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恋愛至上主義への皮肉たっぷりな月9ドラマ「デート」が面白すぎる

「問題のあるレストラン」に引き続きまたまたドラマ感想です。今期は他にもいくつかドラマを見ていますが、この2つが個人的には飛びぬけてツボです。

「問題のあるレストラン」は「最高の離婚」を書いた脚本・坂元裕二さん、「デート」は「リーガル・ハイ」を書いた脚本・古沢良太さん。2人の共通点は「時事ネタやサブカルチャーを用いた小ネタや社会風刺の効いたユーモアのあるセリフが得意」な点ですかね。私の大好物れす( ^q^)


「デート」は、超合理主義者かつ融通の効かない恋愛不適合者の国家公務員の依子(杏)、文学や映画を愛する自称「高等遊民」ニートの巧(長谷川博己)が、それぞれ恋愛とは全く別の角度から結婚することを選択し、デートをしてお互いのことを知っていく…的な話だと思います(wiki公式サイト


杏ちゃん演じる依子がトンデモファッションなんですけど、モデル体型だからおしゃんに着こなせてる感じがすごい!って思いました(小並感)



いやーすごく面白かった。主役の2人が超個性的で、さすがリーガル・ハイの脚本家だなーと。パンチ効きすぎ。

一話の大まかなあらすじは、恋愛に全く興味のない2人がそれぞれ結婚を意識した背景と、2人が実際に会ってデートする場面を描くという比較的シンプルな内容なんですが、デート後半のリーガル・ハイを思い出させるような膨大な量のセリフの応酬が最高でしたし、内容にもだいたい同意してしまいました。

長谷川博己演じる巧はニートなのですが、ニートだと結婚相談所に登録しても相手は見つからないだろうと幼なじみが配慮して、出版社勤務と詐称します。ゆえに「何故このような経歴の人が独身なのだろう」と依子は不思議に思い、巧に尋ねるのですが誤魔化されます。

やんややんやしていると依子の父親の知人である鷲尾(中島裕翔)も乱入し、体目当てだろうと疑いをかけて、デート先の船にある船長室みたいなところで船長を巻き込んで謎の言い争いを始めるのですが、そこが秀逸でした。


秀逸すぎたのでセリフをだいたい書き起こし。

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巧「僕を買いかぶるなよ!そんなこと(体目当てで結婚相談所に登録する)できるわけないだろ!普通に付き合ったこともないのに!

僕は小説や映画や漫画やアニメの世界が好きで、現実の女性にあんまり興味がないんです。人と接するのも苦手なんです。

友人に女性と付き合えば人生が変わるって言われて半ば強引に…でもやっぱりダメでした。もうデートが苦痛で苦痛で仕方がない。藪下さん、僕は確かにあなたのことを『痛い女だ』って言いました。そのことは謝ります。もうすみませんでした。この通り、本当に痛いのは僕なんです。僕が痛い男なんですよ。僕なんかに付き合わしちゃって、すみませんでした」

鷲尾「事情はわかったけど結局好きでもないのに好きなふりしてたわけだろ。根本的に間違ってるよ。好きだから付き合う、好きだからデートをする。そうでなければ、相手に失礼だろ」

依子「谷口さん、謝る必要はありません。私も同じだからです。

私もあなたのことを好きではないのです。いえ、最初は好きだと思いました。数ある男性の資料の中から谷口さんの資料を見た時、何故だか無性に胸がときめいたんです。ああ、一目惚れとはこういうものかと思いました。ですがこうしてお会いしてみると全くときめかない。はっきりわかりました。私、あなたのデータにときめいていたんだと」

巧「データ?」

依子「1979年7月23日生まれ 181㎝67㎏…好きな数字ばっかり」

巧「数字?」

依子「全部素数なんです!こんなに素数が並ぶなんて奇跡ですよ!宇宙の真理が潜んでいるようでわくわくします!」

……いつもこうなんです。生身の人間には興味がもてないんです。私も痛い女なんです。楽しいふりをしてはしゃいでいましたがやはりダメでした。デートなんて何が楽しいのかさっぱりわからない」

巧「本当ですよね。みんなよくこんなこと、普通にやれてると思いますよ」

鷲尾「依子さん大丈夫ですよ!依子さんもいずれ素敵な男性に出会って、恋をする時が来ます!」

依子「そうかしら?恋をしたいなんて全然思わない」

巧「僕もそうだな」

鷲尾「れっ、恋愛をすることは大事なことで、人間的にも成長できるし」

依子「(恋愛を)しないと凶悪犯罪に走ると?社会学者が言っていました」

巧「はっ。いい加減なことを言う奴がいるもんだ。そんなのは全くの嘘です。何の関係もありません」

依子「そうですよね」

巧「そうですよ。恋愛なんかしたって何の成長もしませんよ。むしろそんなのにうつつを抜かしている連中ほど精神的次元が低いと僕は思いますね」

依子「同感です。やれ合コンでどうした元カレがどうしたと、他に語り合うことはないのか?と思います」

巧「もうクソのような連中だな」

依子「人生にはもっと大事なことがたくさんあります」

巧「その通りです。教養のないバカ女なんかと付き合う暇があったら本の一冊でも読んでる方がはるかに有意義だ」

依子「幼稚なバカ男と付き合う時間なんて貴重な人生の浪費でしかない。もっと価値の高いことに使うべきだわ」

鷲尾「待った!価値が高いとか低いとか無いとかじゃなくて、恋をするっていうのは素晴らしいことで」

巧「出た出た出た!レベルの低いテレビドラマやガキ相手の映画ばかり見て育ったんだろ。現代の幼稚な文化に毒されるとこういうのが出来上がるっていう典型例だ。藪下さん、本当に痛いのは僕らじゃない。彼のような人種ですよ」

鷲尾「僕が間違ったことを言ってるか!?」

巧「恋愛なんてものはな、性欲を美化した表現にしか過ぎないと芥川龍之介も言ってるよ!」

鷲尾「恋愛をしなければ結婚だってできないだろ」

巧「本来、恋愛と結婚は別物だ。昔は家と家が勝手に決めるのが普通だった。結婚式当日に初めて顔を見たなんていうケースも珍しくなかった」

鷲尾「そんなのは不幸な時代の話だ。相手を自分で選べないなんておかしい」

依子「そうかしら。その頃は今より離婚率は低かったはずよ。恋愛結婚が増えるに従い未婚率と離婚率が増え出生率が低下している。この現実をどう説明するんですか?」


早く船から出て行って欲しいと懇願していた船長、ここで結婚しているかどうかを聞かれ「うちは大恋愛の末に結婚したよ。でも2年前に離婚した」

巧「フランスの哲学者モンテーニュはこう言っている。『美貌や愛欲によって結ばれた結婚ほど失敗をする。沸き立つような歓喜は何の役にも立たない』」

依子「共感します。私かねがね結婚とはお互いが有益な共同生活を送るための契約に過ぎないのではないか、と考えていました」

巧「真理ですね。フランスの哲学者サルトルとボーヴォワールが提唱したのもまさにそれです」

依子「私、間違ってませんよね?」

巧「間違ってない。恋愛なんてクソの役にも立たない。結婚は契約です」

依子「契約という明確なルールを遂行することは誰よりも得意だという自負があります」

巧「素晴らしい。むしろくだらない恋愛感情に左右されないあなたや僕は本来最も結婚に向いていると言えますね」

鷲尾「冷静になりましょう依子さん。お互いに好きじゃないんですよね」

依子、巧「「好きじゃない」」

依子「明らかに好きじゃない。でも結婚ならできそう」

巧「できるね」

鷲尾「できるわけないだろ!愛情がなきゃ!」

依子「愛情、などという数値化できない不確定要素を基盤に人生を設計するなんて非合理的よ。その点私と谷口さんなら感情を排除した割り切った契約を結ぶことができる」

巧「ベストマッチかもしれませんね」


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そんな感じで意気投合した依子と巧は、結婚の契約内容を考えるべく、次回もデートに奔走するという内容です。


私がこれを見て思ったことは、「ああ、もう『恋愛こそ素晴らしい!恋愛こそ全て』と言うような『恋愛至上主義』は一つの選択肢でしかないんだなー」というようなことです。

恋愛は確かに素晴らしいかもしれません。しかし、いくら素晴らしくても全てではない。恋愛はこれまで「恋愛→結婚→出産→人類という生命体の継続」が成り立つという観点だけで「恋愛こそ全て」と考えられて、全ての人に恋愛を押し付けるような環境が形成されつつありました

押し付けられるからこそ「非モテ」と「恋愛至上主義者」とか、「非リア」と「リア充」みたいに「恋愛していない人はダメ」→「恋愛している人を憎む」みたいな、極端な二分化と「リア充爆発しろ」「クリスマス中止のお知らせ」といった、わけのわからない憎しみを生み出してきたような気がしています。

私の言いたいことは2つあるのですが、まずは恋愛は数ある思想や文化の中の一つなんじゃないの、ということです。なんというか、恋愛というのは一種の「趣味」「特技」「手段」の一つで、「全人類に強制された目的ではない」と思うのです。恋愛をする人、恋愛が得意な人、恋愛を糧に生きる人もいれば、スポーツをする人、学問が得意な人、文化を糧に生きる人もいて、それぞれの得意不得意や好き嫌いが別れているからこそ社会が成り立つし、多様性があるからこそ社会は面白いと私は思います。人は人で自分は自分なのだから画一化する必要も無ければ意味も無い、だから「恋愛」一つだけをものさしにするともっと他の大事なものがごっそり抜け落ちたりして、すごくもったいない結果になる気がしています。

もう1つは、恋愛関係以外にも色々な人間関係があるということです。例えば私は配偶者がいますが、配偶者は人生のパートナーであって、配偶者ではない人間関係という理由で、友人たちを蔑ろにできるものではありません。

恋人や配偶者はパートナーかもしれませんが、パートナーではない友人たちはお互いの希望に適した人間関係があるからこそ関係性が成り立っているわけで関係性だけで相手が重要かどうかを判断するのは短絡的だと私は考えます。

家族ではないし恋人ではない。恋愛感情も無いけど、相手が大事で尊重したいという気持ちに差はありません


結婚やら出産に直結しやすいと言った理由でこれまでは「恋愛」ばかりが重視されて来ましたが、もう現代はそういう時代じゃないんですよね。

「恋愛至上主義者」もいれば、「スポーツ至上主義者」「学問至上主義者」「文化至上主義者」など人それぞれ重視する主義があって、尊重し合える人と関係性に囚われない、尊重し合える関係をつくっていけばいいと思います。

「恋愛至上主義者」は「恋愛至上主義者」同志と仲良くすればいいわけで、「恋愛至上主義者」じゃないという理由で他の主義者といがみ合うのではなく最初から干渉・介入しなければいいと思います。価値観が違うのだから無理にわかる必要もなければ意味もないので、お互いに「存在する主義」と認識して尊重して深く関わらない

それが私にとっては理想です。


色んな主義が存在しているけど、どれが素晴らしいとか、どれをしないと人間としておかしいとか、そんなものはないと思います。


ドラマの冒頭で「最近は恋愛絡みのトラブルも増えており、恋愛事態に消極的な人が増えています」と言っていましたが、本当にそうです。

恋愛絡みのトラブルなんてのは結局、「恋愛」「愛情」に見せかけただけの「支配欲」や「加害欲」ではないでしょうか。自分が相手を、人として心から尊重するなら、相手が望まないこともしないだろうし、自分の欲望を一方的に押し付けることもしないと思います。「恋愛」に見せかけた一方的な欲望の押し付けが「恋愛トラブル」と誤解されているだけだと考えます。

一方的な欲望の押し付けを「恋愛」「愛情」というラベルで正当化することはあってはならないと私は思います。



恋愛こそ全て!と「恋愛至上主義」を押し付けたら、恋愛に楽しみを見い出せない人たちは「非モテ」「恋愛不適合者」などの烙印を押されます。しかし、恋愛が得意だからといって人生の悩みの全ては解決しません。私の体感的には恋愛至上主義者ほど人間関係の悩みに必要以上に囚われている気がします。

先ほど書き起こしたセリフにも出てきましたが、昔は結婚が強制で、親の思い通りの人生を歩むことが子供の務めでもありました。しかし、その結果はどうだったのでしょう。出生率は確かに高かったかもしれません。でも、生まれた子供たちは本当に望まれて生まれて、人として尊重されたのでしょうか。


今、若者を中心に恋愛に積極的になれない雰囲気が漂っています。その背景に「結婚を強制して子供の希望を抑圧して親の思い通りの人生を歩んできた親を見てきた子供たちが結婚や恋愛に希望を見出せない」こともあると思います。

「子供がいるから離婚できない」に代表するような、抑圧し過ぎた最終形態が「両親の不仲から結婚に希望を見出せない子供」に繋がるのであれば、恋愛や結婚や出産を強制しても、結局いいことなしだと私は思います。

私の母親もそうでしたが、母親自身が結婚に失敗したと思っているのに何故か「結婚はまだなの?」「早く結婚して」と言って来たりするんですよね。矛盾し過ぎて面白いですが、自分が失敗したことを他者に押し付けて何か得があるのか、不思議で仕方ないです。


「恋愛こそ全て」→恋愛、結婚、出産の半強制→適性のない人も半ば強制的に家庭や子供を持つ→家事育児や共同生活によるストレス発生→子供という弱者に矛先が向かう→子供が家庭や結婚に希望を見出せない→恋愛や結婚に対して消極的に=今に至る……毎度おなじみ、負の悪循環かもしれません。


恋愛したい人は、恋愛したい人同志ですればいい。結婚したい人も同じです。恋愛や結婚に興味を持てない人は、他に興味のある分野をとことん追究すればいいと思います。無理に恋愛することも、結婚することもありません。してもいいことはないと考えるからです。

お互いに干渉もしなければ文句も言わない。ただ、見下さずにお互いを尊重し認め合えば、今よりもっと生きやすくなるんじゃないの、と私は思います。

お互いに干渉しないけど、尊重はする。恋愛や結婚をする人、子育てをしたい人を、しない人は尊重する。生まれた子供は何の非もないのだから、社会全体で支える。逆に恋愛や結婚をしない人のことも尊重する。多様性があると理解すれば、直接的でも間接的でも、適度な距離感が保てるような気がします。


これはまた今後お話したい内容なのですが、MBTIや多重知能、認知特性など人にはそれぞれ適性や特色があります。いわゆる「向き不向き」です。できることやできないことが存在していて当然です。できるから良い、できないからダメ、そういうことではありません。少なくとも、私はそう思います。

凸凹が激しい人は個性的でもその分苦手分野も多い、凹凸が少ない人は平均的な能力はあっても得意分野が無い、そういうそれぞれの「向き不向き」は必ず存在しています。

人間である以上は、全てに適性があるとか、完璧で何でもできるなんてことはないと思います。そういう話をまた今後していきますねーと軽い予告的なものをはさんだところで、今回の話は終わりにしようとおもいます。おわり。


(ドラマの初回感想なので、なんとなく投げ銭式にしました)



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