心を可視化してみる

思考回路はショート寸前どころか毎回ショートしています!こんにちは。

好きなミュージシャン・トモフスキーの作品に、「脳」という曲があります。人間の内面をとても巧妙に、可視化ならぬ歌詞化し表現される方なのですが、この「脳」という曲は心と体が繋がっているという歌です。


この曲を聴きながらぽやーんと考えてたら、心と体は繋がってるけど、体だけ可視化できて心は可視化できないんだよなーと、まあ当たり前っちゃ当たり前なんですけど、そんなことを考えていました。心が可視化できないばかりに、外側――容姿や表情や会話力ばかりに意識がいってしまったり、人によっては経済力や権力に意識がいってしまって、心は置いてけぼりになりがちです。

で、私が今まで抱えてきた生きづらさや息苦しさって、結局心の中にあって、ぼんやりとしか実態がわかってないんですよね。感情とか、思考とか、すべて概念でしかなくて目に見えない。だからいつもモヤモヤしている気がします。

それなら、心を可視化してみたら悩みや問題の本質がわかりやすくなるかも?と安直に考えて、今回は「心の可視化」をしてみようと思います。

少し前、漫画家の田房永子さんの着想を元に「膜」についての仮説をまとめたんですが、あれにちょっと似てる部分はあります。ただ、混乱してくるので、今回はまっさらな新しい状態で考えてみることにしました。




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<心とはいったいぜんたいなんぞや>

まず人間の心って何かなーと考えてみると、まさにこの考えること=「思考」喜怒哀楽や好き嫌いなどの「感情」、空想や配慮などの「想像」があります。

他にも考えたら色々あるとは思いますが、増えたら増えたでややこしそうだしひとまずこの3つを「心」を構成する要素と考えてみます。

 「心」を構成する要素 = 思考、感情、想像

心を構成する、思考・感情・想像は、個人がそれぞれ自由にできるものです。

例えば何か事故が起きた場合、個人がその事故について何を考えてもいいし、悲しいとか許せないと思ったりしても何を感じてもいいし、どうしたら事故が防げたのだろうかと想像してもいいものです。

日本国憲法に「基本的人権の尊重」ってあるじゃないですか。あれの自由権の「精神の自由」というものが多分私の言わんとしたいことに当たります。法律について詳しくないので間違ってたらごめんなさい。

と、基本は何を考えても何を感じても何を想像するにも自由でいいんです。

個人の「心」=感情・思考・想像は基本的に自由

※ここで「基本的に」自由としている理由は、また後々説明しますね。


体は見えるけど心は見えません。一方は具現化され、もう一方は概念化されてその2つが合わさって「人間」として存在しています。見えるか見えないかという違いですが、2つを比較すると本質的には差がないと感じています。


同じ人間でも体力のある人とない人がいます。その違いは生まれつきではなく日々の適切なトレーニングで体を鍛えることで体力ゲージが増えるからです。私は心も体力と同じように、生まれつきではなく日々の適切なトレーニングで寛容力や余裕といった心の体力ゲージが増えると今は考えています。

心の適切なトレーニングは体力トレーニングと一緒で「適切かどうか」です。体力をつけたいからといって過剰なトレーニングや無理なトレーニングを重ねてしまうと、体力をつけるどころか逆に命の危険に晒されることになります。それと同じで、心の適切なトレーニングとは、徐々に高くなっていくとび箱のように跳び越えることが可能なとび箱に挑むことだと考えます。



よって、成育環境や社会などで与えられる理不尽な問題は「跳び越えられない高さのとび箱」で、跳び越えようとしてもぶつかる一方で鍛えるどころか体に傷をつける殺傷行為です。場合によっては、一生癒えない傷を残したり、最悪死に至らしめる危険性のある、理不尽で許しがたいものです。日本では、やれ我慢は美徳だ、根性だといって非合理的な抑圧をさせますが、逆効果です。

例えば、テストを受けて90点取れたとします。テストは100点満点ですが90点は9割も目標に到達しているということです。満点でなくてもこの結果は素晴らしいと私は思うのですが、この9割目標に達成したという事実から目をそらし「どうして100点が取れないのか」と責め立てる場合があります。これを体力を鍛えるとび箱と考えると、小学校のとび箱はだいたい6段が最高だったと記憶しているんですけど、段階も踏まず「とりあえず6段から跳べ、跳べなければ許さない」という、極めて理不尽なものだと思うんですよね。

さらに中には6段を跳べと命令しながら、実際に6段が跳べてもその事実すら認めようとしなかったり、褒めようとしない場合も存在します。人間には心があるからこそ意欲というものが備わっています。意欲は適切なトレーニングと適切な賞賛を重ねることで高い能力を発揮できるものです。ロボットのようにただ命令して当然のように動くものではないんです。ロボットを動かす動力が人間にとっての意欲で、意欲という動力を維持するには、存在の尊重や適切な賞賛が不可欠だと私は思っています。

存在の尊重も適切な賞賛も「甘やかす」ことではありません。存在そのものを肯定し、ありのままの状態を受容れ、ありのままの能力に対して適切な言葉をかけることで、今以上に高い能力を身に付けるための「トレーニング」です。「甘やかす」ことは、ありのままの状態を必要以上に高い能力とみなすことで「トレーニング」とはまったく異なるものです。

そう考えると、今までの私がモヤモヤしてたことがなんとなく説明できそうな気がするので、次の事項にうつります。



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<個人の心には他者の心との境界線が必要>

以前書いた記事に「同一視」をやめて「自他尊重」自分も相手も尊重することで生きづらさが軽減したと記載したのですが、カウンセリングや対話などでは「自分と他者の境界線をはっきりさせる」という話があるみたいですね。

人が抱える生きづらさの要因は様々だと思うのですが、私の抱えていたものに「人と関わって傷つけるのも傷つけられるのも嫌」という要因がありました。人に傷をつけると自分も傷つけるし、結局は自分が傷つけられたくないという「目的」が根本にあったと思います。

これ、同一視の悪影響でどこまでが自分でどこまでが他者かもわからない状況だったと思うんです。可視化されず、うすらぼんやり~としていた自分の心が「他者」という自分とは別の存在を認識することによってさらにぼんやりと広がって、自分がどうしたいのか、他者にどうしたらいいのか常にわからない、思考に濃霧注意報が発令されたような、モヤモヤ状態だったと感じています。

その状態に陥る背景は「同一視」や「完璧主義」によって本来身に付くはずの自尊心や自信や安心といった健全な心が育たず、自分と他者の境界が不安定でアイデンティティが確立できず、拡散してしまっているからだと考えました。

心の境界線とは、自分の思考・感情・想像を他者や環境に囚われることなく、自由に考え、自由に感じ、自由に想像するためのバリアのようなものです。

心の境界線=自分の心の思考・感情・想像を自由に保つバリア的存在


アイデンティティが確立された人ほど自分と他者の心の境界が安定しており、本来持ち合わせている思考力、感情力、想像力が安定して発揮できます。

逆にアイデンティティが拡散された状態だと自他の心の境界が不安定になり、本来持ち合わせている思考力、感情力、想像力まで不安定になり、外部からのストレスに弱く、著しいダメージをその都度受けてしまう…と考察します。

心の境界が不安定だと、思考力・感情力・想像力まで不安定になるケースは、どちらかといえば女性に多い「考える前に感情的になってしまう」ケースや、どちらかといえば男性に多い「感情を出さずに頭だけで考えてしまう」ケースがあてはまるように感じています。また、思考力と感情力のバランスが崩れると想像力まで崩れて相手を配慮できなくなったり、記憶に解離が発生したり、過去に囚われ未来のことを考えたくなくなったりする症状になると考えます。


同じストレスを与えても、人によって受け取り方は全く違うのは、自他境界が関係していると考えています。私が関わった人でも「人は人、自分は自分」と思う人ほど、ストレス因子をストレスだと認識せず快適に過ごせていました。(ストレス因子…ストレスになりうる要因のもと。何かの出来事のこと。)

例えば「同級生が結婚する」というストレス因子は「人は人、自分は自分」と思える人にとって全くストレスになりません。人と自分を比べない、同一視をしないので「同級生が結婚する。めでたいなあ」と思考が「めでたいこと」と判断し、感情が「めでたくて嬉しいなあ」と感じます。

しかし同一視をする人にとって、「同級生が結婚する」というストレス因子はストレスになってしまいます。人と自分を比べてしまう、同一視をしてしまい「同級生が結婚する。私はまだなのに、ムカつく」と思考が「ムカつくこと」と判断し、感情が「ムカついて腹立たしい」と感じてしまうのです。

ストレス因子とストレス判定、そしてストレスの対処法については、また今度別に記事を書きたいと思います(毎回これ言っててもはや口癖になってますがどこかで区切りをつけない限り私は「あれもこれも関係している!」と膨大な文章を一生終わることなく書き続けるタイプのようです。ご了承ください)


ここで出てくるのが前の章で触れた個人の心――「感情」「思考」「想像」は基本的に自由だ、という件です。基本的には自由、しかし例外があります

この例外が複雑かつ繊細な問題のため、本来人間が今より快適に生きるために話合える状況をややこしくし、無意味な口論や憎しみを生んでしまっていると思います。この例外が認知されれば、問題の本質から目をそらすことなく議論し有意義な結果をもたらし、人間がより快適に生きていける気がするのです。


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<心の境界線の例外とはいったいなんぞや>

さてさて、ではその複雑かつ繊細で、無意味な口論や憎しみを量産している「心の境界線の例外」というものは一体何なのか、これまでのまとめを再掲し反復しながら考えていきたいと思います。


個人の「心」=感情・思考・想像は基本的に自由
心の境界線=自分の心の感情・思考・想像を自由に保つバリア的存在


私はよく「尊重」という言葉を使いますが、私の指す「尊重」の真の意味は、心=感情・思考・想像を自由に解放することです。もちろん尊重は、心だけでなく体も尊重されるものです。精神の自由、身体の自由です。これは、全ての人間に保障された権利です。

「自己尊重」という言葉もよく使っていますが、自分を尊重するということは自分が感じる全ての感情、考える全ての思考、全ての想像は自由であり、身体を使ってどう表現しても許される、人間として生きる権利だということです。

他者や環境から「感じるな」「考えるな」「想像するな」と抑圧されることは本来保障されている精神の自由が侵害されている、ということだと思います。なので「つらい」と思ったら「つらい」と言っていいし、「私はこう考える」と考えたら自由に考えを発言していい。逆に言えば、感情や思考は他者や環境に抑圧されてはならないし、他者や環境は抑圧してはならないと考えます。


個人の心は自由です。しかし、自由なのは「自分自身だけの心」です。自分は自分に対して、何を考えても、何を感じても、何を想像してもいい。しかし、他者の心の自由を侵害する権利はありませんこれが、「心の境界線の例外」です

心の境界線の例外=他者の心の感情・思考・想像を侵害すること


説明したいものがすべて可視化できないため、説明が概念に次ぐ概念すぎて、そろそろまどか☆マギカで言うところのアルティメットまどかが出てきそうなくらい自分でも混乱してきます。マドカー!ホムラチャン!私はマミさん派。

わかりやすくなるか、逆にわかりにくくなるかは人によると思いますが、次に例を出してこの「心の境界線の例外」という概念を解きほぐしていきます。


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<心の境界線の例外とはいったいなんぞや ~事例編~>

以前の私の話なのですが、私は人から「文句が多い」と注意されることがありました。しかし、私自身は、文句を言ってるつもりではない時があったので、どうしてだろうと不思議に思っていたのですが、まさにそれがこの例外です。

私が言っていた文句は2種類あります。まずは、社会問題に対する文句。これはもう文句というより批判ですね。対象が「問題」という概念で、その問題を改善していくにはどうしたらいいかという批判はよくしていたし、今も実際にしています。

そして、もう1つは他者に対する文句です。この対象は「人」や「立場」など特定の存在を指し、この文句はさらに「侵害」と「批判」の2つに別れます。


この「侵害」と「批判」の違いが繊細すぎて、さらに発信側と受信側、各々の認知のゆがみなども影響してしまうため、何か問題が発生した際、問題の本質に向き合うどころか無意味な争いやいがみ合いを発生させてしまい、傷ついたり傷つけ合ったりして負の連鎖が繰り返され、その結果として「生きづらさ」を大勢の人が感じていたのではないか、と考えます。

もう概念すぎてわけわからないですよね。今、デスノートのLみたいなポーズでこの文章を打ってるのですが、わけわかんなすぎる副作用でLみたいなクマが瞬時に生成されそうなくらい頭ぐるぐるしてます。まだ続きます(失神)あ、失神って文字は矢神月にちょっと似てますね。新世界の失神!…と思ったけどあれは矢神じゃなくて夜神でした。おしい!(なにいってんだこいつ)



私は問題を考えていると別の可能性も併せて考えようとして、結果的に巨大な全体図のように問題を捉えようとしてしまう悪癖があって毎回困っています。

確認すると、今言わんとしようとしている本題は「心の境界線の例外」他者の精神の自由の侵害についてですね。ういっす!確認用に再掲します。


心の境界線の例外=他者の心の感情・思考・想像を侵害すること


人間の心は目に見えません。それゆえ自分の心も他者の心も境界線が見えず、さらに世間で「同一視」――自分と他者を同じようにみなす概念の悪影響から「自分はどこまでしてOKか」「他者にはどこまでしてOKか」という許容範囲がわからなくなってしまい、人間関係で傷ついてしまうと仮定しています。

さらにこれから述べるものを、先にまとめます。

侵害=他者の精神・身体の自由の権利を否定・攻撃すること
批判=問題に対して正当性を検討しながら判定・評価すること

例えば、私が過去に泣いていると、私の母は「泣くな」と言いました。これは「悲しいから泣く」という個人の感情の自由を侵害する行為にあたります。 これを「悲しいから泣いたのに泣くなと言われた、理不尽だ」と訴えたとして「親を理不尽と言うなんておかしい」と誰かに言われた場合、この人は個人の思考の自由を侵害しています。人は何を感じても、何を考えても良いはずなのですから、これは侵害にあたるのです。そして、納得のいかない私がこれを「親を理不尽と言うことが許されない環境はおかしい、問題だ」ということは「個人の自由を侵害されたことに対する批判」になるので、問題ないのです。

3ステップの考え方をすると、①個人の感情・思考・想像は自由で、②その自由を他者に否定されることは精神の自由の侵害に該当するため、③侵害されたことに対して批判したり、怒ることは正当なものだ ということです。

そろそろ「おまえどんだけ屁理屈やねん」と言われそうですネ!


ここで誤解が生じやすいのが「それならおまえさんだって母親が子供に泣くなと思う感情の自由を侵害してるだろ」という疑問です。これこそ屁理屈かな?泣く子供に対して、「泣くな」「泣かないで欲しい」と思うことは自由です。本来の理屈から言うとこれも侵害かもしれませんが「思う」ことはセーフだと私は判断します。何故なら「思う」ことは目に見えない、誰からも干渉されることのない領域だからです。しかし、ここでは母親が子供に「泣く」という「行為」の自由を言語化し否定しているので、侵害にあたるというわけです。

あと、微妙なニュアンスの違いですが「泣くな」は命令、「泣かないで」なら相手へ配慮を求める言葉になり前者よりはいいのかなあという感じはします。そもそも「泣かないで」欲しい明確な理由があれば、ある程度成長して理解力が伴えば子供でも納得できるような気もします。「電車は他にも人がいるからなるべく静かにしていよう」「お姉さんがビックリしてるから我慢しよう」と合理的な理由があれば、思考と感情がきちんと機能していれば受け入れられるような気もしています。あくまでも理屈っぽい私が考える場合ですけど。


えーと、つまり。

侵害は、実際に行動したり言葉を発したり表現するとアウトかもしれません。アウトと言っても倫理的な観点のアウトなので、犯罪とかではないですけど。

「上司がむかつくから喋れないよう口の中にナイススティック詰めてやる」と思うとします。これは個人の心という不可侵領域上での思考なので、セーフになります。ナイススティックをランチパックに変えようが、スイートブールに変えようが、結局は思考という目に見えない領域なので、セーフになります。

これを実際に行動したら、暴力行為の一種とみなされアウトですよね。

では次に、言葉として発したり、Twitterなどでつぶやいてしまうとアウトになるかどうかということなのですが、これは上司が「なぜ」むかつくかによると思います。むかつく理由が「私が獲得した仕事を自分の手柄にした」なら、自分の権利を侵害されたという、理不尽な行為に対する批判なので問題ないと思います。逆に、むかつく理由が「私が良かれと思ってコーヒーを差し入れたのに飲まなかったから」とかだと、上司が実際にコーヒーを飲みたかったのかどうかという上司側の自由の権利問題になってくるので、アウトでしょうか。

相手が希望したわけではない、自分が自発的に良かれと思った行為に対して、感謝を要求するのは何か違うと思うんですよね。感謝や配慮は自らするもので相手側に感謝や配慮を要求するものではないと考えているからです。


そうそう、私がこういった問題を「考える」ことも、本来自由であるべきことなのですが、人から「考えすぎは良くないよ」と言われることがあります。「考えるな」と自由を侵害するわけではなく「考えすぎて生活が不規則になると体に悪いし生活リズムが崩れると人間らしい生活から逸脱して良くないよ」と規範からの配慮になるので、相手の配慮も尊重したいけど自分の意思も尊重したいし…という「どっちの尊重ショー」状態になってしまったりします。(元ネタ番組知らない世代が読んでいる可能性が微レ存…?)

でも私としては、この「どっちの尊重ショー」状態が人間関係における理想のように感じています。どちらかが耐えるのではなく、どちらもお互いをたてて譲り合い、歩み寄れる。どちらも気分よく嬉しくなれるって素敵なことです。

ただ、一方的な侵害をした加害者と一方的な侵害をされた被害者は、双方心の底に「認知のゆがみ」や「蓄積された怒りや悲しみ」を抱えていたりします。認知のゆがみを矯正したり、蓄積された怒りや悲しみを解放できない状態では他者どころか自分自身の尊重が難しくなっているため、このあたりはフラットな、認知のゆがみのない考え方ができる環境を整えて、双方(特に被害者側)をケアしていく必要があると感じています。


難しいのは、本人の意に反した過剰な心配や配慮も、侵害になり得るケースがあるということです。このあたりになると、本人の気持ちが過去に向いてるか未来に向いてるかを慎重に判断しないと火に油を注ぎかねないので、一概には言えない複雑さがあります。

とにもかくにも、ある問題提起について改善したい時に重要になることは、「一方的な侵害をする他者を徹底的に叩くこと」ではなくて「価値観の違う者同士がお互いに自由の尊重し合いをできるようにするにはどんなアプローチをしなければいけないのか」ということなんじゃないかなと私は思います。

心という自覚しにくい部分の問題だけに、追及すればするほどキリがない気がするので、ひとまず今回、「心の可視化」というタイトルに関しては目的達成したと考えて、ここで区切りをつけたいと思います。





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