純文学とはなにか

 先日、友人と「純文学とは何か」ということについて話をした。彼女は、「純文学とは、終わりの読めない話のことだ」と教えてくれた。それは、彼女が直前に受けていた文学理論の講義で聞いたことだと言う。もしかしたら、正しくはちょっと違う言い回しだったかもしれない。しかし、だいたい、そんなようなことを言っていた。
 終わりが読めない、先が見えない、そんな小説は純文学と呼べる。しかし、犯人の分からないミステリーや、どんでん返しがある話は純文学ではないと言う。それらは、「事件が解決されるだろう」「最後に予想外のことが起こるだろう」と、読者に先を予測されている。だから純文学ではない。
 そういった話を聞いて、私は、自分が今まで読んだ太宰や芥川の作品を思い浮かべた。もっと身近な例としては、阿藤洛太の『静かな軋み』を思い浮かべた。(彼のこの作品はそのうちTwitterに上がるかもしれない。早稲田祭で無料配布される「愁文記」にも掲載されている。)
 なるほど、たしかに、どれも結末が予測できない、と言うか、結末を予想する気にならない、と感じる。「今」読んでいる文章を、連続的なストーリーのうちの一コマとして捉えるのではなく、ただその「今」を独立した唯一の「今」として捉え、感触をしっかり味わいきる。読者に「先が気になる」と思わせるのではなく、まさに今目にしている一文を以て世界を共有していく。それはたしかに、「純文学」と呼べるものなのだろう。
 私は、「純文学とは、終わりの読めない話のことだ」と聞いて、以上のように考えた。しかし、それに納得する一方で、谷崎について考えると、また少し違った答えが出るようにも思われた。かの有名な「小説の筋論争」を思い出したのである。やはり、文学の芸術性を簡単に片づけることは永遠にできない。
 少し話が逸れたが、「純文学とは、終わりの読めない話のことだ」と教えてくれた彼女は、こうも言った。「その作家の色がでてきてしまうと、○○(作家の名前)っぽい小説、というものができてしまって、それは読者に『こういう話だろう』と予測されてしまうことになる。」つまり、純文学を書く作家は、常に流動的で前作を越していかなければならないのである。常に進んでいかないと、一文に読者を引き付けることができない。
 そう考えると、純文学を行っていくことは、終わりのない地獄を進み続けるのに似ている、と思った。いや、この言い方はさすがに気障だが、どうにも大変な話であることには変わりないようである。

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