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縄と棒

デスストランディングをやらずウォッチドッグスをやっています。
現代の棒とか縄とかはとてもとても解りにくいものです。だいたい人は自分のことは見事に棚に上げて啓発の言葉を並べる。誰かにとってあまりにそれは滑稽で見苦しいものであっても誰かにとっては生きて逝くのに欠かせない酸素の様なものだったりする。
それは上げればキリがなくって私の様な人間にとって例えば百人いて99人が『そうだ』と言っても自身の中にある揺るがないモノがあれば『違う』と言ってひとりでいることを好みます。少し前までは、小さな頃から諦めないで探していた解る人を発見する旅をしていました。余りに周りに理解されない体質を備えてしまったものであまりの当たり前の異なりに思考回路の異なりに面白いと認識して生きて来ました、しかし、最近ではめっぽうこの事に、哀しみが、痛みが伴い、多くの時間が支配していても、悲しみをきちんと表せなくなると言う事は自分の中の平均値が哀しみを感じた時のストレス濃度が通常に常に設定された値になっているということである。以前ならNeuroseにでもなっていた事も、Neuroseになると言うことは止めるという行為でもあるので人より多くを感じやすい私にとって解りにくい余りにも酷い時間の中に居ます。
強度のストレスにより前は10円ハゲが出来ました。
今は左耳が聞きづらい程度です。もう少し前なら家にただ居る、そんな簡単過ぎる事ですら嘔吐し生きた心地が全くしない程の時もありましたが今では無くならないこの空間で悲しみが当たり前になっています。
人間というものは、とても、人のことをとやかく言う前に気づく事も重要であると改めて感じています。
肥えた腹を人に笑われる事も小さなバカらしい事に必死になる事も私の様な人間からすれば何より建設的に生きる為の方法だったりしますが、大半の人間には全く通じません。まるで全く知らない外国語の方がずっとシンプルで偏見も無く真っさらに聴けて喋れるのではないかなんていう錯覚にでも取り憑かれてしまいそうです。今日も変わらずいつも通りでいれました。
いつも通りすら私にはシガラミの様に見えて来ます。
いつも隣にいる死と唄と血と犬と。
星は月は見えない夜にも花は眠り木々は揺らめき逆さに映るこの世界には未練がないと決めるのはきっと何にも洗脳されていない自分本来の部分なのだと思います。

貴方のどこの誰かは知らない、けれども、どこかにきちんと存在している貴方へ。
貴方の目に映る世界はどの感情ですか?
私は途方もなく哀しいです。何故なら哀しいからです。