ジン

「知ってる? 今日は満月なんだ」

 古めかしい応接室には赤褐色の暖かい光が落ちている。閉められたカーテンの、その分厚いドレープの隙間から窓の外を覗き込んで、『魔女』はなぜか楽しげにそう言った。この部屋には、自分と、『魔女』と、猫が一匹がいる。他にも人はいるはずだが、今日はここに現れるつもりはないらしく、誰が来るという気配も感じられなかった。

「ふぅん……で?」

 そっけなく答える。無視しても良いし、出来ればそうしたかったが、そうすると『魔女』はますます楽しげにこちらに絡んで来ることを知っていたから、最低限の返答をした。『魔女』は窓際にいて、猫は三人がけの大きなソファのど真ん中に我が物顔で陣取っている。自分は、隅に置かれた木製の椅子に座っていた。

 今日が満月であるかどうか知っていたか否かと言えば、知らなかった。そもそも月齢に興味などない。けれど、『魔女』はそう名乗るだけあって、月の満ち欠けには敏感なようだ。

「満月には力がある。だから、あの子たちに月光浴をね」

 そう言って親指で指し示したのは、部屋の隅の誂えられた祭壇だった。祭壇といっても、そんな仰々しいものではなく、丸テーブルの上に深い紫色の布が広げられただけの簡素なものだ。光沢のある布の隅には金の糸で精緻な刺繍が施されている。布の下に何か置かれているのか、それは真ん中が盛り上がって、そこにいくつかの鉱石が祀られていた。

「手伝えって?」
「ちょっと違う。あんたがやるの」
「なんで」
「あんたに懐いてるから」

 意味が分からない。無機物に懐くもクソもあるものか。

「生きているからね」

 心の声が聞こえたわけでもあるまいに、『魔女』はそう言ってニヤリと笑った。

『魔女』と呼ばれる女の本当の名前は知らない。ただ、初めて会った時に、「『魔女』でいいわ、そう呼んで」と言われたから、その通りにしている。

 ここは『魔女』の家だ。自分はここに居候している。繁華街の路地裏で生ごみを被って眠っていた自分を、『魔女』が見つけて拾ってきたのだ。

 目が覚めたとき、自分の家どころか名前さえ綺麗さっぱり忘れていた自分に、『魔女』は「好きなだけここにいな」と言った。

『魔女』は美人だったが、年齢の分からない姿をしていた。20代に見えることもあれば、40代に見えることもある。いつも背筋を凛と伸ばして、不敵な表情を浮かべていた。見ず知らずの、自分のことだけ綺麗さっぱり忘れている男を家に置くなど正気かと思ったが、そこらへんは頓着していないようだった。

 この家ーー屋敷といったほうが正しいかーーには、自分と『魔女』と猫以外にもそれなりの人数、人がいる。全部で何人いるかは分からない。こともあろうに、『魔女』も分からないと笑う。

「どこかで必要とされたら、あいつら勝手に生まれて来るのよ。知らない顔が混じってても問題はないわ。まあ、万が一変なのが混じってても、あいつらが勝手になんとかするでしょ。仲間かそうじゃないかは、あいつらが一番よく分かってるもの」

 いつか、そう言っていた。

 中庭に出ると、ひやりと冷えた空気が頬を撫でた。月はちょうど真上にあって、冴えた光を投げかけてくる。足元で、室内からついてきた猫が一声ニャア、と鳴いた。靴下を履いたような猫。なぜか、こいつがそばにいると草のような匂いがする。

 昼間は快晴だった。だから、空気が澄んで、星の光がはっきり見える。それでも、月の主張が強すぎて、見える光はいくつもないが。

片 腕に抱え直した荷物の布を、そっとめくった。こんなもの、と思う気持ちがあるのに、その裏側に丁寧に扱いたいという思いもある。『魔女』はこの場にいない。『魔女』がいたら、もっと無造作に扱っていた気がする。あの女は、それを分かっていて同行しなかったのだろうか。多分、今もどこかの部屋の窓から自分を見下ろしているのだろうが。もしかしたら、足元の猫がお目付役なのかもしれない。

「石は月の光を食べるの」

『魔女』はそう言った。馬鹿馬鹿しいと思いながら、言われた通りにしている自分は、一体なんなのだろう。

 足元の猫は、姿勢良く座って、天上を仰ぎ見ている。

 そして。

 最初、目の錯覚だと思った。両手で器を支えていなかったら、きっと目を擦っていた。

 夜の静寂と、冴えた月明かりの下。器の上の、石の塊。種類名など分からず、辛うじて水晶がそうだと分かるばかり。それだって、水晶と言われて連想する球の形をしているからだ。

 その石たちが、月の光を吸収している。

 目に見えるものではないはずだ。そこには何もないと分かる。それなのに、確かに見えた。はるか天空から降りてきた不可視の帯が、するすると水晶の中に巻き取られていくさまが。

 石が、喜んでいる。固いはずの輪郭が柔らかくほどける。いいや、馬鹿な、そんなはずはない。無機物に感情など。いいや、分かるだろう? 事実を打ち消そうとする理性を、誰かが笑っている。

 その内側に銀河を封じたよう水晶が、夜闇の中で浮かび上がるように光を灯す。

 ……懐かしい。ふいにそう思った。そうだ。懐かしいのだ。こんな光景を、いつか見た。

 ニャア。暗がりで光る猫の目が、じっとこちらを見つめている。

 少し、泣きたくなるような、そんな気がした。

 十分に月の光を浴びせた石を持って室内に戻ると、「おかえり」と『魔女』が言った。カツカツと踵の音を響かせながらこちらに歩み寄り、水晶を覗き込む。拳二つ分の身長差。見下ろした豊かな頭髪から、淡く優しい匂いがする。

「うん、上出来。やっぱり、あんたとは相性がいいのね」

『魔女』が顔を上げる。目が合う。『魔女』は、どこか懐かしいものを見るような、遠く優しい目をしている。

「……?」
「この子たちの世話はあんたに任せる、ジン」
「ジン」

 即興で考えたのか、それとも何か理由があってその名を口にしたのか。『魔女』はこちらをジンと呼んで、「あんたの、名前」と笑った。

 ジンが生まれた、最初の日の話である。


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