたという話をしていた。
その説明として、「僕の仕事は作られたものを壊す仕事なんですよ。作られてもいないものを壊せと言われてもね」とさらっと言ったが、それはクリエイターとしては、すこぶる腑に落ちる話だった。

というのも、ものづくりに携わる人間としては、そもそもの「常識」は作っておいて欲しいのだ。そうでない場合は「破壊」以前の「構築」という前提から受け手に用意してあげないといけなくなる。

大抵のデザインの仕事はこの構築フェーズで終わってしまう。「そもそも見る側はこれを知らないかもしれない、あれを知らないかもしれない。」と余計に気を遣い、そのことを説明しているだけでデザインできる紙面が埋まってしまうということは、会社員時代によく経験した。

余談だが、そんな時期に見た携帯会社のCMで、登場人物がテレポーテーションする場面の隅に「CM演出上の表現です」とかちっちゃく注釈が入ってたりして、「そこまで分からないやつは、もう置いてけよ!」と思ったこともよく覚えている。

おんぶにだっこで観る側のリテラシーのボトムに合わせていたら、底の底まで表現の質が落ちていく。それがひいては文化の後退も招く。
なので表現に携わる人は、いつも毅然と「ここまでは来てもらわないと困る」とドンと構えていて欲しいというのが僕の理想だ。

そもそも「壊す」とはどういうことか。これはつまり「共通概念に対する裏切り」のことで、本当に文化が洗練されないとできない。

りんごの絵を見せて「りんご」と他者に伝えるのは簡単で、これは幼稚園児でも理解できる。だが、「りんごの絵を見たらバナナと思え」というのは両者の背景に共通のリテラシーが必要で、それを作るのが実は文化だったりする。

京都でぶぶ漬けを出されたら「もうお帰りください」という意味だというのは、よくいう京都人に裏表があるのでもなんでもなくて、ただ単に東京に遷都が起こるまで都だったという高次元の文化の蓄積の証だということだ。
知識のない人だったら単に「ぶぶ漬けを振舞われた」と喜び、逆に長居してしまうかもしれない。リテラシーとはそういうものだ。

文化というものは、ハイコンテクストでも許容できる「受け手のリテラシー」と、それを前提と知った上で「ルールを破る作り手」という両者の軸のせめぎ合いで進んでいくものだと僕は信じている。

「破壊」のフェーズに達しているということは常識の「構築」を済ませているということなので、それだけでもレベルの高いものづくりをしているという証明だ。だから「破壊」を知っている人の作るものは、漫才でも、本でも、デザインでも、本当に面白い。そしてそれ自体が、おおげさでなく人間の文化を引っ張っていく力の源になるのである。

常識を提示してあげる。まぁそれだけでもものづくりとしては成立するのだが、クリエイターの本分は「みんなが分かる」ことを語る常識のコンシェルジュではない。
クリエイターの真の使い道は、文字通りの「クリエイト=作る」ではなく、「壊す」ことにあるのである。

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