見出し画像

ひとりでふたりで三人と。

私は酷く幼い頃から汚れている。
顔を覆う皮膚も一度剥がされた爪の成長も早くなり唇は厚く目は三日月の様に細い。歯茎は大きく歯は小さいし今ではすっかり豚の様な姿である。
幼い頃に見た景色というのは私にとっては幼少の時代であると同時に現在でもあり、人間がいくら時間を費やし進化を遂げたとしてもきっとそれ等は進化ではなく進化に見える時代であると夢のない様な事実を歴史の年表を見れば思ってしまうし、語学も後に翻訳機が一般にも普及するのだから自分の分身にするのは無理な体質に合わないやり方ではキリが無く、無意味だとも思ってしまう。
でも、私は、私の、私だけと自分(ひとり)よがりを行うのであれば『サンタクロースを殺さない』と言い放ち、大人であるとする。『サンタクロース』が映画『ゼイリブ』の様なメッセージを備える商業的思想に基いたコカコーラの様なものであったとした場合にも。それは適応される。
私は『サンタクロースを殺さない』で大人でいると約束をしている。それは現実味のない無自覚の領域でもあり私にとっては必要不可欠な答えなのだ。
それと同時に、商業的な物には幻の夢物語だけでは、ならないのである。幻想という物にはしばしば現実を述べる必要があるからだ。現実をしっかりと目の玉を見開き眺め泣き崩れても尚自身の中には揺るぐことのない夢や希望や愛や恋や音楽や映画を。
何よりも現実の世界に無くてはならない思考回路である。魔術の様な、曖昧で、滑稽な程の願いすら祈れない事、それが何よりの悲劇であり、ひと夏の忘れられない恋などでは無く、常に、側にそれらをそっと寄り添わせ、寄り添い、目の前に広がる確かな何も無い現実の中にまるで永遠の様な営みを見出す強さをたったひとりであっても、たったひとりの場所だからこそ、多くに対し思える優しさを。少ないには、いつもレッテルを貼られがちである。特に人間の世界はそれが弱肉強食の野生の生き物ではない為に解りずらく存在する。大勢の群れは時折、見るからに明らかな残酷さえ正当に見えてしまうものである。
だからこそ、少ない場所には、多くの夢を現実にも愛を持って向き合うことが必要なのである。そして個人であっても大勢の一員である証拠であり安心を孤独の中に見つめる術を持つ答えである。
愛や夢や希望や願いの文章までも、馬鹿にされまいとフォントや立派な専門用語やそれとなく読者であると言っていたいだけの読書が多く、さらに数を成す群の中では更におのれの洗脳を解くための洗脳に盲目となりそれらを無駄な時間と認識しやすい中で、我々は、常に何者にでもなれる程の意識の解放とそれに比例して年を重ねて行くべきだと言うことを強く考えながら就寝。