見出し画像

【育児エッセイ】大丈夫、じきに慣れるよ

昨日もあやうく外に出ずにぬくぬくと過ごしそうになったけど、母がちょうど近くに来てるとのことだったので勢いよく出かけた。

息子は私の母のことが大好きで、見つけた瞬間からベビーカーを出て抱っこをせがんでいた。
母も嬉しそうにすぐ抱っこしてくれて、相思相愛を横目に私は空のベビーカーを押す。
親以外に大好きな大人がいるってことはいいことだ。

私はなるべく親の特権みたいなものを感じさせずに育てたいと思っている。
親も一人間であり、いいところも悪いところもあって、失敗したり成功したり、ダラダラしたりテキパキしたりして暮らしているところを見てほしい。

その中で気が合うなと思ったら仲良くしてほしいし、気が合わないなと思ったら他の気が合う人を見つけてほしい。
もちろん私は息子と仲良くしたいので、仲良くなりたいと思われる人間になろうと努力するつもりだが、息子を私の仲良くしたい人間に仕立て上げるつもりはない。

さくらももこが妊娠・出産について書いたエッセイ『そういうふうにできている』の中で下記のような箇所がある。

彼はまだ小さいという理由で今は生きる術を知らない。だから私達は世話をしてやる。"家族"という教室に"お腹"という通学路を通って転入生が来たようなものだ。遠い町から転入してきた彼を、クラスメイトの夫と私は歓迎し、今後仲良くしていこうと思う。

『そういうふうにできている』さくらももこ/著


初めてこの本を読んだのは確か小学校高学年か中学生の頃で、当然妊娠や出産などは自分事ではなく、子供としての視点で読んだ。
その時は、自分の子供なのに"転入生"なんてまるで他人じゃないか、なんだか冷たいなぁと思った覚えがある。

でも一昨年の妊娠中に読んだ時、この文は心地よいあたたかみがあるものへ変わって感じられた。

自分の身体の内部で芽吹いたいのちを十月十日、内臓の形を変えてまで育み、痛み出血を伴ってこの世に送り出す。
世に出たところで何もできず泣いてうごめく生命に、血液をミルクにかえて与え、睡眠時間を削り、こちらも命がけで生かす。
そんな存在に執着が湧くのは簡単だ。

この執着は愛情とは違う。
どちらかというと自己愛だ。
大変な思いをしたから愛されたい、自分の思い通りにしたい。
その執着をむき出しにして子を司ることは、単なる自己愛の投影に過ぎない。

さくらももこの、絶対にそれぞれの個体を同一視しない距離感というのは、どんなに小さくても相手を1人の人間として尊重するあたたかさがあった。


出産し、息子と物理的に別々の個体になれた時の解放感と安心を忘れられない。
こうあるべきだと強く感じた。
私は私で息子は息子。
それぞれがそれぞれの命を生きていく。


私は息子より長くこの世界を生きている人間として、ここに来てくれたことを歓迎し、有益な情報や環境を与え、彼がスムーズにこの世界になじめるようにしてあげたい。
なじんだあとは彼が自力で楽しんでくれるはずだ。
もちろん何か困ったことがあればいつでも力になるし、面白いことがあれば共有したい。


息子にとって「なんだか楽しげに生きていて、でもいつでも自分と真剣に向き合ってくれる最寄りの大人」という存在になれたらいいなと思っている。
今はまだこの世のチュートリアル中なので、食べ物を与えたり、眠りに誘導したりと忙しいがやがてこんな日々も終わるだろう。

その日々を、おせっかいなクラスメイトとしての視点で楽しみながら書き残したくて、このエッセイをはじめる。

この記事が参加している募集

育児日記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?