毒親問題を過剰否定するに至る原因は「同一視」?

先日、フォロワーさんから、「母娘関係の歪みや機能不全家庭がクローズアップされても世間の理解はなかなか得られないどころか、渦中の子供達が非難・糾弾されるのは何故なのか」という投げかけを頂いた。

これについて、私もずっと考えていた。世間は、子供が暴力やネグレクトで虐待死してしまったニュースには「子供がかわいそう」「この親は人でなし」と正当な反応ができるのに対し、人格否定や過干渉など心理的虐待になると「親だってかわいそう」「子供は親をわかってあげて」と、理解が得られないどころかまるで「親から心理的虐待を受けたことを我慢できない子供が悪」と言わんばかりに、世間(特に親世代)は過剰に否定してくるのだ。


機能不全家族・毒親問題に対する世間一般によく見られる反応は主に2つ。「理解できない」「過剰否定反応」か、だいたいこのどちらかだ。今回頂いたリプライの投げかけは、後者の「過剰否定反応」が対象となる。

まず、前者の「理解できない」理由。はじめに私は「客観的な視点の欠如(主観的に物事を判断してしまう)」と挙げたが、その後別のフォロワーさんから「戦争は悲惨だと繰り返し教育されているから経験してなくても想像力が働かせられるが、毒親については教育されるどころか"家族は素晴らしい"とメディアも学校も主張するから、悲惨な家族が信じられなくなる」と、とても的を射た意見を頂いた。なるほど、毒親に対する客観的視点が欠けるのは、社会で「家族は素晴らしい」「親は絶対」と毒親の存在を無いように扱うのがそもそもの問題なのか、ということで自分の中で決着した。   (なので社会で問題視されていくよう、今できる活動を頑張ろうと思った)

そして後者の「過剰否定反応」。これは、毒親という存在を正当化してしまうタイプだ。中には前者の「理解できない」層が、そんな現実は無い!と思い込み、過剰に反応してしまう場合もあるが、こちらのタイプの主な主張は「親だってかわいそう」「子供は親をわかってあげて」と、苦しめられた子供をさらに苦しめる、ある種の被害者叩き的発想だ。やっかいなのが、前者の「理解できない」層と違い過剰否定反応層は毒親を「理解できている」。というよりも、「子供なら、どんな親であっても育ててくれたことに感謝し、親を敬うべき」的な、典型的な毒親の発想になってしまっているのだ。


どうしてそんな発想をしてしまうのか。さらに、どうしてそんな発想に至ってしまったのか。それを今回推測してみた。


私は冒頭のリプライに対して、「毒親というより「微毒親」だと、猛毒ではない分本人もその毒を毒だと思わず受入れやすく、ある種の同族嫌悪状態になるのでは」と返信をしたが、何だかわかりにくい例えだったので、これを長文に置き換えてみようと思う。

(ちなみに、「微毒」は「毒」よりマシとは一切思っていません。むしろ、「微毒」の方がゆっくりじっくり浸透するのに、本人や世間はそれは毒だと気付けなかったりして、わかりやすい「毒」よりもさらに周囲の理解が得られないつらさが「微毒」にはあると思っています。このあたりはまた、追々書いていきたいと思っています)



「過剰否定反応」で思い出したのは、社会人になって家を出てからのこと。機能不全家族に育った私は、祖母と両親の人格否定と罵倒、過干渉に耐え切れず成人してすぐに家を出た。しかし、そんな私が許せず頻繁に連絡をしてきて、無茶苦茶なことを言って罵倒してくるので、ノイローゼになりかけて悩みを友人に打ち明けたことがあった。

例として、2人の反応を書き記す。幼なじみのA子、社会人になって知り合ったB美。それぞれ私が懇意にし、信頼していた人物だ。

まず、幼なじみのA子。打ち明けると彼女は、「小学校から一緒だし、なんとなくわかってたよ。大変だったよね。でも、私もそういうのあるよ。人格否定とまではいかないけど…」と逆に打ち明けられて私は驚いた。私からは、とても仲の良い家族だと思っていたからだ。

A子は「お母さんには"産まなければ良かった"と言われたことがある」と続けた。中学生の時に一度、酒に酔って言われたそうだが、A子は未だに覚えていて許せないと言っていた。しかし、彼女は「お母さんも大変だったから、仕方ないのかもしれない。言われたことは許せないけど、私はひとりっ子だし、親の面倒も見ないといけないから。だから、ゆがみもいつか親を許せる日が来るといいね。親子は親子だから」と続けた。私は、すごくモヤモヤした。相談したつもりが、何故か一般論に諭される形になったからだ。

次に、B美。A子に相談を持ちかけたつもりが諭される形で理解が得られなかった私は、もうこの話は自分から誰かに話すまい、と思っていた。たまたま仕事でB美と遅くまで残っていて、なんとなく世間話をしていたら家族関係の話になってしまって、私は軽く「うちは親がとにかく私を否定しかしないから、もう実家には帰りたくないし関わりたくない」とだけ打ち明けた。するとB美は、「えっ。そうだったの?ごめん、そんな状況だったなんて知らなくてこんな話しちゃって…。そっか、親がそういう人だと辛いよね。大変だったよね。そんな親はさ、関わらなくなって当然だよ」と、温かく私を理解してくれた。人生初めての理解者との遭遇に、私は感動してしまった。


A子とB美、どうしてこんなに反応の差が出たのか?と今の私は思う。当時は、「B美は理解力がある」と本人の性格だと思っていたが、今考えると、本人の性格や資質だけではない、家族間で何か受け継がれた、もっと大きなものが、そこにあるように感じた。



2人の育った環境を比較してみると、答えが見えてきた。

A子はひとりっ子で、母親と父親との3人家族だった。母親と基本仲はいいが、母親が不機嫌な時は理不尽なことを言われることもあったという。父親は不在がちだった。

対して、B美は両親と兄の4人家族で、家族関係は常に良好。両親も兄妹も程よい距離感があり、愛されつつも、わりと放任されて育ったという。


私はA子の家を、「ちょっと不満もあるけどそこそこ仲は良い家族」とこれまで思っていたが、今考えるとそうではない。我が家のような「明らかな毒親」とまではいかないかもしれないが、「しんどい親(=微毒親)」だったと気付く。

A子は親がしんどかった。好きだけど、一方で「重い」と感じていた。しかし、それは親子だから仕方ない。親子だから、ひとりっ子だから、親は大事にしないといけないから、と「一般論とされている世間の言葉」に縛られ、「親がしんどい、重い」と思う自分を無意識に抑圧してしまっていたのだ。

だから、目の前で「親が嫌い、関わりたくない」とぶちまけた私に、A子は自分が縛られている「一般論」を押し付けてしまった。A子は、本当は「親がしんどい、重い」と思ってるけど、それを思うことは「世間から許されない」と無意識に感じて本心を抑圧しているから、その「一般論」を私に諭す形で、自分自身の無意識も一緒に納得させようとしていたんだと思う。


一方のB美は、「親を大事にしろ」という一般論はもちろん知っていたが、それを私に押し付けなかった。それは何故なのか。それは難しいようで、実は簡単なことだった。

B美は、「自分は自分、世間は世間、親は親、子供は子供」と、自分と他者の線引きが明確に出来ている。つまり、自分と人は別、親と子供も別、と、人間関係を「同一視」していないのだ。


逆にA子は、それが出来ていなかった。もちろん過去の私もだ。自分は世間、世間は自分、と線引きが出来ずにごちゃごちゃになっていた。自分と世間を同一視している。「自分は自分、人は人」と思うことができていない。

自分の意見(「親がしんどい」と思うこと)が本当はあるのに、世間の意見(「親は大切にしないといけない」という一般論)と線引きが出来ず、長いものにまかれろと言った感じで、世間の意見に取り込まれてしまっていた。

「過剰否定反応」をする人たちも、本当の自分は「親がしんどい」と思っているが、この意見を持つことは世間では許されないと思い、「本当の自分」を意見ごと、無意識下に押し込めてしまっている。だから、こういう親子問題を人から相談されたり、テレビで取り上げられることによって、無意識下に押し込めたはずの「本当の自分」が無意識下からひょっこり顔を出し始めるから、不安になってしまう。その本当の自分に言い聞かせる形で、「親を許してあげて」「親だって大変なんだから!」と、一般論を過剰に叫んでしまうのではないか、と私は考えた。



そもそも、どうしてそのような「本当の自分」を抑圧して、自分と人との線引きができなくなってしまうのか。

「過剰否定反応」に至った原因だ。もちろん、推測なので一概にとはは言えないが、この問題の根底にあるのは「親、特に母親との関係」ではないかと感じている。

ここで、A子と母親の関係を例に挙げてみる。A子の母親は、いつもは明るくてユーモアのある人だったが、何かで不機嫌になるとA子にあたることがあった。A子はそこから、あたられたくがないために母親の感情を「察す」ようになってしまった。本来なら親のご機嫌取りなんて子供はしなくていいのに、母親はその状況に心地よさを感じ、次第にA子に甘えて「子供が親を察してくれるもの」と思うようになってしまった。

母親は自分とA子の線引きが出来ず、「私の子供なんだから私のことを察してよ」と、母親を察することを求めた。母親のことを、自分のことのように考える―― つまり自分と人を「同一視」することを求めてしまったのだ。

母親に同一視することを求められて育ったA子は、「自分は自分、人は人、親は親、子供は子供」と線引きできなくなっていき、さらに「世間は世間」と思えなくなり、世間で言われている「親を大事にしなくてはいけない」という一般論を、あたかも自分の意見のように思い込んだ、と推察する。


そう考えると、「親だってかわいそう」「子供は親をわかってあげて」と「過剰否定反応」して、心理的虐待をかたくなに認めようとしない人たちはもしかして、親から同一視され、自分のことを考えるよりも親を察することを優先的に求められ、本当の自分を抑圧したまま大人になってしまったのではないだろうか?

さらに、自分が親になってからそれを自分の子供にも無意識に求めてしまい、同一視を連鎖させてしまった。しかし、それは自分も親からされたことで「自分が我慢してきたこと」でもあるから、ある種正当化に近い形で「許してあげて」という思考に至るのではないだろうか。

「自分は親をわかってあげた、自分は親に同情して生きてきた」と、本当の自分を抑圧してきたからこそ、自分と同じように我慢できない子供たちが余計許せないのではないだろうか。もちろん、無意識に同一視を世代連鎖させてしまっていることにも感覚的に気づいていて、「許してあげて(=自分も許して欲しい)」と思っているようにもみえる



社会に出てから今まで、色々な人と出会ってきたが「自分は自分、人は人」という当たり前のことが出来ている人は思ったよりも少ない。

もちろん、私もつい最近まで出来ていなかった。というより、今もまだ出来ていない。私もA子と同様に、親が自分を「同一視」してくる人間だったので、思考に悪癖のようなものが染みついてしまっているのだ。認知は出来たが、まだまだ思考矯正のトレーニングが必要だと感じている。「同一視」は親子関係で無意識に連鎖されている認知の問題だと思う。

「同一視」の悪影響は、親子関係に留まらない。例えば、自分の考えていることを周囲の人がわかってくれないと憤怒する自己中な「察してちゃん」や、芸能人の惚れた腫れたから、近所の人の行動に異常なまでに首を突っ込みたがる人など、人のことを自分と同じように考えたり、自分のことのように考えてしまうことも、「同一視」の一種だ。

悪影響ではなくても、「友達と同じような服装じゃないと不安」だとか、「みんなが遅くまで起きてLINEしているから、自分も同じようにしないと」という若い子のアイデンティティの欠如や、「何か困ってないかしら?」と自分のことはおざなりなのに、人にはそこまでするかってくらい過剰に尽くして、疲れ果てている人がいる。自分の話をする際、ただ出来事を話すだけではなく、「ねえ、ひどいと思わない?あなたもそう思うでしょ」と同じ考えを持ってほしいと同意を求めてくる人もいる。世の中には「自分は自分、人は人」と考えられない、「同一視」思考が蔓延しすぎていると感じる。

これは、A子や私のように「自分と人との線引きが出来ない、同一視を無意識に世代連鎖させている家庭で育った子供」が多いことを、象徴しているのかもしれない。


毒親事情を誰かに打ち明けたことがある人なら、「わかる」と言いつつ、「そういうのってどこでもあるよね。うちもさ~」と、当人の深刻さなんてお構いなしに、自分の話に繋げてしまう人に出会ったことはないだろうか。はたまた、友達の問題にも関わらず「あれがいいんじゃない」「こうしなよ」と、人に自分の意見を押し付けてくる人。「人の問題を、自分の問題と同じように考えてしまう」、これも、同一視である。

私は、同一視をする人間を責めているわけではない。しかし、同一視をしないことは今後、機能不全家族で育った人たちを悩ませてきた問題を解消する一筋の光になるのではないか、と感じている。






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