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言葉にしてしまうのはもったいない

今日は耳の不調で発売延期していたオーロラBGM集を仕上げてリリースすることができました。既にお手に取ってくださった方に感謝です。ありがとうございます!

ほっと一安心したのも束の間。ここ数日大丈夫だった耳の痛みと不快感がぶり返してしまいました。悲しい……。

おまけに眠れなくなっちゃったのでnoteを書きたいと思います。

嫌なことがあったときに、誰かに話して発散できたらそれはそれで良いことだと思うのですが、最近は話すのもったいないなと思うようにもなりました。

話しちゃったら自分だけの気持ちじゃなくなっちゃうじゃないですか。他者の目が入って、かっこつけたいから話しながら自分の認識を都合よく修正しちゃったりなんかもするし。

たぶん、病まない秘訣ってこの外部化にかかっているように思うんですけど、自分の場合はその外部化という行為にもの凄〜くコストを使うし、人にも使わせるんです。例を出すと、一度本気で愚痴り出すと1時間は止まらないです。

気持ち的には3時間は余裕でいけます。話しながらあらゆる憶測を過去のピースを拾い上げるみたいに集めて組み上げるので、相手からしたら「いやいや! 目の前でそんな1万ピースのパズルやめぇや!」となると思います。

話を戻しますが、この外部化の際に、どこまでが自分の気持ちなのかわからなくなってしまうような気がするんです。

誰かに嫌なことされた〜って話だったとして、共感性の高い人なら先回りして「それはひどいね」とか言ってくれたりする。

でも実際に自分が感じているのは「過去に同じパターンがあって対処するのがひたすら面倒くさい」とか「とにかく気分が落ち込む、悲しい」とか色々バリエーションがあるわけです。

こういうのが「その人の言動はひどいね」にまとまってしまうと、その奥にある自分の気持ちまで自分自身がたどり着くことなく話が終了してしまう。

いや! スッキリして話が終了するならいいんですよ! むしろ健全なことだと思います!

でも、私は強欲なので……ムカつき損って癪じゃねえか?と心の不良がオラついてしまうのです。

■ 表現する手段を覚えた

そのせいかどうかは定かではないのですが、自分は割と小さい頃に絵やお話にする、という表現方法を覚えました。音楽でも表現できるようになったのはそれからずっと後の話です。

中学生の頃に書いた小説の中では、事故に遭って幽霊になった中学生の女の子が先輩幽霊の男の子と誰にも知られず親交を深めていました。

今となっては、
・誰にも秘密の漏れない安全な場所で
・過去の自分を知らない人に必要とされながら
・自分がいなくなった世界を眺めてみたい
(・あわよくば、愛されていたと知りたい)
というような願望があったように思います。

ちなみに当時からその素質があったことにびっくりなのですが、4話くらいで物語の語り手が主人公の女の子から男の子に変わるプチ群像劇仕様でした。しかもその視点のほうが自分の本音に近かった気がする。視点の書き分けしてるの凄いな。

人の立場に立ってものを考えすぎマンのあるあるエピソードかも。コミュニティ内での本音と建前を複数人分把握し続けるのって結構大変なことだと思うし、今の言葉で言うなら感情労働ってやつを日常的にしてたんだと思います。別に強制されてないのに。

■ 傷ついただけじゃ割に合わない

自分が生涯を通じて感じてきたのは感情の揺らぎの狭間にしか生まれない表現があるということで、嫌なことやしんどいことで傷ついただけじゃ割に合わないからその感情を燃料やモチーフにしてなにか作っちゃえ!という気持ちがあるんです。

もちろん忘れてしまえたり、流してしまえたら良いことも多いのですが……それができないこともあるじゃないですか。

そういうときは、とにかく作る! 表現に結びつける! 愚痴を書いたら「聞いたことのあるような話」にしかならなくても、その時の感情を表現のトリガーにしてぶっ放せば少なくともムシャクシャした腹の虫は倒せます

そういう生き物に生まれついてよかったなと今は思ってます。

■ おわりに

そろそろオチが見えてきた方もいらっしゃるかもしれないので、白状すると……。

今日はプライベートでめちゃくちゃしんどいことがあって消化しきれなかったのでこのnoteを書きました! ギャーーー! くそーーーっ!!

ま、でもいい記事書けたんじゃないかな。少なくとも腹の虫は沈黙したと思います。

ここまでお付き合い頂きありがとうございました!
あなたの明日が良いものとなりますように。

おやすみなさい!

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