見出し画像

最高の楽器を求める調律師×モダンピアニズムの邂逅

音の実験場に置かれた「ベーゼンドルファー・インペリアル」

上野さんのベーゼンドルファーを触らせていただくのはちょうど10年ぶりだった。
当時は高校生だった。その記憶、感触はかすかに残っていたが、ほとんど薄らいでしまっていた。
ただ当時、全く楽器と仲良くできていなかった、という悔しさだけは心の奥底にあった。

それから10年、自身のピアニズム、奏法にも大きな転換があった。
「あの楽器を今触ってみたらどうなるだろう・・・?」
そんな期待を持ちながら上野さんの「音の実験場としてのホール」に向かった。

そのホールとは滋賀県守山市「スティマーザール」。

調律された空間、を意味する造語だ。

スティマーザールのホームページはこちら→http://www.stimmersaal.com/#block03

画像3

上野さんは色々なことを語ってくださった。
そこには言葉で表現しつくせない大きな宇宙が広がっていることが感じられたが、
言葉の限界も同時に垣間見えた。

しかし、いくつかの手掛かりとなる重要なキーワードが提示された。
楽器が床と接触すること自体、響きを止めてしまう。楽器の構造がはらんだ矛盾。
床の共鳴と含めて調律してしまうと、楽器そのものの響きの調律ではなくなる。
ピアノを宙に浮かせるという発想の転換。
ピアニッシモが美しく響くためのアイデア注入・・・。
どれも断片的なキーワードだ。これらを体系的に結び付けるには、どうすれば・・・。

これをうまく言葉にすることができたら、
もっと上野さんの思想、「120%の最高のピアノを実現する」という考え方が
世の中に伝わっていくのに・・・。
その一助になればと思ってこの文章を書いている。

ベーゼンドルファー

引き算すると音が伸びる不思議

そして、実際に上野さんのベーゼンドルファーで演奏をさせていただいた。
ファーストインプレッションとしては、
「あれ、意外と音が伸びない。アンティークのピアノを弾いているような気分。」
上野さんの調律は音が伸びることが特色であり、それが感じられなかったことに一抹の不安を抱いた。
自分の弾き方が悪かったのかも。

20~30分何度か試してみて、
ようやく「これかも?」というタッチに行きついた。
上野さんも「音がだんだん変わってきている」というコメントをくださった。

この状態で試し録音したものがこちらの録音である。
あくまでも「共同研究・実験」の一環として、上野さんのご厚意で録音をさせていただけた。

テンポが不安定だったり装飾の入れ方が統一されてなかったりと演奏の内容はさておき・・・3回のテイクの中でピアノの呼応がよかったものを選んだ。

そのタッチというのは極限まで浅いところを狙っているが、腕の重みはもたれている状態。
とにかく普通のピアノに比べて浅いところにスポットが来ている。

そして、驚くべきことに、鍵盤にかける力を引き算していけばいくほど、
音がのびやかに歌いだすのだ。
そして音の伸びが極限に達すると、一切のペダリングが不要になる感覚も得た。
これは普通のピアノでは絶対にありえないこと。

力を「抜く」のではなく「あずける力を減らしていく」感覚。

そぎ落とせばそぎ落とすほど、音が意思を持ち始めるという現象は初めて体験したため、
かなりの衝撃があった。
そして、自分のタッチにはまだまだ、無駄があるんだ・・・と。

ピアニズムの「そぎ落とし」を求める楽器

モダンピアニズムで学んでいたのは、
一般的な調律をされた楽器でも大ホールで響く豊かな響きを出すための身体を連動させるテクニック。
多少の雑味や無駄があったとしても、響きの妙味の最大化を目指したポジティブなテクニックである。

しかし上野さんの楽器では、楽器そのものがセンシティブな状態で奏者を待ち構えているため
奏者にはそぎ落としの徹底が試される。

現在はこういった楽器にはほとんど出会うことがないが、これがスタンダードになった世界ではまた、理想となるピアニズムも変化していくだろう。

モダンピアニズムは楽器の不完全さ、限界を知ったうえでそれをなるたけ超克しようとするピアニズムである。例えば音を減衰するものとして現実的にとらえる、などのことだ。

しかし、上野さんの楽器では、うまく当てると減衰がゼロになるような感覚に至る。
このように、すでに不完全さがある程度乗り越えられてしまった楽器を相手にすることが当たり前になれば、もっともっとピアニズムはシンプルになっていくと思う。

画像4

調律師はピアニズムの発展的拡張に不可欠

「引き算の発想」「安定ではなく不安定」これは上野さんの口からも発された言葉であるが、モダンピアニズムと共通する思想である。

ただ、相手にする対象が違う。
調律師の場合は楽器にそのアイデアを注入し、奏者の場合は身体操作技法にそのアイデアが試される。

残念ながら多くの場合、調律師と奏者の対話はなされない。
それはたいてい、相手にする対象が違うので、ある意味で互いを関係のないものとしてみており、すれ違いになってしまう。
対話があったとしても、奏者から調律師への一方的な「注文」がなされるだけだ。
しかし、調律師も音楽づくりの一味として加わり、また奏者ともその根本思想から共有を深めていった場合には、ピアニズムが何倍もの威力をもって恐るべき響きを作り出すに違いない、という確信を得た。

本来調律師と奏者は、大きな意味でパートナーであるべきなのだ。

時には調律師が奏者に注文を付けることだってあっていい。
調律師は奏者を満足させるための奉仕者では決してない。

楽器の音を媒介として、もっともっと意見を交換していくことで、共同制作物としての音色がうまれるのだろうが、そのためには奏者自身が確固たるピアニズムを持ち、それを音と言葉にできる人間でなければ、その試みは徒労に終わってしまう。

私のこの訪問の短い時間では、上野さんの思想の大海に放り出され、すべて点と点をつなげることはできなかった。
しかし、ピアニズムの革新をさらに推し進めようとするとき、ピアニストだけでは限界があり、楽器と調律師を大いに巻き込むことが必要とも確信した。

次は、ぜひ師匠を連れてこのホールにやってきたいと思った。


画像2


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?