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気枯れ

「漫画を描く」ことをやっている つかはらゆき というものです。
しばらくずっと漫画原作の映像化にまつわる事件…事件で良いのかな?から
望む望まぬにかかわらず、目が離せなくなってしまい
とても、とても心からエネルギーが奪われていく感覚があります。

今やっている仕事、今までやってきた仕事、
そのどれもが「オリジナル作品」と「脚色」に関わるクリエイティブで
その在り方をひどく考えさせられています。
今まで自分が遭った齟齬を反芻して、どうしようもなくクリエイター同士が傷ついた結果になったことなどをいくつも思い返しています。

今やっている仕事のひとつに「漫画を描く」ということがあります。
ひとつの作品、ひとつのページを仕上げることがどれだけ大変かというのは
非常に実感のある話です。
オリジナル作品ともなれば本当に気血満ち足りていないと描き続けることが難しいように思います。

ただ現状私が描いているものは「他人の物語」です。
ビジネス漫画といえば聞こえはいいのですが、誰かの思いや製品について、体験について…それを漫画にすることをやっています。
それはひとつの「別メディア化」であり「脚色」です。
原作はそれぞれ依頼された方々の体験なんですよね。

クライアントの意見は聞いて、しっかり時間をかけて構成してみたら「やっぱりそうじゃなかった」というような反応をもらうと
そこには大小ありますが、悲しさもあるし苛立ちもあります。
修正が時には精神的に「削れていく」作業になり、自分を少しずつ消していく感覚がすることもあります。
目指すものが共有できていて修正の意図がわかっていればいいけれど
こちらだけ最大限考えてもどうにもならないくらい相手の希望がわからないこともあります。(本人自身が何を伝えたいのかわかってない)

今までやってきた仕事には、アニメ関連の商品開発があります。
会社に所属して、会社で与えられた担当として商品をつくっていました。
その中で権利者(原作?)に面と向かって怒鳴られたこともあります。
こちらの言い分は全く聞かず、目指すところの意志疎通もないまま「悪」と決めつけたその行為を、権利者とはいかに高慢かと思ったのを覚えています。

メディアが変われば表現が変わるのは当然のことで
たとえば「原作通り」って言った時にどう見せれば「その通りだった」と思えるのかは正解がない世界だとは思っています。
原作通りと私たちが感じるものは、コピペされたものではないはずなので。
かつ原作通りが唯一解でもありません。
有名アニメ監督でも原作の内容関係なく作る人いるでしょ。
原作者が望んだことを反故にしていくということや、意思疎通ができないままの制作がいかに作品を拗らせるかは想像できます。

どこかで「クリエイターの意地のぶつかり合い」だと表現していました。
それはそうだと思います。
自分の築き上げた世界観が壊されていく感覚の痛みもわかるし
自分が最大考慮したはずものが消されていく痛みもわかる。

何が悪いとかはまだなんにもわからないから何も言えない。
いろんな立場で自分が立った時の想像をして、
それぞれの昏い部分に目を向けて、どの立場にいた時も
つくるというのは、
こんなにも昏い痛いものかと胸が張り裂けそうになっています。

届かないとか誰にも見られないとか非難をあびまくることを
想像してつくっていったとしても
それでもそれが現実になったとき、自分の価値がなくなる感覚は何度あびても激烈に苦しいのです。

そんなことをずっと考えて、大事にされない実感を重ねながら
この数日をずっと過ごしています。

読んでくれてありがとう!心に何か残ったら、こいつにコーヒー奢ってやろう…!的な感じで、よろしくお願いしま〜す。