メディアの変化や影響について思うこと

日曜日に早起きした時は仮面ライダーやプリキュアを見たりするんですけど、子供向けなのに内容は大人にバシバシ突き刺さる内容なので面白いです。

今朝のプリキュアは突き刺さりました。オレスキーという敵がいるんですが、この敵が「一番じゃないと価値がない」と世界を破壊しようとするんですよ。一番じゃないと価値がない、これも「完璧主義」の「盾」なんですよね。でもプリキュアの力で最後には「別に一番じゃなくてもいいかな~」とほんわか顔になってて、思わず「そうだよ一番じゃなくてもあなたには価値があるよ…」とか思いながら見てしまいました。私も大きいお友達の仲間入りです。

ずっと見てるわけじゃないのでキャラクターの性格がよくわからないと思ってwikiを見たら、このオレスキーという敵は自信家でナルシストで自分の地位を脅かす存在を容赦なく排除しようとするキャラクターらしいのですが、これ、モラハラ社会を生み出す自己愛性パーソナリティ障害そのものなんですよね。オレスキー=俺好き=自分が大好きすぎて自分を省みれない状態に陥ってるという…。表向きは幼児向けアニメですが、社会風刺がすごい。面白いです。



私は長らく「思考停止」してたのでメディアが発信する内容を大して気にしていなかったんですけど、思考停止を解除してから色々なことに気付けるようになってきたと思います。

思考停止を解除して目が覚めて感じ方が変わったからなのか、それとも目が覚めるタイミングが偶然にもメディア側と合致したのかはわからないのですが、最近メディアが取り上げる内容も以前とは違ってきているように思います。

私が感じたのは、これまで「何を問題提起してもどうせ変わらない」と絶望し諦めていた状態だったものを、「とりあえず問題提起して考えよう」と考えることは無駄じゃないという風潮が出来上がりつつあることです。メディア側も思考停止を解除した方が、情報番組やドラマを通じて問題提起をし始めているように思います。もっと前からその状態だったのなら、私が思考停止を解除したから見方が変化したのでしょうね。

そんなこんなで、今日はテレビなどのメディアの変化と影響について語ろうと思います。


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理不尽を容認しない環境をつくる>

先日、朝の情報番組で「セクハラ」について取り上げられ、内容はもちろん、出演者のイノッチ(V6の井ノ原快彦氏)の発言にネットは賞賛の嵐でした。私もイノッチの人格者っぷりに感動を覚えました。エクセレント!

「イノッチは希望の光」「こんな考え方をする人が存在することが嬉しい」というコメントもあったりして、うんうんその通りだなーと思いつつ、一方で(大げさかもしれないけど)世界が変わりつつある…!と最近感じています。

セクハラに限らず、理不尽なことには怒る。当たり前のことなのに、日本では長らくこの「理不尽なことに対して怒る」ことが禁忌とされ、理不尽な行為が容認されて来ました。その結果、理不尽な行為を正当化する人が量産されて、モラハラ・パワハラ・セクハラを正当化する発言が今も後を絶ちません。


私も長らく「理不尽なことに対して怒ってはいけない、どんな理不尽なことも容認し、笑って流すべき」と思考停止状態という悪しき洗脳にかかっており、理不尽な行為を容認していました。でもそれじゃ負の連鎖が加速するばかりで何も変わらないと長い悪夢から目が覚めて、今現在は「ゆがみちゃん」としてできることから始めているのですが、自分の考えを発信することは無意味ではないと実感しています。文章を書く、漫画を描く、一見消極的な活動かもしれませんが、この小さな一歩が全体の大きな一歩に繋がると思っています。


そういう意味では、これまでは社会全体が「思考停止」して環境もメディアも現状の理不尽を容認していたように思います。というかむしろ、「理不尽」を「理不尽」だと気付いてなかったのかもしれません。

例えばセクハラという理不尽が容認されている背景は、思考停止を解除した方が既にブログやTwitterなどで各々問題提起されていたりしますが、日本社会=男社会・縦社会で「女より男が正しい」「若者より年配者が正しい」という全く論理性が伴わない固定観念が黙認されていたからだと思うんですよね。

人間は性別関係なく、知能と理性を備え欲望を抑えられる「賢い動物」なのに「男は性欲が抑えられない生物」と間違った固定観念が拡散され、公共の場は男性の性欲解放を促進し容認するような媒体がごく自然に配置されています。電車内には過激なアオリの中吊り広告、コンビニには刺激的な写真表紙の雑誌がごくごく自然に当たり前のように置かれています。でも少し考えてみると、子供も利用できる場所にああいうものを配置するのはおかしいことなんです。


「当たり前だから」「これが常識だから」と思っていても、きちんと考えたらおかしいことがたくさん存在するんですよね。でも、「思考停止」しているとそのおかしさに全く気付かない。

大勢の人が陥っている思考停止状態を一斉に解除できるのは、今まで理不尽を容認し思考停止状態を促進してきたメディアだと思います。私のような個人ができるのは、主に理不尽の被害にあってきた側の思考停止を解除することで、理不尽を容認され理不尽を押し通してきた加害側の思考停止を解除するには、メディアの変化が必要不可欠だと感じています。



私がその変化を感じたのが、最近始まった2つのドラマでした。

日曜夜に放映される「ごめんね青春!」と朝の連続ドラマ「マッサン」です。


両方まだ始まったばかりの作品ですが、現代の問題に沿った丁寧な描写があり好感が持てます。脚本家の方の嗅覚が鋭さで現代における思想の変化を色濃く反映していると感じます。これらの作品を通じて、私のように洗脳されていた人たちが悪夢から目が覚める一つのきっかけにもなるような気がしています。

これまで社会全体で「理不尽を容認」して「苦労=美徳」と洗脳されたせいでドラマなどのフィクションもかなり影響されていたと思うんです。理不尽にも耐えて苦労すれば、いつかその苦労が報われるという内容はこれまでたくさんありましたが、もうそういうのが通用する時代じゃないんですよね。理不尽に耐えても報われるどころか搾取され、心身共にズタボロになるだけです。

一般人側からでもメディア側からでも「理不尽を断固として容認しない姿勢」を貫いていけば、そのうちこの思想が普遍的なものとなり、抑圧された縦社会から対等な横社会へとゆるやかに変化していくだろうと私は思っています。

そんな現在の状況を反映させた2作品について語りたいと思います。



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ごめんね青春!について>

「木更津キャッツアイ」「あまちゃん」などユーモア溢れる作品を生み出した宮藤官九郎ことクドカンの新作、かなり期待しながら視聴しました。が。

開始数分、道行く女子高生の容姿をなめるような目でチェックする男子高生。「おっぱい」と興奮しながら肉つきのよい下級生(男子)の胸を揉みしだく。かと思えば後ろで粗野で乱暴な声を出す「一人クローズ」状態の男子生徒…。

うわやばいこれセクハラや!理不尽なやつや!とふるふるしながら見ていたらどうも様子が違うんですよね。女性側が全く負けていない。ていうかこわい。「盗撮した」と事実を無視した言いがかり、暴力、ヒステリー、まくし立てるような暴言、投げる落雁、事故寸止め状態の暴走バス…。

と思いきや、主人公の兄嫁(義姉)は元グラビアアイドルで家でセクシーな体を主張する都合の良い展開で、住職の父親がセクハラ視線でジロジロ見たり。

主人公(男)が教師をする男子校ではマドンナと呼ばれセクハラされた女性の養護教諭が加齢に伴い「ドンマイ先生」と別種類のセクハラをされていたり、対立する女子高(カトリック系)では男子生徒と交際する生徒を、「尻軽女!恥を知りなさい」と罵倒する…おいおい、この展開!これどうなっちゃうの~と思いながら見ていました。

粗野で野蛮で偏差値の低い動物的な男子校VS厳粛で知的なカトリック女子高という対立図だったはずが、一話の最後では女子高の化けの皮がはがれます。双方の学校の経営難から合併の話になり、期間限定のお試しで学年の一クラスだけ男女共学になるのですが、顔合わせのシーンが衝撃でした。

主人公(男性教師)「自己紹介しっかり頼むぞ。この中に未来の伴侶となる人がいないとも限らないんだから。少子化だ何だって言われてるけど男子も女子もお互いの立場を理解して向き合うことが…」

生徒(女子)「先生。これ授業ですか?」この発言を皮切りに、女生徒は次々と声を挙げます。「何ジロジロ見てんだよ」と叫んで物を投げる女生徒たち。主人公の教師は「女の子がこんなことしちゃ…」としどろもどろ。

「女の子だからいけないんですか?男子だったら物投げていいんですか?生ぬるい精神論聞かされて色目使われてそれでも女子は我慢しろってことですか?我慢してこの中から将来の伴侶を見つけて子供を産めってことですか!?」 「セクハラ!セクハラ発言!」机を叩いてブーイングする女生徒たち。終了。

うわあ!なにこれ痛快!フィクションだからこそできるこの痛快さ!すごい!……というのが一話を見た私の率直な感想です。面白かったし、今後の展開が気になるし、何よりクドカンも日常で感じている「変化するジェンダー問題」がドラマの主題とされているのが良いなあ、と思いました。今までにないし、斬新な切り口だな、と。今夜放送される第二回目はもちろん、どう終着させるのかが楽しみです。



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マッサンについて>

次は「マッサン」についてです。簡単なあらすじとしては、スコットランドへウイスキーの製造過程を学びに行った日本男性が現地の女性と恋に落ち、結婚して日本へ帰り、日本で初めてのウイスキーを作るために試行錯誤するというドラマなのですが、①親子間の理不尽男女間の理不尽容姿間の理不尽 という3つの問題提起がさりげなく散りばめられていると感じました。自然。

まず①親子間の理不尽についてですが、主人公の亀山政春こと"マッサン"は、広島にある酒屋の次男です。マッサンはウイスキーを造るため外国へ留学し、そこで出会ったスコットランド人"エリー"と結婚し地元へ帰郷します。すると母親から「亀山家の跡取りの嫁は外国人には務まらない」と結婚を反対され、ウイスキーが造りたいと言う意志も無視され家を継いで欲しいの一点張り。「長男である兄は好きにさせて、次男である自分が家を継ぐのは筋が違う」という申し出にも、「筋は違わない」「勝手は許さない」「この家はどうなる」母親は完全に自分(家)の都合ばかりを押し付けて来ます。時代がそうだったにしても、現代から見ればひどく理不尽です。

エリーという「外国人」である嫁が許せない母親は様々な嫌がらせをします。その嫌がらせに対し、夫であるマッサンは母親に対してきちんと反抗します。理不尽を容認せず、理不尽なことに反抗するのです。これ、すごいことです。日本で多発する嫁姑問題がこじれる原因が「夫が仲裁するどころか無視する」ことだと思っているんですけど、マッサンは2人の間を仲裁しているんです。今までフィクションの主流だった「夫は嫁姑問題を見て見ぬふりをする」から変化を遂げている。フィクションといえど、素晴らしい変化だと思いました。

印象に残ったのが、母親がマッサンに「正妻は認めないけどお妾さんなら」と畜生すぎる暴言を吐くと「いくら親でも言っていいことと悪いことがある!」と母親の理不尽さを咎めるマッサン。立派!しかし「出ていくなら勘当だ!」とさらに理不尽を押し付けてくる母親。「勘当で結構だ!」とシャウトしつつ退場するシーン。毒親あるあるだ~と思いながら見ていたんですけど、実況を見ると「親の気持ちもわかる」という感想には正直、エーッ?と思いました。どんな背景があるにしろ、理不尽を一方的に押し付けようとする人の気持ちは私には全然わからないです。


次の②男女間の理不尽は、主人公と結婚する予定だった女性・優子さんの発言が秀逸でした。「日本はええ国と言えばええ国やね。特に男の人にとっては。ええ嫁いうんは、男にとって都合のええ女のこと。お台所、炊事、家のこと、ちゃーんとできていつも男を立てて…それが日本の男が求めるええ嫁やねん」マッサンから「夫婦は対等」と教えられたエリーは「ご主人・奥さんはパートナーです。どっちがエライはナイ、いっつもフィフティー・フィフティー」と言います。しかしそう言ったはずのマッサンも、仕事の忙しさにかまけてついエリーを対等に扱うことを忘れて理不尽なことをしてしまった……というのが昨日の回で、今日の回でマッサンがエリーに謝罪して仲直りしたようです。

当時どうだったかより、現在も「日本の男が求めるええ嫁さん」像が大差ないこと、夫婦や男女間にまだまだ大きな差があり対等ではないことを考えると、今後解決しなければいけない問題が見えてくるように思います。


最後に③容姿間の理不尽。エリーは外国人ですが、日本語も話せます。しかし街中で道に迷って困っているエリーを、日本人はとても冷たくあしらいます。日本語で道を聞こうとしても「あかんあかん」「忙しい忙しい」と一蹴されてしまいます。迷っているうちに雨が降り始め、店先で雨宿りをしていると、「あんなところで迷惑やなーお客さん怖がって入ってくれまへんわ」なにこれつらい。話も聞いてくれない挙句に、邪見にされるなんて理不尽過ぎます。

こういう状況ってありますよね。この場合は人種ですが、容姿で理不尽に判断される問題。人間には美意識があるので、美しい容姿を好むのはわかります。だからといって美醜だけで人を判断するのはすごくもったいないと思います。清潔にして、その人に似合う服や髪型をしていればそれだけで100点ですよ。鼻が高い、目が大きいという美しさに固執するなら、その場合は上乗せして200点にすればいいと思うんですよ。鼻が低い、目が小さいからといって減点する必要はないと私は思います。みんな鼻が高くて目が大きかったらこわい。

最近知ったんですけど、こういう容姿至上主義のことを「ルッキズム」というそうですね。日本はルッキズムの人多そうだなーと思います。やたら人の目を気にしたりしますよね。「私があんな恰好をしたら笑われる」とか。変わった恰好をしたくないというのは、ある種の同一視なのかなとも思っていますが、海外の人が気温や体系を全く気にせず着たい服をバーンと着てるのを見ると、文化の違いをありありと感じますね。どっちが良いとかはともかくとして。


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好き勝手な感想を言いましたが、この2作品に共通することが両方とも男性が脚本を書かれてるんですよね。男性側からこういう発信があると、個人的にはすごく嬉しく思います。冒頭で取り上げたイノッチの件もそうですけど、私は性別で分類するのではなく、人を対等に尊重していきたいと感じているので、男社会が根強く残る日本で男性側からこういった歩み寄りがあると嬉しいし、性別や年齢に固執しない、今より生きやすい世の中に近づいてると感じます。

というかこれまでは、メディアの作品が理不尽を容認してたから、実社会でもそういう風潮になってたんじゃないの?ってやっぱり思うんですよね。だからメディア側から理不尽を排除する動きは本当に嬉しいです。ドラマもですが、セクハラとか、しんどい親の件も。どんどん取り上げて欲しいです。


ついでに、話題になったセクハラについてでも言っておこうと思います。うん今回もいつも通り、長くなりますね。


セクハラについて

「セクハラ」という言葉は、実際にこの言葉が指す問題に比べてとても軽く一部の年配男性からは問題にすらされておらず、逆に「何が悪いの?」という態度の方が多く存在することに世代間・性別間のギャップを大きく感じます。

この問題の原因ともいえる根底にあるものは「抑圧された縦社会の悪影響」としか言いようがなく、時代変化に伴う思考力・想像力のアップデートを一部の年配男性が拒み続けているのも一因だと思っていますが、これは後述します。

とにもかくにも、一部の年配男性が自身を省みず改めようとも思わないことで女性はもちろん、多くの男性ですら犠牲になっているという現状があります。セクハラ=女性だけの問題などでは決して無く、これは老若男女関わらず人間ならば全員が当事者であると感じています。

セクハラ被害を受ける若い男性もたくさんいますよね。「早く結婚しろ」とか「早く子供を作れ」とかは、男女関係なく、若者全員が受けるセクハラです。余計なお世話ですし、そういうことを言う人はデリカシーがないので、家庭や仕事がうまくいってなかったりします。結局八つ当たり行為なんですよね。

(ちなみに、私が問題視するのはあくまでもセクハラ「行為」で、セクハラをする「人間」ではありません。「行為」と「人間」を別に考えています。)

人生経験を積んだ年配者だからこそ良識と品性の備わった魅力ある大人として振る舞えるはずが、まさかの逆行。若年層の手本になれる存在が、悪い手本になってしまっている現状が嘆かわしいです。これを見て「生意気だな」と一蹴するのではなく、「上等だな!大人の上品さを身に付けてやろうじゃないか」と思って頂けたら嬉しいです。私は喧嘩を売りたいわけではありませんので、品格ある大人の方が、真意も一緒に汲み取って読んで頂ければ幸いです。



今回賞賛されたイノッチの発言は、どんな「イジリ」も卒なくかわすスキルを持つ有働由美子アナウンサーに対する配慮が番組全体で欠けているという指摘でしたが、録画を見返してみると冒頭からかなり良いこと言ってました。

セクハラというよりデリカシーとか、モラルとか、品が無いとか…その人の問題ですよね」と冒頭でセクハラについて一蹴。まさに。まさにこれです!

セクハラは「エロオヤジ」とか「下ネタ大好き」とかそういうことではなく、人に対する配慮を忘れた、デリカシーもモラルもない品性に欠けた行為です。人を人として扱わない、尊重できない。大人として、一人の人間として、恥ずかしい行為だということです。

番組中に年配の男性から「娯楽のない時代に生まれたのだからセクハラくらい許して欲しい」みたいなFAXが来てましたが、もうね、何を言ってるのかと。一人の人間として恥ずかしい行為をしていることと娯楽のない時代に生まれたことは全く関係がないし、そもそも娯楽が少なかったのは過去の話であって、今現在は溢れるほどの娯楽があります。自身の現在の恥ずかしい行為を正当化するために過去と比較し許しを乞うなんて、本当にわけがわかりません。

セクハラという軽い言葉で隠しているだけで、実際にしていることは人権侵害だという認識が本当にないんだなーと悲しくなってきます。

でも嘆いたところで理解は広まらないし、問題視している一部の高齢男性はともかくとして、「わかってくれる人」「理解のある人」をじわじわと増やしていくことが、今自分にできることなのかな、と思います。加害側の思考停止を解除するのは現状は難しいので、メディアの方に頑張って欲しいと思います。



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わかってくれる人、理解のある人、「歩み寄れる人」はコミュニケーションがとれる人だと私は思っています。相互理解、自他尊重をして、もっとより良い環境に変えていきたいと常々思います。


その一方で、思うことが一つ。

他者と上手に交流する能力のことを「コミュニケーション能力」「コミュ力」と言ったりしますが、この「コミュニケーション」に合致する日本語が無く、人それぞれ違った解釈で捉えてしまっているのが残念だとも感じています。

過剰な縦社会を続けた日本における「コミュニケーション能力」が、一部では「誰とでもうまく付き合える社交性」を指したり、「相手を言い負かしたり、自分の考えを強引に押し付けること」を指したり、「人を巧みに操作する力」という解釈になっていたりします。人を巧みに操作するってある種の人権侵害なんですけど、どうも現状の日本が指す「コミュニケーション」には「対等」の概念が存在しないように思います。勝つか負けるか、侵害するかされるかで本来の「コミュニケーション」が指す「相手の伝えたい内容を正確に汲み取り自分の伝えたい内容も正確に伝え、お互いを尊重しながら差異をすり合わせて理解や問題解決に繋げていくこと」の意義から逸脱していると思うのです。


人を巧みに操作する力=人を侵害することだと私は思ってるんですが、これが少し前までの「普通」だったと思います。抑圧された縦社会の影響というか。冒頭で述べた「時代変化に伴う思考力・想像力のアップデート」をするということは、今現在の時代に合った発想をできるようになるということです。

時代が変わっていくなら、考え方も変えていかないと、どんどん取り残されてしまうんですよね。こればかりは嘆いても、怒っても、どうにもならないので受容れないといけないと私は思います。「昔は良かった」と言ったって、結局タイムマシンでも開発されない限りは、どうにもならないと思うので…。


今の世代・性別間の理解度合の格差を生み出した要因は「抑圧された縦社会」で、年功序列や男尊女卑という思想が染みついてしまったことだと思います。年下より年上、子供より親、生徒より教師、部下より上司、女より男、という「社会的立場のある年配男性が絶対正義」という全く筋の通らない社会通念が現代に広く行き届きすぎてしまった結果なのかもしれません。

私は「絶対正義」なんて存在しないと思いますし、そもそも、年齢を重ねれば重ねるほど人格者になるという都合の良い成長機能は人間に備わってません。努力をしない限り人格者にはなれないですし、「上の立場だから絶対正しい」とは限りません。これが成り立っていたのは上の立場の人が横柄に下の立場の人を見下して、ひたすら言論統制をしてきたからだと私は考えています。


セクハラを取り上げる少し前「感情暴走するシニア」の特集がありましたが、あれが抑圧された縦社会で理不尽を容認された加害側の行き着く先です。

社会的立場があっても、いずれその立場から退く日がきます。その立場に依存して「自分はあんなすごいことをした、自分はこんなえらい人だった!だからどんなことも受容れろ!」という理不尽が通用しなくなってしまうんです。

これは社会的立場を盾にずっと理不尽を押し通してきた、つまり、人間として誰からも尊重されなかったし自分も尊重しなかったという積み重ねなんです。もっと言えば、「一人の大人として扱われなかった」ということなんですよ。自分の意見を人に押し付け、押し付けられなければ駄々をこねる、怒るって、子供のすることじゃないですか。大人なのに、子供扱いされていたんです。

自分の意見が今は通ったとしても、いずれ通らなくなります。通らないことで怒って苦しい思いをするのは結局自分なんですよね。何でも人のせいにして、人に自分の負の感情をぶつけることは、ある種の自虐行為だと最近思うようになりました。


加害側も苦しくて、被害側も苦しい思いをするなら、もうどちらも苦しくない社会にしていきたいと思います。理不尽を押し通したり、誰かを侵害したり、負の連鎖を繰り返しても何の意味もありません。

そのために私は、今自分ができることをします。集団を大きく変化させられるメディアは、ぜひとも本来の底力を発揮して、少しずつの変化を大きな変化に繋げて、社会をより良いものに変えていって欲しいと願っています。






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