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AIイラストを「使えなかった」2つの理由

こんにちは。つかはらゆきです。
久しぶりに「イラスト・漫画」を描いている人らしいnoteを書いてみようかと思います。

基本的なAIイラストに対する姿勢

学習元に使われて著作権うんぬんとかはあるのですが、大枠として特にAIイラストに対してネガティブなイメージは持っていません。
デジタル作画が始まった頃(というか今でもテレビ番組に出ている著名作家でもいますが)アナログ手書きの作画が優れていて、デジタルはダメだという「アレルギー」が強くありました。
それと同じようなことがAIでも起きているだけだと思うんですね。

デジタル作画を完全否定された頃のイラスト

もちろんAIだけで自走してイラストが生成される可能性というのはあります。
今年の1月まで開催されていた「ICC アニュアル」で拝見した「慶應義塾大学 徳井直生研究室」の展示でAIのみで永遠に絵画が生成されるものがありました。
(展示ではイラストというよりは絵画という趣の生成内容と記憶しています)
2台の展示画面があり、片方の画面でAI生成された絵からキーワードをAIで生成、それをAIで読み上げもう片方が聞き取りし、絵をAIで生成する。生成された絵からキーワードをAIで生成し…
といったように、2台で出入力を繰り返しながらそれぞれ絵画とキーワードをAIで生成し続けるものでした。

AIのみで生成したものが優れた作品にどんどん近づいていくこと、人智を超えた芸術が完成すること。そういう可能性があるかもしれないですよね。
確かにそうしたら人間の芸術よりもAI芸術の方が「人気が出る」「売れる」なんていうことは起きるかもしれません。
イラストでそういった事象はすでにある程度起きていると思います。

ただ、自分の(もしくは誰かの)意図を伝える・問題を提起する、美学を体現する…という働きとしての「絵」とはまた違う話になります。
「伝えたい」を実現するためのイラストにおいて、AIは「道具」だと思います。
私が描きたい「イラスト・漫画」は自分や誰かの「伝えたい」の具現化です。
「道具」は使ってナンボのものです。
使い方によっては「凶器」にもなりえるという点も他の「道具」から何も変わることはありません。

つまり「イラストを売る」「イラストで食っていく」ということを考えから除けば、AI絵画対して特段忌避感を持つ理由もないと思っています。
またある程度の完成度で生成できることで、自分のイラストが豊かになる優れた道具として扱えるようになるのでは、とも考えています。
ただし、現状問題になっている学習元としての著作権・肖像権などは「凶器」として何らかの【交通整理】のようなものが必要と思っています。

それでもAIイラストを作らない理由

基本的に「AIイラスト」に対するスタンスとして「ウェルカム」なイラスト制作者です。
学習元の著作権・肖像権の考え方としてまだまだ議論の余地もあるし、整理も必要だと思っているというのは前提としてあるんですが。
突然車社会になって交通事故頻発でやばい、みたいな状態だと思うんですよね。
事故らない秩序を作れれば良いのだと思います。

なのに、ちょこちょこ触っていても夢中で生成することができませんでした。
その理由が大きく分けて2つあります。

理由その1

雑に生成した魔法学校の教室

つまらない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

身もふたもない理由を最初に書いてしまうのですが、つまらないんです。

小さい頃とてつもなく「ぬりえ」が嫌いだったのですが、その感覚と似ています。
「なんでここに収まるように塗らねばならないのか」
「なんでイラストの線は色が変えられないのか」
「なんで線を消してこっちの自分の線にできないのか」
などなど本気で不満ばかりが溜まっていったのを覚えています。

最終的に「真っ白な紙をもってこい!自分で描く!!!」と思っていました。

当然、小さい頃「ぬりえ」の本の絵の方が圧倒的に「上手い」んですが
「上手に描けるかどうか」よりも遥かに「自分の思うように描けるかどうか」の方が大事でした。
当時、自分で描いてもたいして想像と同じには描けなかったとは思うのですが…
それでも思い通りではないイラストに色を塗らされる(と思ってた)よりも自分で描きたかったんです。

私がつくった「ぬりえ」

AIイラストを生成していると、それと似た感覚に陥るんです。
AIの方が上手かもしれないし、レタッチして直していけばより高度なイラストになることはわかっているんですよ。
でも「自分の想像通り」を実現したいだけで、別に上手くて高度なイラストはいらないんです。
どんなにプロンプトを研究し尽くしたところで、想像通りに細部まで描けるかというとそうではないし、それを直していくのは単なる「作業」になりがちです。
どんなに時間をかけても自分で自分の頭の中を描き写したほうが遥かに楽しかったんです。

理由その2

最近描いたイラスト

「プロンプトを打ち込めば数秒で何枚ものイラストが生成できる」ことがわたしにとって「楽に描ける」ことではなかった。

理由その1で話した通り「別に上手いイラストが欲しい」わけではないんです。
しかも何となく雰囲気でこんな感じのイラストと思って描いているわけでもない。
私がイラストを描く時って、結構細部まで想像が及んでいて、こういう場面のこういう状況とはっきり浮かんでいることが多いんです。

それを「プロンプト」…つまり言語化することが異様に大変なんです。
細部まで何度か修正を重ねたりそれをレタッチしたり…できなくはないのですが。

言語化することが異様に大変な理由に、私の頭の中が割と「画像優位」でできていることもあります。
言語で考えることももちろんあるのですが、
画像で考えていた(図解の方が想像しやすいかな)り、フォトメモリーが盛んだったり、考えを画像で残していて言語化「しきれていない」ものが膨大にあります。

私にとって「言語化」って「カロリーが高い」出力形式なんです。

ぶっちゃけて言えば
会話や言語でのコミュニケーションが小さい頃から上手にできて、友達とも何の問題もなく成長してきているのなら…
こっちはイラストなんて描いてないんだよ!!!!!!!!!!!!!!

さらには言語にならない気持ちやイメージをイラストにすることすらあるので
そもそも「言語化できるなら文章書いている、けどできないから絵を描く」という根本的前提をAIイラスト生成時に覆さなければならなくなってしまう。

頭の中を言語化することがそもそも「下手くそ」でもあり「苦手」でもあり
そのかわりもともと脳内の形としてある「画像」をそのまま出力してコミュニケーション取りたい…という人がわざわざ言語化して、プロンプトを書いて、画像を作ってもらう意味がありません…

前段階の「自分の頭の中を外に出す」部分において、言語化というハードルが高すぎるんです。
明らかに「自分で描いた方が速い」「自分で画像出力する方が低カロリー」なんです。

まとめ

これをどう言語化して出したらいいかはわからない

AIイラスト生成を使うかどうか…
で、私は上手く使えなかったのですが、改めてAIイラストを使うかを考えたことで見えたことがあります。

絵を描けない人にとっては、脳内の出力としてAIを通せば目に見える形の「イラスト」として出現するというのは「夢の道具」でしょう。

言語化できないことで溜まっていった想像やコミュニケーション不和を、イラストという形にしていく、というのが私のイラストを描く根源です。

そういった私のようなイラストでしか表現できない脳内データを持っている人間にとって
たとえばHDMI端子を脳にブッ刺してそれを画面投影でもできなければ
絵を描くということはやめられないのだと思います。

確かにAIの作品が世を魅了して人気になっていくこともあるとは思います。
でも、人気があるなしに関わらず、持っている「表現したい、つくりたい、伝えたい」のパワーは損なわれずに「作り続ける人」がいるんだとも思います。

誰にも見られない創作を続けるのは、よっぽどじゃないとできないと思います。
でも誰かひとりでも見てくれる「ファン」がいたら作り続けられたりします。
売れないまま評価されないままでいるというのは、ゴッホの生涯を見る限り狂気に飲まれていくことでもあるとも思います。
(それでもゴッホは画商の弟の支援があったから続いたとも思う)

だからAIの方が人気が出て、人間が評価されなくなった時に、正常な精神のまま作り続けられるとはまるで思わないんです…

こういう背景は描いてもらったら楽かもしれないけども

職業としての「イラスト」は大きく議論されていくんだろうと思いますし、廃れたり厳しくなったり残ったりどうなっていくかはわかりません。
職業として単品で成立しなくなった時に、正常な精神のまま作り続ける環境をどう作るのかも考えなければならないと思います。

それでも私は(脳内に端子刺して画像がそのまま画面に映るくらいになるまでは)
イラストを描き続けたいんだな、と思いました。
そして頭の中にある世界を外に出力していきたい、というのは変わらずあるんだと改めて確認できた経験でした。

読んでくれてありがとう!心に何か残ったら、こいつにコーヒー奢ってやろう…!的な感じで、よろしくお願いしま〜す。