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3か月の痛み

猫が亡くなった。
別に飼っていたのではないけれど、家の庭に住み着き私にエサをねだり、家に帰ると構えと呼ぶ。
そういう猫でした。

飼わなかったことをある人は「無責任」と言う。
けれど、野生で育った猫が家の中で「暮らせるか」は難しいのではないか…と感じていました。
それは飼っていた猫を外に放置して野生に帰れるか…と同じくらいに。

なんだろ。
家族じゃないけど、ルームシェアくらいの感覚かな。
そういう存在だった猫が3月に亡くなりました。

ずっと悲しくてさみしくて塞ぎ込んで
いつも座っていたあたりを眺めたり、朝に窓を開けていないことを実感したり
そんな日々を過ごしていました。
49日を過ぎて「不在」を感じることに慣れてしまい少しずつ遠くなるのも感じていました。

そういうことがあって昨夜、感動したと優里「レオ」のMVが送られてきました。
この曲とMV見たことある方は「何が描かれているか」わかると思うけれど、亡くなる「レオ」(犬)からの別れの曲なんですね。
その方は私が猫を亡くしてどれだけ悲しんでるか知っていて(話してたけれどわかってなかったのか?)それを送ってくるもんで。
「デリカシーに欠けすぎてる」と腹が立ちました。(延々と謝られた)

でもそこまで悲しくなかった。
まともにMVを見ることはできずとも
あれから3か月、悲しみがとても薄れていることに気付きました。

人生の中でもあれほど悲しいことはない…と思っていたことがあった時
ある人が「人間の細胞は3か月で全て入れ替わる」という話をしてくれました。
その大切なものをなくした時
その後大切な人を亡くした時
いくつもの悲しい「不在」を経験する中でその「3か月」の意味がわかってきたように思います。

身体が染み込んだ「存在」を忘れてしまう。
「不在」を感じる身体がなくなってしまう。
それは文字通り「身を切るような」想いが消えてしまうことだと感じます。

慣れるんじゃなくて忘れるんです。
忘れるのはすごく悲しいことのように思います。
きっと身を切るような想いに耐えられるのは、せいぜい3か月ってことなんでしょう。
忘れるのは「防衛」なんでしょう。

カクン…と悲しみのレベルが下がるのをまた感じて、脳みそだけで覚えていることは大事にしたいと感じました。
でも。
「忘れていくというのは前に進みましょう」ということなのだとも思います。
(「鎌倉殿の13人」でも言っていましたね…)

そのうち、この話を漫画に描きます。

にしても…大切な人を亡くした方が「誰かと話したい」と言うのを聞いてハッとしました。
私は「誰かと話す」よりよっぽど「作品」にしてきたし、これからもしていくだろうし…
「性」だとは言え本当に罪深いな、と思うばかりです。

読んでくれてありがとう!心に何か残ったら、こいつにコーヒー奢ってやろう…!的な感じで、よろしくお願いしま〜す。