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旅行神話を壊したい

めちゃくちゃ時間が空いてしまった。半年近い。SNSなんかでは言いにくいやつを書きたくなったので再開してみる。もしかしてそれを書く場にすれば良いのかもなぁ。

最近、考える機会の多かった「人と行く旅行」に関すること。友達と旅に行くってすごくセンシティブじゃないか?ということを、世の中に提起したい。

ごくたまに、わたしが誰かと一緒に旅をする場合、それは「共に何かに向かう」場合のみ。家族旅行とか、誰かに会いに行くとか、出張とか、イベントのためとか。「目的」のためにクリアすべきこととして、旅行にまつわるリスク回避を、前向きに処理ができる気がする。

例えば、ホテルの部屋を別々にしてもらったり、人と旅するのは苦手だ、と伝えても意に介さない・気を悪くしない、といった一定の条件の下、それをやる。

……つまりその当人と長時間向き合わないというのがコツかなと感じるわけです。

結局、旅行というのは場所を変えた「生活」であって、非日常ではあるけど、衣食住、少なくとも、やらなきゃならない最低限のことは、一緒の空間を使う限り、その空間でクリアしなきゃならない。一人暮らしが長いわたしはそれにすごくビビるのです。楽しみたい旅行に、ピリッと緊張感が走る。

成田離婚、という言葉が現すように、他人同士が数日向き合うってことは、見なくてもいい何かを見てしまったが故、相手に対して持つ必要がなかった感情を持ってしまうリスクあるでしょ。

トイレに長く居座って雑誌を読みたい、夕飯のあとすぐに温泉に行かない自由が欲しい、行きたいところに行きたい、なにもしたくない・人と喋りたくない瞬間だって訪れる。

でもそれをやったら「自分勝手」や「わがまま」になったり、相手に対してもそう思ってしまう。でも旅行中だって人間は生きているのに、自由になりたくて旅に出ているのに。

ありがたくも懸命に「旅行しよう」と誘ってくれる人に件の説明をするとがっかりされる、一人旅の話をしたりする度申し訳ない気持ちになる。だからそのことを言わなくなる…これ考えるとねぇ……融通がきかないのはどっちなんだろうか、と思うと、断る権利を行使する自分のような気もするんですよ。なんで私が、そんな気持ちにならなきゃならんのだ、、、と、またそれはそれで鬱々とした気持ちになる。楽しみたい気持ちと裏腹に悪循環なんだよなぁ。

だってその人のこと好きだし、家族みたいな踏み込み方をしたい人ではないから。

「仲が良いから一緒に旅行する」って、わたしの中では全くと言っていいほどロジックが成立してない、というわけです。仲が良ければ良いだけ、踏み込まないルールがいる。それをクリアして初めて一緒に旅が出来るのだと思う。

ああ、我ながら気難しいですよ、ほんと。

どうにも周りに、「普通じゃない」と思われている。でもそれは気持ちの押し付けだ、わたしが頑なにそうであるように。と思う昨今なのです。

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