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91歳のはるこさんに出会って


はるこさんは、凄い。

何が凄いって、まず見た目。
70歳の人と並んでも、春子さんの方が若い。
はるこさんは91歳なんだけど、立ち姿、仕草、歩き方、表情、会話の内容…どれをとっても、60前後くらいに見える。
その若さに誰もが驚く。
年齢を聞いて誰もが二度見する。

はるこさんが、この施設にやって来たのは、夫のDVから守る為の保護だった。

この施設は、入所の際にケータイの持ち込みも出来ず、外出どころか庭に散歩さえ出来ず、まるで隔離施設だ。
それでも、はるこさんは不満を漏らすことなく、静かに暮らしていた。

DVを行っていた夫は、社会で自由に暮らし、DVを受けていたはるこさんが外出さえ出来ず、外と連絡も取れないような隔離状態で暮らすのは、逆ではないのかと、疑問しかない。
その理不尽さに憤りさえ感じる。
この社会は弱者を守ってはくれない。
男性社会…力の強いものが有利なんだ。

その日は、昼からクリスマス会があった。そのクリスマス会に間に合うように、早めに施設を出て病院に行くことにした。
それがはるこさんには伝わっていなくて、
「これから病院に行きますよ。」
と、伝えるとはるこさんは急なことに
「どうしたらいいですか?」
と、慌てていた。
持ち物と、上着を着るよう促して、車の準備が出来たら再び居室に迎えに来ることを伝えると、安心された様子だった。
そして、91歳とは思えない、機敏な動きで出掛ける準備をしていった。
二人で施設の玄関を出ると、
「うわー。外は気持ちいい。」
と、満面の笑みで、北風の冷たさを忘れさせるようだった。
「そんなに長い間、外に出なかった訳じゃないのに、凄く嬉しい。」
「外に出られませんもんね…。」
はるこさんの表情は、施設で暮らしている時には見られないキラキラした表情だった。

車に乗り、事前の連絡がなかった事をお詫びした。
「いいですよ。本当にとても天気が良くて、外に出られて嬉しいです。」
屈託のない笑顔で、本当に今日が晴天で良かったと思った。
これが昨日なら、一日中冷たい雨が降るどんよりと重い雲が立ち込めていた。
「本当にいい天気ですね。」
「空が真っ青。」

病院に着くと、
「こんなに大きい病院があったんですね?駐車場も、凄く大きい。それに車も沢山。」
と、あまり有名でない病院なのに、こんな病院があったことに驚いていた。
ざっと一通り、病院の説明をし、これからはこちらの病院で、薬を出して貰うようになる事も説明した。若く見えても、91歳。環境の大きな変化に疲れさせないようにしたかったが、はるこさんは次から次に驚き続けている。
「朝も早かったし、疲れてませんか?」
「大丈夫です。」
と、可愛らしい笑顔を見せる。
一緒に、受診の手続きをし、
「すみません。何年生まれでしたっけ?」
「生年月日ですか?」
私が頷くと、
「昭和6年です。…古いでしょう?」
と、はにかんだ。
「大正じゃないから、古くないですよ。」
と、フォローにもならない返事をしてもニコッと微笑んでくれる。

待合室で、疲れていないか注意しながら様子をうかがっていると、はるこさんは常に指の運動をしたり、姿勢もピンと伸ばしているし、足もきちんと揃えて座っていた。
若くいる人は、姿勢から違うな…と、感心してしまう。
「きっと、皆さんから若く言われますよね?」
と、尋ねると、
「ええ…。年の事は考えないようにしてるんです。」
それは、凄く同感だった。年齢を言い訳にしたら何もできない。
今やれる事をやるのに、年齢なんか関係ない。

はるこさんは、病院のポスターに興味深々だった。
特に大腸のポスターを食い入るように見ていた。
「これが人間の腸なんですか?イラストの腸は見た事があるけど、本当の腸を見たのは初めてです。これが体に入ってるのに、そんな事も知らなかったなんて。」
「大概の方は知らないと思いますよ。」
「うわー、こんな風になってるんですね〜。」
まるで高校生の様な反応だった。
それに、今まで沢山の高齢者とポスターの前に座って診察を待っていたけれど、誰もこんな風に興味を示す人はいなかった。
こんな風に知らない事に興味が持てるから、はるこさんは老けないんだな…と、はるこさんの凄さの秘密を見た気がする。
ポスターの腸を指差しながら、
「ここの膵湾曲ってありますよね。ここは腸が大きく曲がってるから、ここで便が詰まりやすいんですよ。お腹のこの辺になるんですが。ここを優しくマッサージしていると便秘しにくくなるんですよ。」
と、私が言うと、
「ここですか?私、便秘がちなんですけど、ここが硬いんです。わー、いいこと聞いた‼︎ 凄くためになりました。これからマッサージする様にします。ありがとうございます。」
と、本当に感心しながら聞いていた。
お腹のマッサージを説明しても、こんなに真剣に話しを聞く高齢者はいないと言っていい。

はるこさんはお礼を言ったけれど、はるこさんと一緒にいると、私の方がまるで負の感情がなくなる様な、透明な空気に包まれる様な心地よさがあって、まるで正しい生き方を教わっている様だった。
その時、
「私ははるこさんみたいに生きて行きたい。」
と思った。
私は誰かをリスペクトするなんて事は一度もなかったから、私にとって初めて持った感情だ。
なんだろう?
一緒にいて、反応に嘘がないのだ。
嘘のない反応がこんなにも人を安心させるものなのを初めて知った。
それに何を話しても、負の感情が伝わって来ない。何にでも、
「わー!」
っと、感嘆符がつく。好奇心旺盛で、話していてもこちらまで楽しくなる。
改めて、他人の放つパワーの種類に人は影響を受ける事に気付いた。

診察が終わり、病院の外に出ると、
「わー、いい天気。気持ちがいい。どこかこのままドライブに行きましょうよ。」
と、はるこさんは言った。
はるこさんは施設に戻りたくないのだと伝わって来た。
言い終わると私の表情を見て、
「そんな事したら、迷惑ですよね。」
と、声をひそめた。
「これから、クリスマス会だから…。参加された事ないですもんね。」
と、私は仕事を優先した。
春子さんの表情が少しだけ曇った。
「…そうですね。クリスマス会だから。」
そう言って、帰路に着いた。
途中、雪を被った安達太良山が大きく見えて、はるこさんは再び感動していた。
その時だった。施設のスタッフから携帯が鳴った。
内容は、私の担当の利用者ではなかったから、内容を説明されてもどうしようもないもので、しかも担当者は施設にいた。
「私に説明されても、分からないから、担当者に言って。」
そう返事するが、私に処理をさせたいようで、また同じ説明を始めた。
「だから‼︎  説明されても分からないから、担当者に言って‼︎  今日出勤してるよね。」
と、ほぼ喧嘩腰のイライラした口調になった。担当者が面倒くさい人だから、私に振っているのがありありで余計腹を立ててしまった。
「アッ。」
心の中で自分が醜態を晒したことに気づいた。
出先なのだから「私には分からない」そう言って、電話を切ればいいだけなのに、ついいつもの相手のペースに飲まれ、イライラした挙句醜態を晒してしまった事に気付いて、はるこさんを見ると、花が萎れたように表情がなくなっていた。
はるこさんと過ごした数時間。光で溢れていたのに…。

それから、施設に着くまで何も話しをする事なく、施設についてからもはるこさんの表情は閉ざされたままだった。
クリスマス会の時も、はるこさんは所在無げでとても楽しんでいるとは言えなかった。

「診察が長引きました。」
そう嘘をついて、病院近くにある大きな公園で散歩した方が、はるこさんをどれだけ喜ばすことが出来ただろう…。
恐ろしく私は後悔した。
大人になったら、嘘くらいつけなくちゃ…。本当にひとを楽しませたかったらそのくらいしないと…。
そもそもが、嘘をつかないと人を楽しませられない場所ってどうなの?

そんな後悔のまま過ごしていると、
「もう5日もお通じがないの。」
と、はるこさんがやって来た。
きっと原因はストレスだなと思いながら、はるこさんの部屋のベットに寝てもらい、お腹をマッサージした。
「大丈夫。お腹はちゃんと動いてますから。この後少し廊下を歩いて運動すれば出ますよ。」
そう言う私に、はるこさんは半信半疑。
お昼過ぎにはるこさんを見つけて声をかけると、キラキラした顔で、
「出ました。」
と言った。
「やっぱり運動が足りないんですね。しっかり運動します。」
その表情を見て私も嬉しくなった。
「そうですね。」
「ありがとうございます。」
とんでもない。はるこさんの嬉しい表情を見られて私の方こそ嬉しいんだから。
「どういたしまして。」

それから2週間ほどすると、仲のいいスタッフが、
「旦那山の方が施設に入って、はるこさん、家に戻れるようになりましたよ。」
と、教えてくれた。
良かった。本当によかった。
神様、ありがとう。
心からそう思わずにはいられなかった。
それにしても、91歳で試練を受けるとは、一体人は幾つ試練をクリアしなくちゃいけないんだろう。それでも、ちゃんとクリア出来る様に設定はされているのだろうけど。

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