少子化問題の極論と現実

産休育休有休を整えて男性も女性も休みやすく長時間労働をさせない環境にして欲しい」という文章と、世間の声にウンザリしている風刺イラストを一緒にTwitterにアップしたところ、予想外の反響があり驚きました。

ニュースで女性の活躍・少子化対策という言葉を聞く度に現実とのギャップを感じていました。政策の中身の乏しさに、私は何度も失望していました。女性の活躍と、どうして女性だけにスポットを当てるのか。男性も女性も活躍しているのに、評価もせず、環境も整えず、何が活躍なんだろう、何が少子化対策なんだろう。そのいい加減さに、私は憤りを隠せません。

一部には「とにかく産めばいい」「結婚すれば子供は増える」「女性が社会に出なければいい」などと、二極化した白黒思考で極論ばかり言う人もいます。


問題とは本来、多面的なものです。表面だけ見て極論を言うだけでは改善には繋がらないと思っています。もし一時期改善しても、それは改善したように「見えた(もしくは見せかけた)」だけで、根本的な解決には繋がりません

問題の表面だけでなく、側面や背面に隠れた問題点も洗いだし、それら全てを「現実」として受け止めて、原因や過程を含めながら、あくまでも「現実」に沿った現実的な改善策を出すことが重要だと私は考えています。


では、少子化になっている現在の「現実」とは、一体どのようなものなのかを今回は言及していきたいと思います。



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<少子化の現実>

今回私は「世間の声にうんざりしている女性の風刺イラスト」を載せました。すると、多くの女性・一部男性からは「まさにこれ」「この絵の通り」という反応がありました。対して、「被害妄想」「これはおかしい」「甘えるな」「社会のせいにするな」などの意見は、主に男性から多くありました。前者の場合、私の夫もそうですが、現実の問題点を知っている立場の方が多いように感じました。後者の場合は、現実を度外視した極論や一方的な意見ばかりで、残念に感じました。

反応の時点で、真逆の意見が生じているのが、まさに「現実」だと思います。それが一体どういうことなのか、考察を掘り下げていきます。


まず私の場合ですが、私は結婚しています。ですが現状、子供を産もうとまで考えられません。何故なら子供を育てたくなくなるような社会と、世間の偏狭な声に苦しむ母親たちを多く見てきたからです。

子供を産む前は「早く産め」とプレッシャーをかけ、子供ができたらできたで産休育休の整っていない会社なら「早く辞めろ」、育児に追われて家事が疎かになれば「甘えている」「ラクしている」、子連れで外出すれば「ベビーカーが邪魔」「うるさい子供を連れて出歩くな」、息抜きで一人で外出しようものなら「小さい子供がいるのに遊ぶなんてありえない」という声が聞こえてくるのが現実なのに、一部の方はこれを「被害妄想」とか「世間のせいにするな」と言ってさらにプレッシャーをかけてきます。現実を見ようとしないのです。

「被害妄想」なら、どうしてこんなにも多くの方から「この通り」という反響があるのでしょうか。私の意見が全く現実に沿わないものなら、なぜこんなにたくさんの反響があるのでしょうか。「被害妄想」などではなくて、これが「現実」だからではないでしょうか。

現実を把握しなければ、問題が何なのかすら見えてきません。


今回頂いた意見の中には「そんなの気にする方が悪い」「世間は無視しろ」というものもありましたが、何故逆に「こういう風潮を無くしていこう」という建設的な意見がないのか、不思議に思いました。世間の声はともかくとして、実際問題、産休育休有休の整ってない会社が多く、子供のいる母親が働くにはまだまだ風当りが厳しいのが現実です。父親だって育休が取りたくても前例がないと言われ、母親に任せるしかないというのも現実です。その環境を改めて欲しいと訴えているのに、なぜ「気にするな」「無視しろ」という話になるのでしょうか。それでは最初から問題を見ようとしていない、現実逃避しているように思います。


少子化には晩婚化・結婚率の低下ももちろん関係していますが、問題は冒頭で言及したように、多面的なものです。いくつもの要因があって少子化に至っているので、私のように「子供を産める状態にある人」でも産みたいと思えない「現実」も存在します。

一部の方は「産めばいい」と思っていますが、そこからそもそもの話がズレているように感じています。人間は機械ではありませんので「産め」と言われて産むようなそんな単純なものではありません。「産みたい」「子供が欲しい」と当人たちが思えれば、子供を産むという出生率の上昇に繋がると思います。

つまり、「子供が産みたくても産めない」「子供が欲しいと思えない」現実が根底にあるのです。それを一部の方が全く理解していないことが、真逆の反応に繋がっていると私は考えます。現実を真摯に受け止め、問題を多面的に理解できなければ、改善には繋がりません



「北風と太陽」という童話があります。私は少子化問題は、あの話に似ていると感じています。「北風」は厳罰と抑圧をもって目的を果たそうとしますが、「太陽」は寛容と尊重をもって目的を果たそうとする、真逆の存在です。

「子供を増やす」という目的があるのに、これまではずっと「北風」のように冷たい風をこれでもかと送り、抑圧する状況が続いていました。北風が必死になればなるほど、童話では旅人は服をしっかりと着てしまいましたが、あれと同じだと思います。旅人の服を無理やり脱がせようとするように、子供を産めとか子供を育てろと個人を抑圧したところで、逆効果なんです。

旅人は太陽の熱を感じて、「暑いから服を脱ごう」と思い、服を脱ぎます。「服を脱ぎたい」という意思が心に芽生えてこそ服を脱ぎ始めるのですから、「子供を産みたい」という意思にさせるため、太陽の熱に変わるような存在、つまりは「環境」を整えなくては意味がないと感じています。


少子化が進んだ背景には、子供を産むことに対する心理的不安、経済的不安、社会的不安、この3つの不安が大きく作用していると思います。逆に言えば、環境を整えて不安を解消できれば、少子化は改善できると私は考えています。

心理的不安は「子供をきちんと育てられるのか」というもので、経済的不安は「子供を育てる経済的余裕はあるか」、社会的不安は「こんな世の中で子供が学校や社会でつまはじきにされてつらい思いをしないか」などの不安です。

これらは結局、「安心して子供を育てて自立を促せる環境が整っているか」に繋がっています。つまり、現状は「子供を安心して育てられる環境ではない」ということです。環境も整えていないのに、「子供を産め」と言ったところで国や政府の無責任さが透けて見えて、ますます嫌気がさすだけです。

心理的不安、経済的不安、社会的不安を解消できてやっと「子供を産みたい」「子供を育てたい」という意識に繋がり、少子化対策といえると思います。 対策と言うならば、きちんと環境を整えてから言及して欲しいのです。



以前「家庭に毒が生まれる瞬間」という記事の中で言及した内容の再掲ですが「一人一人が問題の本質を見極め、集団で立ち上がれば解決できる問題」を、「一人が足掻いたところで無駄だ」と、あらゆる抑圧環境を継続させることで思考停止させ、問題の本質を考えさせないようにしていると思っています。

なので、現在の日本には当事者意識が欠落しています。愚痴や批判をしても「こんなことに まじになっちゃって どうするの」とたけしの挑戦状よりも無理ゲー感のある現実に嫌気がさした人から思考停止して、問題を考えようとしている層を見下して文句を言うことも多くあります。

「社会のせいにするな」「甘えるな」「そんなもの自己責任だ」という意見は問題の本質と向き合おうとしていないだけです。全てが自己責任になるなら、国や政治とは、いったい何のためにあるのでしょうか。世間のせいにするな、社会のせいにするなというなら、「全て個人の責任にしようとしている世間や社会こそ、個人に甘えている」と私は思います。

これは決して、責任のなすりつけではありません。物事には自己責任の部分もあります。ですが、今回の件は国や企業側の責任の部分も、多くあります。

責任の所在を分別して現実を見なければ、問題が改善することはありません


日本の現状は、過剰すぎるほどの縦社会です。「対等」「尊重」という概念が乏しく「支配」「侵害」が当たり前になってしまっています。一部の政治家や権力者が、理不尽な言動と行動で、過剰すぎる縦社会を継続し続けています。

理不尽な抑圧環境はストレスになり、そのストレスを自分より弱いと思った人へぶつける。他の記事でも指摘した「負の悪循環」が繰り返されています。

「理不尽な抑圧環境は改善されない、状況は今より良くなることなんてない」そう大勢の方が思い込んでしまうと状況は悪化するばかりだと感じています。

私は一国民として当事者意識を持って「問題は改善できる、状況はよくなる」と前向きな意思で、問題を改善したいと思っているだけです。


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<少子化に至った過程>

前章で心理的不安、経済的不安、社会的不安が少子化加速の背景にあると述べました。また私は今回反響のあったつぶやきにも「少子化を加速させる~」と記述はしましたが、「少子化の原因」とは言っていません。

一部の方が曲解して「こんなの少子化の原因じゃない!これは関係ない!」と鬼の首を取ったように上から目線の論文のような一方的な意見を送ってくる方もいらっしゃいましたが、まず元の文章をきちんと読んで欲しいと思います。私はそんなことは言っていません。問題をはき違えています。

冒頭で記述したことの繰り返しになりますが、そもそも問題とは多面的なものです。原因が一つとは限りません。様々な要因が積み重なって現在の少子化に繋がっているのに、決めつけや思い込み、極論ばかりでは読む気も失せます。(決めつけや思い込み、極論を言ってくる方は「認知の歪み」を抱えているとお見受けしましたので、ご自身に心当たりがないか、確認をおすすめします)


原因を知ることも必要かもしれませんが重要なのは現在の状況がどうかです。「昔は専業主婦ばっかりだった!だから今より出生率が高かった!つまり昔のように母親は専業主婦になるべきだ!」と言われても、昔と今は違います

過去に適用できたからと言って、過去よりさらに多様化が進んだ現代の日本で同じような結果になるとは私には思えません。母親が専業主婦に戻るとして、父親だけの収入で家計は成り立つのでしょうか。成り立たないですよね。まず前提として、「成り立たないから母親が働いている」という問題もあります。(家計は成り立つけど、好きで働いているという場合ももちろんあります)

「過去はこれでうまくいっていた」から現在にもそれを適用させようだなんて強引で乱暴な意見だと思います。現実を無視してしまっているわけですから。極論を言ってくる方は、現実をきちんと把握して欲しいです。


そもそも、私は「過去はこれでうまくいっていたように見えていただけ」だと思っています。以前の日本は今よりももっと画一的で、多様性は認められず、女性は結婚して母親になる道以外生きる術がありませんでした。うまくいっていたのではなく、そう見えていただけ、見せていただけだと感じています。

経済的に自立できる立場になかった女性は今よりもっと不自由でした。自由のない女性は思考停止し「子供を産まなければいけない」と子供を産みました。しかし、人間には向き不向きがあります。中にはいわゆる良妻賢母と呼ばれる母親になるべくして生まれてきたような女性もいたでしょうが、家事や育児が苦手で、どちらかといえば働きたい外に出たいという女性もいたと思います。

そんな向き不向きも個性も度外視して「女性は家で家事育児介護をすべき」と個人を抑圧してしまうと、向いていない女性はストレスを覚えてしまいます。また、男性だって同じです。社会で働くことが向いていない男性だって本当は多くいたはずです。なのに「男性は外で働き、女性は家で家事をするもの」と抑圧し男女という枠に押込められた多くの男性・女性がストレスを感じていたのではないでしょうか。

そのストレスを発散する場所や趣味があれば良いのですが、昔は今より文化も娯楽も少なかった。ストレスを感じた父親と母親は些細なことで喧嘩になり、いがみ合い、不仲になります。しかし、昔は今より女性が弱い立場で自立する環境が整っていなかったため、自分を押込め我慢するしかありませんでした。なので離婚にならないよう表面的に取り繕うことが必要で、うまくいっているように「見せていただけ」の家庭も多く存在したと思っています。

そんな不仲の両親を見て育った人は少なからずいると思います。もちろん両親仲が良く、和やかな環境で育った人も多いとは思いますが、前者だって決して少ない数ではないと思います。私もそうですが、私の周囲にもそういう環境で育った子は多くいました。そして中には「両親を見ていたら結婚したくない」と、結婚や子供を持つことに絶望さえ感じている人も多くいました。これらも少子化を加速させた「心理的不安」の背景の一つだと感じています。

つまり、もし経済的不安が解消して過去のように男性が働き女性が専業主婦になる状況になったとしても、結局この「うまくいっているように見せていた」状況が繰り返されるだけで、抑圧環境の負の悪循環は続く一方だと思います。ということから、私は過去の状況を繰り返そうとする意見には反対です。


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<環境を整えなければ安心は得られない>

「子供を安心して育てられる環境」を整えさえすれば、何をせずとも少子化に歯止めがかかると思います。ただし、その「安心」は、問題と同じで多面的なものなので、一つのことだけを解決すればいいというものでもありません。

子供を産み育てることもそうですが、雇用だってそうです。環境を整えたら、産む気も育てる気も働く気も今よりは上昇し、安定すると思います。

まずは「経済的不安」や「社会的不安」です。保育園などの待機児童の問題を解決しなければいけないし、大学までの学費負担もさることながら、企業側は新卒至上主義を改め、雇用に自由な選択肢とチャンスを与えて欲しいですね。現状の日本の「一般コースを外れたら自己責任、すなわち死」みたいな風潮は抑圧環境を継続するだけで、ますます生きづらく、子供を産みづらくなるだけだと思います。「勤勉で義理堅いまじめな日本人」も素敵だとは思いますが、これを逆手に取られ「理不尽なことにも抵抗せずひたすら従う社畜」になっている現状はどうも心苦しいですし、少なくとも私は打破していきたいです。

そのためにはまず企業側が労働基準法をきちんと遵守しなければならないし、性別関係なく、有休が消化できて育休が取りやすいプライベートを重視できる労働環境を整えることも大前提です。職場の飲み会が好きな人はすればいいし長時間労働がしたい人はすればいいと思いますが、それを他者に強制するのはやめて欲しいです。「したい人だけすればいい」のスタンスで、基本は仕事とプライベートを分けられる環境にすることが重要だと思います。

「産休育休有休を整えて男性も女性も休みやすく長時間労働をさせない環境にして欲しい」と冒頭で述べましたが、これはそんなに企業にとって難しいことなのでしょうか。「勤勉で義理堅いまじめな日本人」を逆手に取って、社畜化させ続けたいだけじゃないんでしょうか。長時間労働をするのだって、単純に考えたら仕事の適正を考えない割り振りのミスマッチか、処理能力を超越した仕事量を与えてるからじゃないんでしょうか。それなら労働不足分を補うだけの人材が必要なはずだし、新たな雇用が生まれるはずです。労働者を社畜化し酷使し、人材育成もせず即戦力になる人材ばかりを選別し、ひたすら人件費をカットしている現実も存在します。労働者を人だと思っていないんですよね。だから「社畜」なんて言葉が生まれてしまう。こんな言葉を自虐的に使うのは悲しすぎます。

(労働「基準」法なのに、「基準」すら守られてないって何なんでしょうね。「そんなものを遵守したら人件費で会社がつぶれてしまう」と言うならば、「基準」さえも守れていない会社であることを自覚して欲しいと思います)


保育園だけでなく、ベビーシッターなどのサービスももっと気軽に利用できるようになって欲しい。子供と一緒にいることは重要ですが、親の気休めだって必要です。「子供が大事なら片時も離れてはいけない」という世間の圧力から頑張りすぎて、心を病んでしまった方もいます。シングルだったり、配偶者を亡くしたりして一人で育児をする親なんて特に、ベビーシッターが必要です。

「親に頼ればいい」という意見もありますが、親に頼れない方がいる「現実」を無視しています。多様化した現代に画一化した家族像なんて存在しません。今存在する状態そのものが全て「現実」なんです。親が亡くなったから、夫や妻がいないから、一般コースを外れたから、だから自己責任だなんて、それは政府や世間が無責任過ぎるだけです。なんのための社会なのでしょうか。


「一般コースを外れたら自己責任、すなわち死」は、自由に寛容でない社会が如実に出ていますよね。「同一視」で「みんな一緒じゃないとダメ」みたいな風潮が強すぎると感じています。団結も時には大事かもしれませんが、集団の前にまず個人が尊重されて欲しい。就職するため「とりあえず」大学に入る、一体いつから就職養成所になってしまったのでしょうか。大学→就職だけではなくもっと多様な生き方があることを学び、個人を大事にして個性を尊重する風潮に変えていかないと、日本の空気はどんどん濁ってしまうのではないかと私は危惧しています。

そして男性女性の性別に関係なく、自立する能力を培い、家事やら育児やらを勉強していく必要があります。自立できる能力を培った上で、結婚した際には自分の向き不向きにあった家庭の役割を担えばいいと思います。我が家の場合だと、私は外で働くことが好きで夫は家で家事をしている方が性に合っていると言います。しかし現状、役割を逆にしたくても経済力や社会的問題で難しいのが現状です。我が家の他にもそこそこあるとは思いますが、向いている人が向いていることをすればいいし、そこに性別なんて関係ないと思っています。

だいたい、男らしさとか女らしさとか何なんでしょう。性別で能力が決まってしまうなんてことはありません。男か女かの前に、「一人の人間」です。

男女も年齢も関係なく、もっと自由で自分らしさを追求できる国にならないとどんどん国力は落ち、このまま衰退の一歩を辿るだけです。「心理的不安」はこれらの環境を整えてこそ解消に繋がると思います。何か言及するよりもまず国や企業は「子育てしやすい環境」を整える必要があります。

じゃあそれらを是正するためのお金はどこから捻出するの?この国借金だらけなのに?という話になると思います。私は財政に明るくないのですが、本当に財政に無駄がないのかという疑問があります。話題になった政務活動費だってあんなのを個人の申請に合わせていたらキリがありません。一定の額を給与に上乗せした方が、まだ湯水のように使われることもないと思います。そもそも政治家が正しく使っていると主張しても、国民から見たら「こんなもの本当に必要ある?必要あったとして、国民が負担しなければいけないこと?」という出費だってたくさんあるような気がします。政治家でトップにいく方の中には世襲した、言うなれば一般生活や社会経験に乏しい人もいると思います。常識レベルが前提から違うから国民の現実が見えておらず、ピントがズレた政策になっていることも、少なからずあると思います。うちわ問題もそうですけど、今議論することはそれじゃねーだろと多くの国民が思ったんじゃないですか。


以前は男尊女卑でしたが、今は男性でも軽視されてセクハラやモラハラの対象になる方も多いです。どちらかというと「老尊若卑」になっています。大事な労働力である若者を、一部の年配者が「今どきの若者は」と軽視しています。人格の備わった年配者もたくさんいる中で、理不尽で悪質な年配者や権力者が存在します。そういう人が政治家や企業のトップで、権力を行使して理不尽なことを繰り返して抑圧環境を継続し続けています。私たちが立ち向かう相手はそういう人たちだと思うんです。女性VS男性という対立構造ではなく、女性も男性も協力して、理不尽な人や構造に立ち向かっていく必要があります。

こういうことを言うと「じゃあ早くデモでも何でもして(偶然にもダジャレになってしまってHAZUI☆)行動しろよ!社会を変えるために活動しろよ!」とこれまた白黒二極化思考の方は極論をぶつけてくるかもしれません。

まず重要なのは、「思考停止」を解除することです。前述の繰り返しですが、「一人一人が問題の本質を見極め、集団で立ち上がれば解決できる問題」を、「一人が足掻いたところで無駄だ」と、あらゆる抑圧環境を継続させることで思考停止させ、多くの人が社畜と化して無力感に囚われ政治に興味を無くし、問題の本質を考えないようにしてきたという背景があると考えています。

「考えても無駄」「変わるはずがない」なんていう「思考停止」をしていても現状は悪化するばかりで、自分がどんどんつらい思いをするだけです。

放っておいて悪化するなら、まず放っておくことをやめて考えてみる。問題の本質に向き合い、どうすれば改善するか、今より苦しい思いをしなくていいか考えるだけでも、全然違うと思います。国民一人一人が「思考停止」をやめて問題に向き合えば、野放し状態の政治も少しずつ変わっていくと思います。

以前言ったことの繰り返しですが、何で生きているかなんて壮大なことは私は知りません。でもどうせなら、どうせ生きるならつらい思いをするより楽しい思いをした方がいいじゃないかって思うんです。もちろん人を悲しませたり、傷つけたりしない種類の楽しさの追及です。そのためにどう行動していくかはまたゆっくり考えたらいいですし、ひとまず「問題の本質が何か考えてみる」ことが重要だと私は思います。


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頂いたリプライ、無断転載したまとめサイトも数か所確認しましたが、感情をむき出しにして怒りをぶつけている方が印象的でした。一個人の意見ひとつで感情を爆発させる方がこんなに多いということは、日常生活で抑圧され怒りを抑え込んでいる人の多さを反映していると思います。抑圧環境で思考停止して「問題は解決できない」と大勢の方が思い込んでしまっています。抑圧環境に異議を唱えるため、これからも意見を発信し続けようと改めて思いました。(転載は許可していませんので、無断転載についての対処は現在考え中です)


一見すると批判と思うリプライでも、読めば読むほど矛盾点が多く、私からは文句が言いたいだけ・八つ当たりしたいだけなんだろうな、と思えました。

私の中で「批判」と「文句」は別で、批判は問題の本質に向き合っていますが一方の文句は問題の本質に向き合っていない、ただの八つ当たり行為だと思っています。「議論」と「口論」も同じです。議論は問題の改善のための行為で口論はただの口喧嘩です。口喧嘩では、有益な対話にはなりません。


問題の本質に向き合うことは現実を知ることです。現実を度外視した極論は、ただの文句になってしまいます。文句や八つ当たりをする人とは問題の視点が違うため、有益な対話ができず、いたずらに負の悪循環を繰り返させる要因になると考えていますので、そういう方は積極的にブロックしていく所存です。

私の目的は全て、問題を改善したいという思いに繋がっています。






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