「男(女)はこういう生き物」という思い込み

以前、フィギュアスケート選手の織田信成くんが出演する某番組を見ました。織田くんといえば、涙もろかったり、Twitterで変顔や愉快なことをしたり、他のスケート選手と仲睦まじい姿を見せたり「感情が豊かな楽しい人」という印象が私の中にあります。

私が見たのは旅番組で、そこでも織田くんは感情豊かで、表情が目まぐるしく変わるだけでなく、他の出演者にもとても優しく寛容でした。誰かを攻撃するような言葉はもちろん言わないし、柔和で穏やかでさりげない優しさが随所に現れていて、見ているだけで何だかとても優しい気持ちになりました。

でもそんな織田くんを他の出演者が「オネエ?」「もしかしてコッチの人?」とイジる姿を見て、私は「ああ、これがいわゆる"男らしさ"とか"女らしさ"という概念の押し付けなのかな…」と感じてしまいました。


私はこれまで長い間「性別」という括りを気にして生きていたのですが、最近やっと、性別で個人の性質や能力を判断するものではないと思い直しました。

「性別」という括りの前にまず「個人」という存在があるはずです。ですが、日本では長らく「男性は~女性は~」と性別という括りにある種のレッテルを世間が貼り続けて、多くの人が鵜呑みにして思い込んでいたように思います。

でも実際は、男性らしい女性もいれば、女性らしい男性もいるし、セクシャルマイノリティという存在もいます。そう考えていくともはや「性別」は個人にレッテルを貼りかねない、先入観を植え付ける色眼鏡のような存在になりつつあるのではないかと感じています。

「男(女)はこういう生き物」と面白おかしく風刺される記事がありますが、実際は全員が全員性別で分別できるような性質や能力を持ち合わしているとは私には思えません。結局は「個人差」があります。

しかし世間全体で認知の歪みを抱えた状態に陥り「男・女はこういう生き物」という同一視によって「自分は男だからこう」、「自分は女だからこう」と、思い込んだり決めつけたりしてしまっている人も非常に多いように感じます。

世間全体の認知の歪み → 個人の認知の歪み → 性別レッテルの拡散


男性の場合は「男は性欲を抑えられない生き物」「男は浮気する生き物」など女性の場合は「女は感情を抑えられない生き物」「女は疑り深い生物」などと言われることもありますが、性欲を抑えられる男性が大半ですし、浮気しない(興味がない)男性もたくさんいます。女性だって感情を抑えられる人と抑えられない人、疑り深い人も全く人を疑わない人もいます。性欲を抑えられずに浮気する女性がいるように、感情を抑えられず疑り深い男性だっています。

結局個人差なのですが、しかし世間全体で「男はこう」「女はこう」と性差を押し付けることで、「性別とはそういうものだ」と思い込んでいる状態の人が多く存在するのも事実です。特に現代でも男尊女卑・女性蔑視が根強い日本は男性性は正当化されつつ、女性性は否定されることが少なからず存在します。(男性は論理的で仕事ができる/女性には重要な仕事は任せられない等)

今回は性別による思い込みと派生問題について考察・言及したいと思います。


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<弱音を吐けない"男性"たち>

世間やメディアで男性はしきりに「弱音を吐くな」「愚痴をいうな」「泣き言を言うな」「男のくせにグジグジするな」と言われたりします。男性が男性に言ったり、女性が男性に言うこともあります。男性に生まれたら、感情を表に出すことを良しとしない風潮に否応なしに巻き込まれてしまうのです。

でも「男性」や「女性」という性別の前に、人は「一人の人間」のはずです。「男性」だからという理由で、弱音を吐けない、愚痴を言えない、泣き言すら言えない――…この風潮は、ただの押し付けで、ひどく理不尽だと思います。個人の感情は、性別に関係なく自由なはずです。冒頭で取り上げた織田くんのように自由に笑ったり泣いたり楽しんだりして当然なのに、「オネエなの?」「ゲイなの?」「男らしくない」などと、ひどく茶化す風潮があります。

この風潮のせいで、多くの男性が感情を抑圧してきたのではないでしょうか。「男らしくしなければいけない」と、無意識に個を抑圧し、男性という性別に固着し、自らレッテルを貼り続けている方も少なくないと感じています。

私は「男らしさ」「女らしさ」なんてただのレッテルでしかないと思います。感情豊かな男性も涙もろい男性も可愛らしい物が好きな男性も、素敵だと思います。弱音も愚痴も言わない人間なんて逆に恐ろしいです。性別に左右されず「自分らしさ」を確立して個人の価値観を形成できる社会になれば多くの人が心の抑圧から解放されて、今よりも自由な社会になるような気がしています。



一つ前の記事(少子化問題の極論と現実)に書いたので重複する内容ですが、少子化対策について感じていることを風刺漫画にしたところ、たくさん反応がありました。その際、一部の男性からは暴言や言いがかりがありました。

一見すると論理的な文章にも見えるのですが、ほとんどが論理破綻した内容で中身はただの暴言、言いがかりで、非常に残念に思いました。捉え方考え方が論理的だろうと感情的だろうと「認知の歪み」を抱えてしまうと論理的な人は論理的に破綻しながら怒りをぶつけるし、感情的な人はより感情的に主観的に怒りをぶつけるので、「思考が論理的だから整合する」とは限らないのです。思考の「認知の歪み」を自覚できないのが問題なのだと気付きました。

どちらにしても、見ず知らずの私に対し暴言や言いがかりをぶつける背景に「怒り」「憎しみ」を抱えていると感じました。もちろん本人は無意識だし、自覚すらしていないと思いますが、彼らが感情を普段から抑圧していることは容易に想像がつきました。認知の歪みを抱えながら自身の感情を抑圧した状態だと人は「今自分が何を感じてどういう行動をしているのか」が自覚できないため、白黒思考で目の前の別意見を全て「敵」と見なし衝動的に行動するので建設的な議論に至らないのです。「とにかく反論」することが目的になって、主張や言及も二転三転し、盛大なブーメランを投げることもあります。

攻撃的なリプライを送った方たちの普段のつぶやきを見てみると、多くの方が日常的に不満を爆発させていました。満たされた状態なら攻撃的なつぶやきを見知らぬ人にぶつけたりしないと思います。ネットの世界も現実の一部です。ネットを介しているだけでリプライの先には必ず「相手」が存在しています。その「相手」がどう思うか、どう感じるかなんて考えもせず、攻撃的な暴言や言いがかりを一方的にぶつける行為は、現実世界で置き換えれば「当たり屋」と違いがないように感じます。

日常的に感情に蓋をして「今自分が何を感じてどういう行動をしているのか」が認識できなくなる状態は抑圧環境の悪影響です。「感情凍結」「思考停止」の盾を所持している状態だと思いました。(詳細は「自己尊重と感情の解放」の後半をご覧ください)



私はあの風刺漫画に「女性は男性よりつらい」「女性は男性より可哀想」とは書いていませんし、思ってもいませんでした。私は女性なので、自分の立場で「世間の声」を可視化させたに過ぎないので「また女だけが被害者ぶってる」「はいはい、女はつらい女はつらい」といった意見がとにかく不思議でした。もちろん男性が全員そういった意見ではありません。少なくとも、私の周囲にいる男性たちからは「女性様乙ww」「女性特権」的な話は出ませんでした。一部の方だけが、強烈な女性嫌悪(ミソジニーを抱えているのです。

そこで思ったのです。そういった意見を言う方たちこそ、本当は「自分こそがいちばんつらいんだ」と声高に叫びたいのではないだろうか、と。

被害者ぶってると言うのは、「本当の被害者は自分たちだ!」という気持ちの裏返し「被害は妄想で被害者ぶっているだけ。自分たちは加害者ではない」という責任逃れが含まれているように思いました。

「男らしくしろ」「男は弱音を吐くな」「男は一家を支えなければならない」といった世間やメディアの声に触発され、感情――特に「怒り」「憎しみ」といった感情を押し殺して生きてきたのではないでしょうか。

しかし抑圧された環境で、男社会・縦社会が根付いてしまった現状では、何を言っても「自己責任」にされ社会のせいにすることは許されず、吐き出し口が存在しなかった。そこで自分たちよりも立場の弱い相手である「女性」に、「怒り」や「憎しみ」を一部の人がぶつけ始めたのではないでしょうか。


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<母親(祖母)への怒りを認識していなかった私の父親>

少し前の話ですが、父親から私の私生活を干渉するようなメールが来ました。このようなメールは一年に数回届きます。昔は回数も多く、電話も多かったのですが、自身の心の健康のために余程のことがない限りスルーし続けたところこの頻度に落ち着きました。いつもならスルーですが、その時は思うところもあり、いつもと違う角度で返信をしました。

父親は私が家を出る前から、長い間私生活がうまくいっていません。母親とは会話もなく、祖母には虐げられた状態です。その問題には自分から着手せず、子供である私に「生活はうまくいっているか」と心配してくるのです。これは完全に余計なお世話というか「まずは自分の問題を解決してからじゃないと、子供に何か言っても説得力もないし反面教師でしかない」と私は思うのです。

つまり、父親は自分の問題から目を背け、その問題を解決できないストレスとジレンマを子供である私にぶつけ憂さ晴らししようとしているのです。問題の根底に、父親から母親(私の祖母)への怒りが内在していると推測しました。私の父親が毒だったように、父親の母親もまた、毒でした。毒の悪循環です。

しかし父親は、全く自覚できていませんでした。それどころか、母親を尊敬し「俺の母親は立派だし、俺はそんな母親を大事にしている」と誇りさえ感じていたと思います。しかし父親のこの状態は心理学でいう反動形成そのもので、本来感じている気持ちを抑圧し、全く正反対の行動を取っているだけでした。そう思った私はスルーすることをやめて、父に以下のような返信をしました。

「お父さんへ。私の生活は全く問題ありません。それよりも、お父さんたちの問題を解決した方が良いのではないでしょうか?「親を敬え、大事にしろ」と小さい頃から私に言っていましたが、もしやお父さん自身がそう思い込もうとしていたんじゃないですか?あれは世間の価値観でしかありませんしお父さんの価値観ではないはずです。お父さん自身、母親であるおばあちゃんを心から大事にしたかったのでしょうか。世間に振り回されていたのではないですか?お父さんは私によく「親から逃げられるなんて思うな」と言っていましたが、あれは本当は自分自身に言い聞かせていたのではないでしょうか?親、つまりおばあちゃんから逃げたかったのではないですか?無意識に思っていることは言葉に表れることがあります。もう、自分をごまかさなくていいです。自由に生きていいんです。お父さん、おばあちゃんのことが心から好きですか?」

正直、父親のことはずっと「あなた」と呼んでいたので自分でも虫唾が走った文章なのですが、「あなた」と呼ぶとそれだけで父親はキレて対話が不可能になるので、あえて「お父さん」と呼びかけるような文章で返信をしました。

この文章を送ると、今まで一方的な攻撃と干渉しかしてこなかった父親から「私は大丈夫です。元気ならいいです」と、まともな返信が返ってきました。あの文が効いたかどうかはわかりませんが、それ以来メールは来ていません。


この件で思ったことは、「感情を暴走させ理不尽に怒るシニア層」の中には、私の父親のように親への怒りを抑圧したまま壮年期~中年期を迎えてしまい、内省すらできない状態に陥った人が多いのではないか、ということです。

昔は今よりも理不尽で暴力的で抑圧が強く、思考停止した人が多かった。そう考えると、抑圧した怒りを抱えたままシニアになった人が、自分を自制できず無関係な他者に怒りをぶつけて憂さ晴らししてるように感じてしまうのです。

私の父親の場合は、本当に怒りたい相手は「母親(祖母)」です。しかし、「親を敬え」という世間の声や圧力から怒りをぶつけることなく抑圧し続けていました。とはいえ、怒りは抑圧しても消えるものではありません。蓄積し、心に留まって、自分自身を蝕み始めます。父親はそのストレスやジレンマから逃げるため、母親(祖母)と同じ「女」である私に怒りをぶつけて憂さ晴らししていたのではないか、と考えました。もちろん、この背景には「男尊女卑」「女性蔑視」の風潮も少なからず関係しているとは思います。

無差別で悲惨な事件が起きた時、犯人が「誰でも良かった」ということが多くあります。しかし、「誰でも」としながら、実際のターゲットは女性や子供が対象になるケースが多かったりしますよね。自分より屈強な男性や、強そうな人は対象にならないことからも、ストレスの矛先は「自分より弱そうな弱者」に限定されてしまうのです。「誰でも良かった」と言いながら、結局は相手を選んでる事実がそこにあります。



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<女性嫌悪する一部の男性の不思議な行動>

以前「家庭に毒が生まれる瞬間」という記事の中で、抑圧された環境によって人はストレスとジレンマを抱え、抑圧環境を解消することを諦め、ストレスを弱者にぶつけて負の連鎖を繰り返しているという仮説を立てました。

仮説のストレスの矛先は子供でしたが、「男らしさ」を追究される抑圧環境のストレスの矛先を、「女らしさ」を解放するため日々活動している女性たちに向ける男性が一定数存在しています。

自分のストレスを無関係な他者にぶつけたところで何も進展しません。それに問題の本質は女性ではなく、抑圧環境を継続する社会に問題があるはずです。そう考えると、もしかして女性に怒りをぶつける人は、私の父親と同じように本来立ち向かう問題から目を背け、解決できないストレスを女性に八つ当たりして憂さ晴らししようとしているだけなのではないか、と思ったのです。


私に攻撃的なリプライを送った方の中には、「女性が社会に進出したせいで、本来は男性が担っていた仕事が男性にまわってこなくなり格差が広がった」と主張している方がいました。でもそれって、女性が悪いのではなくて、社会が悪いのではないでしょうか?一度多様化が進めば、元に戻すことは困難です。女性が社会進出することは多様化が進んだ結果で、女性に全て原因があるとは私は思えません。

「女性は全てを社会のせいにしている」という主張も逆に言えば「全て女性のせいにしている」ように感じてしまいます。「被害者ぶるな」という意見も、女性蔑視が今も根強いのは被害者ぶっているのではなくただの「事実」です。こちらも「本当は男性が被害者」「男性は加害者ではない」という主張の裏返しにもみえます。

事実に基づき、被害・加害を明確に認知しなければ、問題は改善しません。「被害妄想」といって実際の被害の事実を妄想扱いし無かったことにするのは事実の黙殺で、犯罪や人権侵害の助長をしていることにもなり得ます。

男性も女性も、「理不尽な縦社会(男性社会・年功序列など)」の被害者でもあり加害者にもなるということです。どちらが悪いのではなく社会が悪いのに「自己責任」という何でもかんでも個人に責任を押し付ける風潮の悪影響で、誰かに責任を押し付けるため無駄で非生産的な言い争いをしているに過ぎないのです。個人の努力の範囲を逸脱した問題は自己責任でも何でもなく、社会や政府の責任なんです。個人が全ての責任を担うなら、社会とは何のために存在しているのでしょうか。

責任の所在を分別して現実を見なければ、問題が改善することはありません。(前回の記事のコピペだよ☆)


事実を黙殺する背景に、自分が加害者になり得る(または加害者だった)ことへの認識を極度に恐れている状況もあると感じています。

例えば痴漢に対して議論しているとして、どう考えても「痴漢」という存在が悪いのに、一部の男性は「痴漢は存在しない」「被害妄想」「冤罪だろ」など加害者を擁護してしまうことがあります。でも、痴漢は男性だけでなく女性の痴漢も存在しますし、被害者は女性だけでなく男性や男児が対象になることもあります。つまり、「痴漢は痴漢行為をしない全ての人間の敵」なのですが、どうしてか一部の男性は痴漢を擁護してしまうことがあります。

これはもしかして「男性は性欲を抑えられないもの」という通説を思い込み、自分がいつか加害者になり得るかもしれないという恐れから、痴漢の被害者を攻撃して事実を黙殺しようとしてしまっているのではないでしょうか。

この「男性は性欲を抑えられない」という通説は、私は完全なデマだと思っています。デマというか、一部の性欲(加害欲)を抑えられない男性が、自身を正当化するために広めたものではないでしょうか。「男は浮気する生き物」もそうですが、性欲をコントロールできて浮気に全く興味のない男性が存在する事実がある以上、論理的には破綻しているし、ただの自制できない人の言い訳にしか思えません。

しかし、この通説が世間では常識のように蔓延し、男性は小さい頃から性欲(加害欲)をコントロールしなくていいかのように吹き込まれるので、いつか自分の性欲が暴走してしまったらどうしようと不安を抱えてしまい、その不安を解消するためにあえて、男性の性欲(加害欲)は抑えられないという主張を繰り返してしまっている…という可能性も無きにしも非ずだと思います。


このあたりを考察し始めると長くなりそうなのでまた今度の機会にするとして私の主張したいことは、「男性や女性という性別を理由に個人とは違う性質のものを世間に植え付けられて思い込んでいるのではないか」ということです。決めつけや思い込み、白黒思考や二極化、レッテルを貼ることは認知の歪みで何の解決にもなりません



解決に繋がるのではと思い、私だけでなく他の女性にも攻撃的なリプライを送る男性を何人か分析してみたところ、興味深い共通点がいくつかありました。

①日常的に何らかの文句を言っている(問題を追究する批判ではなく、ただの文句)②日常のつぶやきが楽しくなさそう ③激しい女性嫌悪(ミソジニー)④女性を嫌悪しつつ女性に対してリプライや非公式RTをして接触をはかる ⑤リプライの内容は失礼なことが多くて礼儀知らずで対話する姿勢ではない ⑥一方的な価値観を押し付けつつそれに反論すると「押し付けるな」と真逆の反応をする ⑦自分からリプライして来るのに「もう関わるな」と主張する ⑧論点がズレて対話にならないのでブロックするとキレたり根に持ったりする⑨女性が「こういう男性が多い気がする」という一つの感想を「男性は○○」と決めつけていると思い込む ⑩「女は○○」と、まるで女性は一つの生き物かのように思い込み決めつけ、同一視している

これらの共通点に加えて、「身近に親やきょうだい以外に女性の存在がない」というものもありました。多くの女性を客観的に見ているのではなく、女性がまるで一つの性質しか持ち合わせていないかのように思い込んで、決めつけてしまっていたりします。もしかしたら私の父親のように、身近な女性に何らかの怒りや憎しみを抱えているのかもしれませんし、「心の理論」の発達が遅れ他者の心を推察・思慮できない状態になっているのかもしれません。

男性嫌悪(ミサンドリー)は実際に男性に加害された事実から陥っていることが多いと感じるのですが、女性嫌悪(ミソジニー)は実際に女性からの加害がない、というよりもむしろ、接触すらないことに対して怒りや憎しみを抱えてしまう状況が多いように感じています。「俺を受容れない女性が許せない」と暴言や暴力であえて接触を試みようとするというか、女性の存在を無視すればいいのに「女性はけしからん!嫌いだ!」と言いながら近寄ってくるのです。


「被害妄想」とまた言われるかもしれませんが、上記内容は客観的な事実だと思います。これらをまとめると痴漢みたいな思考回路なんですよね。何人かのフォロワーさんが「(性的なことではない)ネット痴漢」と例えていてうまいこと言うな~と思いましたが、確かに、これってただの嫌がらせですよね。

少なくとも、私の周囲にはこのような男性は存在しませんが、まとめブログやTwitterといったネット上にはこういった行動をする男性が存在しています。

女性嫌悪しながら、女性に接触(リプライ、非公式RT)して、内容は不躾で暴言に近いというか、最初から口論を助長させるような口調だったりします。そして論点はズレているし、揚げ足を取ったり、自分はソースを要求しながら相手には思い込みと決めつけで返事をして自分はソースを提示しなかったり、とにかく一方的で押し付けるような内容なので「これじゃ話にならんぞい」とブロックすると、ブロックされてるのにまだ文句を言ってたりするという…。

何がしたいか全然わからないんですよ。嫌いなら最初から関わらなければいいと思うんですが、こういう方は何故か「嫌いだ」と主張しながらわざわざ接触してくるんですよね。


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嫌いな人や不快な人にエネルギーを傾けるほど無駄なことはないと思います。そんなことをするより、問題を改善をするために考えたり、発言をしたほうがよっぽど建設的だし、何よりも自分のためになると思います。

このような言及をしたところで、女性嫌悪しつつ女性に自身の怒りをぶつける人が減ると思っているわけではありませんが、女性蔑視や差別を無くすために有益な発信をしている方がこういった「当たり屋」に巻き込まれている状況が多く見受けられたため、今回は自分の体験や考察を文章にしてみました。


大事なのは「当たり屋」を減らすことではなく「男性らしさ」「女性らしさ」というレッテルに苦しんでいる方を減らすことだとは思うのですが、こんなに攻撃されて気を取られてしまうと、本来の目的を忘れてしまうこともあるので私は今後もスルーしたいと思います。時間があれば一人一人と対話をしたり、分析して着地点を見つけることもできなくはないと思いますが、本人がそれを望んでいるわけではないと思いますし(ただ八つ当たりしたいだけだろうし)私も私で限られた時間しかないので、積極的にスルー&ブロックがいちばんの対策なんだろうな、と思っています。








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