毒親についていろいろ

毒親関連のフォロワーさんが話題にしていた某記事を読みました。
リンクは下記に貼りますが、親への怒りを手放せない段階にある方にはかなり地雷な内容に思います。
記事の元になった本は読んでないのでわかりませんし、
この記事を書かれたライターさんが意図するものと私が汲み取ったものは違うかもしれませんが、誤解を与えてしまうような表記だとも感じました。


今回のnoteは件の記事に対する私の見解ですので、そんなの読みたくない!無理!という方は無理せずウインドウをそっと閉じてください。

http://ddnavi.com/news/231836/


まず、私のスタンスですが、私は「毒親への怒りは然るべき怒りだし、他人がどうこう言うような問題じゃない」と思っています。
「怒る」とか「許す」という感情は、紛れもなく当人だけのものです。
「怒らないで」とか「許してあげなよ」とか、当人でもない他人が感情にケチつけるのってよく考えると本当におかしい話だと思います。


で、この記事に書かれている「親を断罪どうこう」というやつですが、
言わんとすることはわかります。わかってるつもりなだけかもしれませんが…

というのも、私は「ゆがみちゃん」を書く前に「解毒したー!私は自由だ!」と思ってイキっていた時がありました。その時、「親が許せない」と発露する人たちを見て「うーん、その気持ちもわかるけど、でも…」みたいな、
愚の骨頂とも言えるマウンティング思想が芽生えてしまったんですね。
心の中のみで発言はしていないですけど、確かに当時はそう思っていました。
「親のことなんてもういいじゃん?大事なのはこれからじゃん?」と。

でもそれは、私だけの問題だったんですよね。
この頃はまだ自他の境界線が曖昧で、同一視の影響が強かったので、
そういうマウンティング思想に至ってしまったようにも思います。
上から目線の、余計なお世話すぎる発想でした。

なので、もしかするともしかすると、このライターさんも、そのような状況にあるのではないか…と邪推してしまいました。
見当違いだったらひたすら陳謝するのみですが、そんな印象にも思えてしまう内容の記事でした。


あと「人は何歳になろうが成長できる」「毒親について語ることは悪ではないが、時間の無駄にしかならない」というまとめ方も気になります。
文句を言いたいわけではなく、この表記によって、毒親関連で苦しんでいる人たちがさらに苦しんでしまう危険性があるように感じてしまいます。

確かに、人は何歳になっても成長できるかもしれません。毒親について語ってばかりいても、時間の無駄かもしれません。そんな側面があるのも事実です。
でも、それらは人や状況によって違います
誰かにとっては時間の無駄でも、他の誰かにとってはとても重要なことです。
なので、言い切ってはならない非常にナイーブな問題だと私は思うのです。

というのも、私の場合「毒親に植え付けられた毒」なんて気のせいだ、幻想だと思い、見ないふりをずーっとしていました。
この記事が「良し」とする状態を、まさに過去の私は実行していました。
「毒親」の概念を知ったのは比較的早かったのですが、私の親は変わらないし「AC」も治るものでもないという文章をネットで見て、じゃあ無理なんだ、それなら諦めて、とにかく今を生きようとしていました。


なので家を出てからは己の毒に向き合わず、ひたすら前を向いていました。
働いて自立して、友達を作ったり趣味の幅を広げたり、結婚を考えたり、
かなりの「前向きモード」です。
ちょうどその状態だったのが「ゆがみちゃん」の解放編や転機編です。

でも結局、仕事がうまくいっても友達がいても趣味があっても結婚しても、
何故か満たされない。フラストレーションがたまってアルコールに逃げる日々が多くなり、いよいよ「精神的にヤバイ」という状態になってはじめて、
自分の中にある「毒親に植えつけられた毒」に向き合う作業をしました。

「母がしんどい」を読んで「親がおかしくて苦しかったという気持ち、自分がつらかったという気持ちを受け止めていいんだ!」と気付き、
親にされた行為を思い出し、怒りや苦しみ感情を吐き出すこと
でやっと本当の成長に繋がったように思っています。


毒親問題はとてもナイーブな問題です。
特に大事なのは「人の問題を自分の問題のように置き換えない」ことだと思います。
自分がそれで良いからといって、自分以外の人が適応するとは限りません。
「毒親はもういいじゃないですか、一緒に前へ進みましょう」という誘いは、
一部の怒りや憎しみを手放せない状態にある方にとっては猛毒ともいえるものだと私は感じています。余計なお世話だと思います。

前へ進むかどうかだって、個人の選択の自由があります。
前へ進む意思すら芽生えない人に「前へ前へ!ほら進めよ!頑張ってみろよ!自分を信じて諦めるなよ!」という松岡修造式応援は、諸刃の剣です。

以下は私が考える解毒までの簡易スケールです。
親に植え付けられた毒を除去して自分らしく生きようと思ったら、
①毒親やACという自覚の芽生え
②毒親に対する怒りや憎しみのアウトプット
③自分を尊重し慈しみ、本来の自己像を探す
この3つは必要不可欠なような気が私はしています。
特に②に関しては、親の毒具合や子供の性格によってかなり違ってきます。
一朝一夕でどうにかなる人もいれば、何十年も苦しむ人もいます。
なのでそんな人それぞれ違うであろう前提を無視することはできないので、
今回取り上げた記事の内容は私の意見と真逆だし、「押し付けている」ような印象を受けてしまいます。


私は今、かなりポジティブ人間に転がってますが、これは私だけの話です。
私が前に進みたいから前に進むだけであって、
「私以外の人もそうしようよ」とか「みんな前へ向いて進めばいいのに」とは全く思いません。
ただ、私が前を向いて歩くことで、前を向きたい人たちが歩きやすくなればいいなあ、と多くの人が歩きやすい道を模索しているだけに過ぎません。


逃げてもいいし泣いてもいいし向き合って進んでもいいし、個人の自由です。
本人がしたいようにするのがいちばんだと思います。なにごとも。
そこで迷うようなら専門機関や書籍を利用すればいいと思いますが、
迷ってない人にまで範囲を広げてしまうのはなんか違うかなって感じです。


そういえば迷ってる時期にこの曲をよく聞いて泣いてたなあ~と思って改めて聞いてみたら歌詞がわりとマッチしてたんでようつべ貼って終わります。

ばいちゃ!





あとこれ余談なのですが、「毒親」という呼び方はちょっとどうなの?問題。
これに関しては私も見解が難しいです。

でも「毒親」という呼称がどうこうと言い始めると、色んなものがカジュアルに呼ばれてる事実があります。「セクハラ」だって「性的嫌がらせ」だし、「いじめ」なんて「暴力」「犯罪」に近いですし…

「毒親」については「虐待する親」という意味も「子供にとって毒になる親」という意味もありますので、意味が広域すぎるという点もあります。
「不適切な養育」としてしまえば「マルトリートメント」ですが、これはこれでいまいちピンとこない感じがあります。なんか髪の毛がツヤツヤになりそうっていうか。

私の親は異常すぎるので「毒親」なんてレベルじゃないというつぶやきも見かけたのですが、でも私の親のことを幼なじみは未だに「面白いよねー」と言うんですよね。親の異常性は子供にしか可視化できないことも多々あります。
「ゆがみちゃん」だけを見たら異常な親なのでしょうが、父親に至っては外で陽気にふるまったりするので、「いいお父さんだね」とかよく言われたんですよね。視点が違うだけでこの違いですから、子供の頃はよく自分の見識が抹殺されている気分になりました。

そんな背景もあって「親のことを悪く言ってはいけない」という雰囲気の中で
「私は親に虐待されていた」というのはハードルが高いんですよね…。
親も親で「虐待なんてそんな!するわけない!」と「毒親」という呼称よりも過剰反応してきそうですし。
このあたりは虐待=暴力という認識が大きいのかもしれませんが、難しい。

なので呼称に関しては、多くの人が納得できる着地点が現状では見つからないような気がしています。

ではではこのへんで、ほんとにおわり。





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