本が読みたい

 ボクの趣味のひとつに、読書がある。読書と言っても、恥ずかしながら最近は小説なんかはあまり読まなくて、手に取るのは専ら参考書の類ばかりである。それも、ジャンルはバラバラ、難易度も問わず、である。とにかく、片っ端からかき集めている。為になるならないはともかく、読むという行為そのものが好きである。そして何よりも、読んで棚に並べておくだけで、なんだか頭が良くなったように感じられる。非常に快感である。まぁ、現状、読まずにただ並んでいるだけというものが大半なのだが。

 本というものは素晴らしい。既に知っていた知識であっても、繰り返せば復習になるし、人によって表現方法はまばらであるから、同じ内容であったとしても、新たな発見に繋がる。どうしてこういう表現をしたのか、どうしてこういう順序なのか等、考えられることはいくらでもある。捉え方によって、いくらでも広げることが可能なのである。内容が薄い濃いについても、確かに感じることはあるが、結局、そんなものは受け手の怠慢に過ぎない。楽しめない/理解できない原因を人に擦り付けているだけだし、読み手側に、受け入れるだけのキャパシティが足りていないだけである。そのことがわかっただけでも、モウケモノではなかろうか?

 さて、今回も内容を決めていない。とっかかりなどというものは、いつも曖昧で無責任なものなのである。だがしかし、無責任ながらもそれを提示したということは、提示したという行為においては責任が生じる。それを理解していない輩が、最近非常に多いのではないかと感じることが、多々ある。

 『言わなければわからないよ』という台詞をよく耳にする。ごもっともである。そりゃそうだ。しかし、である。受け入れる側は、受け入れるために果たしてどれだけの努力をしたのか。改善点のひとつでも持ったのか? こういう輩がよく口にする台詞として、『頭の良い者は、専門用語を使わない』というものがある。ごもっともである。そりゃそうだ。では、受け入れる側は、受け入れるために果たしてどれだけの努力をしたのか。改善点のひとつでも持ったのか? これらについては、甚だ疑問である。なぜ、自分が理解できない原因を、他人に擦り付けるのか。

 結局、どれもこれも、自分の怠慢/無知を棚に上げているだけなのである。
 専門用語とは、難しい事柄を可能な限り簡潔に説明するために、頭の良い人間がわざわざ時間をかけて生み出してくれた、言わば、努力の結晶なのである。それを否定するなど、愚かである。その専門用語を知らなかった自分の責任だとはなぜ思えないのか。
 そもそも、なぜ下に合わせる必要がある? ハードルを下げることにより、取っ付きやすくなるという利点は確かにある。それにより、人口や、あわよくば、その分野を志す人間が増えてくれでもすれば、儲けたモンである。だが、ハードルを下げることによって、結果的に良くなったという事柄を、少なくともボクは知らない。むしろ、崩壊していったものばかりである。ただ下げればいいってモンじゃない。良い例である。
 知らないということは何も悪いことではない。触れたことがないのだから、当たり前である。だが、知らないという前提に対して、なぜ責任を持とうとしないのか。触れたことがないのは誰の責任か。世の中、あまりに無責任である。

 これらの考え方が理解できない/そもそも何を言っているのかがわからないというのであれば、一度、仏教の思想にでも触れてみればいいと思う。終わらなくなるので詳細は省くが、非常に多くの発見があるはずである。そこで何も得られなかった/意味がなかったというのであれば、正直、今後関わりたくない。
 何も、ハマれと言っているのではない。要は、視野を広げればいいだけの話である。我々が生まれる何年も前、科学などといったものが存在しなかった時代から、それこそ、科学の時代以降でないと到達しようのない考え方にまで至っているのである。今現在、我々が思うのは簡単かもしれないが、その理由を考えてみるといい。実体論(実在論)しか持ちようのない時代に、関係論、言わば構造主義を超越した思想など、果たしてありえるのか? ありえていたのである。これを凄いと言わずに、何を凄いと言うのか。頭の良い人間とは、恐ろしい限りである。
 繰り返すが、ハマれと言っているのではない。それが過ぎると、結局はカルトのソレになってしまう。人類皆尊師である。さすがにそれはやめたほうがいい。それなりに消化し、改めて自分の考えを持てば良い。

 『優碧さまはカルト』などと言われることが多々あるが、よく言ったものである。まさしく『オカルトを振りかざす私は悪者』である。
(客観的に考えるに、どちらかといえばサイコパスのソレの方が近いのではと思うのだが、なぜかそうとは言われない。まぁ、自分で言っちゃう時点で馬鹿げた話なのだが。くぅ~w)

 本とは、先人の知識の結晶である。なにも専門書に限らない。小説だって、エッセイだって、四コマ漫画だって、みんなそうである。表現方法も十人十色、そこから得られるものは計り知れない。ただ、その十人十色の表現とは、常に基礎の元に成り立つものであるという前提を忘れてはいけない。前提条件、ルールというものが無数に存在し、その上に立つからこそ、十人十色、言い換えれば『個性』という概念が生まれるのだ。怠慢は個性でもなんでもない。ただの『馬鹿』である。

 何が言いたいのか。

 ボクの音楽を聴いて、天才になってください!!!!!

 おわり。

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