フィクションによる影響と現実

※繰り返しになって大変恐縮ですが、私の真意を誤解されて新たな負の連鎖を繰り広げたくないという思いがあるので、先に注釈させて頂きます。

私のnoteは「私個人が感じたこと・考えたこと」で、それ以上でも以下でもありません。読んだ方がこの文章をどう感じるか、何を考えるかも自由ですが特定の人や作品を攻撃したい・虐げたいという思いは一切ありません。私は、問題とされる人や作品の、さらにその背景にある社会問題に着目しています。抑圧された縦社会における負の連鎖を繰り返したくないという個人的な願望を実現するため「見えている一部」ではなく「見えないところも含めた全体」を大きな問題として考え、改善に向け、個人的な考察を述べるに至っています。

上記の真意を汲み取って頂けたら幸いです。

(ほんとね、「自分のことだ!攻撃されてる!」と思い込まれて攻撃されるとしんどいです。私は平和がすきです。ラブアンドピースだコンチクショー)




前回、「メディアの変化や影響について思うこと」という文章を書きましたが今回はこの話の延長かもしれません。

アニメや漫画やドラマといったフィクションと、現実は違う」ということをよく聞いたり言ったりしますよね。フィクションの中で過激表現や不快表現があると注釈が出たりします。多くの大人はこの意味を理解できています。

その一方で「フィクションに影響を受ける」ことも事実です。フィクションと現実は違うことは理解できても、良い意味でも悪い意味でも、フィクションに影響を受けてしまうことはたくさんあります。

そして、フィクションに限らず、親、教師、友人、世間、社会、メディアと、人は様々なものに影響されています。「誰かの価値観」を「自分の価値観」と思い込んだりしてしまいます。何かに影響されたり洗脳されるうちに、物事の正当性を自発的に考えなくなって、思考停止に陥ってしまいます。

物事の正当性を他者や世間に委ねるのは、とても危険なことです。少なくとも私は、自分の経験や、友人や知人の経験を思い出して、そう思います。私たち大人は、思考停止を解除し、自分だけの価値観を築く必要があると思います。そして、心身の発達が未熟な子供に自らの価値観を押し付けるのではなく、「自信の価値観や物事の正当性を他者に委ねないことの重要さ」を教えていくことが大事だとも思っています。

その考えに至った出来事について、今回は述べたいと思います。



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<自分が影響を受けたもの>

まず私が多大な影響を受けたフィクション作品について語りたいと思います。「フィクションと現実は違う」という前提があっても、人はフィクションから大なり小なり、影響を受けています。冒険作品を見ればワクワクするし、恋愛作品を見れば憧れたりします。魅力ある漫画やアニメのキャラクターが特定の楽器やスポーツをすれば、影響を受けて始めてみたくなることもあります。

私は子供の頃、「なかよし」という少女雑誌で主に読み切りを描かれていた、「早稲田ちえ」という漫画家の作品を見て、キャラクターの「生き様」に強く惹かれました。

私が小さい頃、フィクションにしろ現実にしろ女性は今よりもっと受動的で、少女漫画は特に顕著だったと感じています。かわいいヒロインが、かっこいい男子に何故か突然選ばれ、告白されて、ハッピーエンドという作品が圧倒的に多かったのです。いわゆるシンデレラストーリーというか、主人公の女の子は何もしなくてもお姫様的扱いを受けてモテモテ、というのが王道でした。

その中で異彩を放っていたのが、早稲田ちえ先生の作品でした。読み切り作品が多かったので主人公はそれぞれ別ですが、殆どのキャラクターが当時の王道だった「受動的なお姫様」の逆でした。つまり、能動的で、お姫様というよりたくましくて、生命力に溢れた女の子ばかりでした。「王子様を待つ」というお姫様的発想が、早稲田ちえ先生の描く作品にはほぼありませんでした。待つのではなく、行く。選ばれるのではなく、選ぶ。「相手ありき」ではなくて、「まず自分」という主体的な存在が印象的でした。自分はどうしたいか、自分はどう行動していきたいか。能動的で、自分の未来を自分で切り開いていく姿に惹かれ、私は早稲田ちえ先生の作品に影響を受けました。

当時から考えると異色の作品だったかもしれませんが、今のことを考えると、時代の先を行っていたんだと思います。


「所詮は漫画。フィクションだろ」と思うかもしれませんが、後の私の行動を考えると、影響を受けていると思わざるを得ないんですよね。どの作品もそうかもしれませんが、フィクションには制作側の意志が反映されています。ただ作品が独り歩きしているわけじゃないんです。なので、早稲田ちえ先生の漫画には、早稲田ちえ先生自身の能動的な生き方だったり、価値観だったりが反映されていて、子供ながらにそのあたりを汲み取っていたのかもしれません。

私はその後も、漫画に限らずアニメもドラマも映画も、能動的なキャラクターが出ている作品を好んで見ていました。しかし周囲にはあまり人気がなくて、逆に受動的なキャラクターが人気でした。漫画も、アニメもドラマも映画も、当時多くのフィクション作品は受動的な存在が多かったように感じています。


今考えると、これが思春期に大きな爪痕を残したような気がしています。



中学生や高校生になると、多くの同級生は少女向けの漫画雑誌を読まなくなります。それに変わり、大人向けの漫画雑誌を読み始める同級生が増えました。私も、友達が購入したものを読んだことがあります。

少女雑誌との内容の変化は性描写や過激な表現が増えたことくらいで、王道は受動的なヒロインのままでした。可愛い主人公の女の子がかっこいい男の子に突然告白されて恋に落ちて、求められるがまま性行為に至るという内容です。受動的なヒロインの王道は貫かれており、変化はありませんでした。

そして私は「ひたすら受動的なキャラクター」に全く共感できませんでした。このあたりも子供の頃と大差はありません。


しかし、決定的に違うのが「性描写」でした


当時のフィクション、とりわけ少女漫画の性描写は、性行為における危険性を全く無視して描かれていました。性行為は恋愛関係の愛情表現の延長というかロマンスやファンタジーな表現で、現実感がない。性行為は実際何をするか、どんな危険性があるかが全く描写されていないんです。

現在、若年層の人工中絶数が増えていることを考えると、性行為の表現は当時から目立った変化がないのかもしれません。気になったらインターネットで調べられる情報社会の今でも人工中絶が増えている事実は、脅威だと思います。

「フィクションなのだから事細かに描く必要はない」とは思いますが、実際に体験可能なことを、あまりに現実離れした描写をしてしまうと知識がない人は「そういうもの」だと錯覚してしまうこともあります。つまり、いちばん問題なのは「性描写」というより「性教育」「性知識の貧困」だと思っています。



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<性教育と性知識の乏しさ>

性教育は小学生、中学生、高校生とそれぞれ学校でありましたが、私の周囲で起こった出来事を考えると、あまり意味をなさなかったように感じています。記憶が曖昧ですが、内容は「男性には精巣があり精子を放出し、女性は卵巣があり卵子を排出して、精子と卵子が交わると受精し着床、妊娠する」みたいなどちらかというと医学的内容で、現実的ではなかった気がするんです。だって実際、性行為をしてる時にこの知識は役に立たないですよね。青年向け漫画で子宮の状態の描写はあったりしますが、あれに現実感はないと思うんです。

性教育で大事なのは現実感だと思います。といっても昔問題になったような、性行為を人形や道具を使って再現することではありません。私の指す現実感はリアリティという意味で「リアルで過激な表現」という意味ではありません。過激な表現は逆効果だと思います。かといって性行為をファンタジーのように扱うことも逆効果だと考えます。

私の指す現実感とは「性行為で実際に起こり得る問題や、身体に及ぼす危険を回避する方法」です。最低これさえ身に付ければ、あとはフィクションなり何なりで補える知識だと思います。逆に言えば最低限知らないといけない知識を知らず、重要ではない知識ばかり身につけてしまった人が多い気がします。

現実問題として、思春期にもなれば、性行為に及んでしまうことはあります。その時に重要なのは、「純潔を守れ」という一方的な抑圧ではないだろうし、ロマンスやファンタジーさでも、克明な描写でも過激な表現でもありません。実際の、現実の問題や危険性は何かということだと思うのです。



受動的なフィクションを好んで見ていた私の周囲の女子たちは、悲しいことに「性行為=相手に身を委ね好き勝手されるもの」と認識していました。さらに性教育の授業で正しい避妊の方法も得られなかったこともあり「避妊しようがしまいが女子は黙って相手を受け入れる」と思い込んでいたり、大人になってからも「正しい避妊方法」を知らない人がいたりします。これは男女共です。さらには、乱暴行為や一方的な行為も受け入れ、NOと言えない状態に陥ってたりします。中には「相手の行為を断る=相手の存在を拒否する=フラれる」という飛躍した考えをしてしまう状況も、多数存在します。

これらのことは、望まない妊娠や人工中絶、出産しても子供に愛情を持てずに虐待行為に至ってしまうケースにも繋がりかねません。実際、私の周囲では、こういった状況に陥ったケースがいくつかありました。

性行為はどちらかに身を委ね全てを任せるのではなく、お互いを尊重しながら相手を配慮しながら、愛情をもって思いやったり、気遣ったりするものです。(まあ実際問題として、性行為に限らず対人関係は全てそうなんですけど…)一方的な行為は「自慰行為の延長」というか、相手の人権を無視しています。前者が「常識」なら理想ですが、実際はフィクションに影響されたり、知識の乏しさから、後者の、「一方的な行為」になりがちです。

フィクションでもノンフィクションでも、何かで得た知識を実践する前に、「まず相手ありき」という問題を全員が認識する必要があると私は思います。「男はこうすれば気持ちいい」とか「女はこういうことが好きなはず」とか、人はそれぞれ別の身体で異なった感度を持っていますので、一部の人が良いと思った行為だからと言って、全ての人に適用されるとは限りません。まさに「同一視」です。性行為にまで同一視思想が蔓延していると思うと、本格的に恐ろしくなってきます。



学校の性教育や、ファンタジーすぎるフィクションや、過激なフィクションも問題ですが、家庭で性教育をされた子も少なかったことも問題だと思います。それくらい、私の周囲は性知識に乏しかったし、それゆえ色々な出来事が起きていました。

私はどうだったかというと、私の家は「ゆがみちゃん」で描いたように、私の母親は間違った性知識を恐怖として私に植え付けました。「生理になったら股から血が出て女は妊娠する」とか「男は風呂場で精子を出すから浴槽に入るとお前は妊娠するかもしれない」と言って「出産は痛い!」と言うところまでがワンセットなので、もう私の中で「生理または性行為=出産=痛い=恐怖」という図式が出来てしまっていました。小学校低学年の頃から、ひたすら恐怖に支配されていました。

そんな、母親による間違った性知識の恐怖を払拭したのは、漫画と本でした。両親が購入した青年漫画と性知識の本が隠された棚があり、私は親が外出している隙を見計らって必死に内容を読みました。幸運にもその漫画には、避妊の方法や「相手ありき」の性行為の一部始終が描写されていました。性知識の本には、HIVや性感染症の予防方法など、ためになる知識が書かれていました。

妙な話ですが、受動的な主人公のファンタジーなフィクションによって相手に一方的な行為を許す子もいれば、現実的な漫画ときちんとした性知識の本で、私のように知識を補える場合もあるのです。根本の問題は「性知識の乏しさ」ですが、そこに「現実離れしたフィクションによる影響」が加わると大惨事を招きかねないということです。



なので、現実的な性知識は、家庭でも学校でも教えられなかったんですよね。私はたまたま「現実的な青年漫画と性知識の本」によって知識を得ましたが、多分これは特殊なケースだと思います。繰り返しになりますが、それくらい私の周囲は性知識が曖昧なものでした。

学校では医学的知識のような性教育を受け、一方フィクションでは愛情表現やファンタジーのように性行為を描写し、肝心の「現実は実際どういうものか」という大事な要素が抜け落ちているんです。漫画もアニメもドラマも、実際の性行為を映像化したAVでさえも、性行為で何が大事かとか、どんな危険性があるかを描写してないんです。学校も、家庭も、フィクションも、全て誰かに責任を丸投げしています。そのツケを払わされるのが本来守られる立場の子供たちなんてやり切れないし、許しがたいことだと私は思います。


「どうせフィクションなんだから」「フィクションと現実は違う」と主張する人のうち、一体何割の人が、正しい性知識や性行為の危険性を理解しているのでしょうか。全員が全員、何が人権侵害行為かを認識できているでしょうか。「相手ありき」で、人を尊重したり、思いやることができているでしょうか。

「自分はフィクションで知識を得て実際の性行為で相手も喜んだ」と言って、結局フィクションと現実を一緒にしてはいないでしょうか。「相手が喜んだ」という認識は、自分だけの一方的な解釈だという可能性はないでしょうか。

「フィクションと現実は違う」と認識できても、人はフィクションから影響を受けています。フィクションにしろ、親にしろ、教師にしろ、世間にしろ、今「自分の価値観」「自分の認識」だと思っているものは、なにかの影響ということはないでしょうか。物事の正当性を、自分で判断しているでしょうか。

少なくとも過去の私は物事の正当性を自分で判断していませんでした。世間や他者に影響され思考停止し、一方的に解釈したり思い込んだりしていました。



「妊娠も性被害も、女性が自衛すべき」という意見をネットではよく見ます。しかし大人ならまだしも、性知識のない子供たちは、自衛の術を知りません。妊娠するのは女性ですが、性被害は男の子も、男性もターゲットにされます。

これは女性だけの問題ではありませんし、子供だけの問題でもありません。

私含め、全員が当事者であり、関係してくる問題だと思っています。それらを踏まえた上で、最後の話に移りたいと思います。




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<フィクションによる悪影響>

少し前に、あるアニメに対する、複数の方の感想を読みました。

登場する女性キャラクターがセクハラをされるシーンが含まれた作品で、子供も見られる時間に放送されているとのことでした。

該当のシーンを確認してみましたが、確かにセクハラでした。で、私自身は、セクハラシーンそのものが問題というより、女性キャラクターが全く怒らないことの方が問題に思いました。実際、セクハラ後は別のキャラクターが女性の代わりに怒ったり、「殴っていい」と言ったり、セクハラを咎めていました。

上記のことを加味すると「セクハラされたら怒っていい」という作者の意図は感じました。原作の掲載雑誌を考えると元々は小さな子供向けではないので、夕方の時間に放送した制作側の責任が大きいと個人的には思います。

私はこの作品をしっかり確認したわけではありませんので、セクハラシーンに隠された意図はわかりません。後述しますが、あくまでも「セクハラシーン」なんですよね。「お色気シーン」ではないんです。なので、何か意図がないと現在進行形で変化している人権問題に相反した「セクハラ容認作品」になってしまうので、お色気ではなくセクハラにした意図があると思いたいです。

男性・女性の性別に関わらず、自分の身体を見知らぬ人に好き勝手にされたら不快です。ですがこの女性キャラクターは何故か怒りません。もしかすると、「良くない行為だと認識できない状態」なのか、「受容れることで自身の存在価値を見出している」のか。意図は不明ですし女性キャラクターがセクハラを怒らないことが今後の展開に関わってくるかも不明ですが、やはり該当シーンはセクハラ以外の何物でもないんですよね。相手の存在を尊重していないし、「相手ありき」というよりは「自分の欲望ありき」で、それを受け入れる存在として描かれています。

検索して色々な方の感想を読みましたが、女性も男性も関係なく、多くの方が「あれはどう考えてもセクハラで良くないことだ」と認識されており、良識と倫理観が備わった大人向けの作品だと再認識しました。だからこそ夕方の時間に放送されていることが残念に思います



今も昔も、アニメや漫画は「お色気シーン」があります。でも、「セクハラ」とは違うと思うんです。「お色気シーン」は、「ラッキースケベ」の親戚だと私は思ってますが、「セクハラ」は率先して加害する人権侵害行為で、一方の「ラッキースケベ」は偶発的なもので、性質自体は違うと私は思っています。

しかし、この「お色気シーン」も、あまりに現実離れしてしまうと悪影響だと思います。前章で私が読んでいた頃の少女漫画は受動的なヒロインが多かったと述べましたが、同様に少年漫画も、性的に受動的なヒーローが多かった気がしています。能動的なヒーローは「セクハラ」を働き、受動的なヒーローは「ラッキースケベ」に遭遇します。性質自体は違うのですが、現実から大きくかけ離れた描写をしてしまうと、正しい性知識のない人にとっては、悪影響になりかねないのです。(正しい性知識があれば問題ないとは思いますが)

現実離れしたお色気シーン。そうですね、例えば受動的なヒーローが不思議と女性にモテまくって性的にせまられるというフィクション作品がありますね。ああいう類の話って、まあ少女漫画も少年漫画も大差ないとは思うのですが、主人公にそこまで魅力がなかったりするんですよ。「何でこんなモテるの?」と、不思議に思ったことはないでしょうか。ひたすら受身なのにモテる人って現実ではあんまり見ないです。現実でそう見えてる人も、実際会ったら相手に配慮してたり、見えないところで努力していたり、受動的ではないんですよ。見えてないだけで、本質としては能動的なんですよね。

「フィクションなんだから当たり前!現実感なんていらない!」という意見もわかりますが、性的消費を目的としないフィクションで人気が出る作品って、現実感があるものだったりします。この「現実感」は私の概念での理解なので誤解のないよう説明したいのですが、ファンタジーでも現実感があるものってありますよね。何と言うか、キャラクターが非常に人間味溢れてるというか。「舞台背景はファンタジーだけど、現実にこういう考え方する人いるよね!」という感じですかね。たまにぶっとんだ考えをするキャラクターもいますが、あれはきっと理想が反映されているように思うんです。その理想を、現実感のある他のキャラクターが支えて、相乗効果で面白くなるというか。

そう考えると、受動的で女性にモテて性的にせまられるキャラクターに現実感はありませんし、受動的な主人公を好きになって性的にせまるキャラクターも現実感がないんですよ。実際こんな考え方をしている人間は見たことないぞって言うか。少女漫画にしろ少年漫画にしろ、現実離れしたフィクションって「相手(異性)を偶像化して理想化している」のかな?と思います。

もちろんフィクションなので、理想化することが悪いとは思わないのですが、うーん、何というか、この「理想」を現実に反映させている人がいますよね。「フィクションは現実とは違う!」と言う一方で、現実にフィクションの理想を反映していて、結局は自分がいちばん混同して見てしまっているんです。

例えば「二次元最高!三次元はクソ!」という発言をたまに見るんですがこの状況は、二次元――つまりフィクションの理想を、三次元――つまり現実を、一緒に見てしまってるんですよね。漫画やアニメと現実は違うのに同一視してしまっている。意訳すると「二次元は理想を反映しているけど、現実は理想を反映してくれないからクソだ」と主張してる気がするんです。

フィクションの、それこそ性的消費を目的としている作品のキャラクターは、ひたすら理想化されています。相手に都合の良い存在で、それこそセクハラを怒りもせず受け入れたり、どんな性行為でも受け入れたりします。でも実際は「相手ありき」です。自分の欲望に忠実で、何でも受け入れてくれる、都合の良い人間なんて存在しないんですよ。いくら「現実と違う!」と理解しているつもりでも、実際の理想に反映させてしまってたら、説得力がないんです。

「二次元最高」という気持ちはわかります。私もアニメや漫画が大好きです。最近、好きなキャラクターや作品を「尊い」と言ったりしますが、あれすごく良い言葉だと思います。今まではフィクションに対しても現実を反映して、「あのキャラを犯したい」とか、性別関係なく消費するような発言が多かったと思うんですが、この「尊い」という言葉は、逆です。好きなキャラクターや作品を尊重している、だからこそ「尊い」んだと思うんです。良い言葉です。

「二次元最高」には同意しますが、「三次元はクソ」には同意できかねます。だって、フィクションと現実は違うものですから、比べるものじゃないです。現実には、色んな女性もいれば、色んな男性もいます。でも本質として、性別なんてただの括りにしか過ぎないんです。結局はみんな「人間」です。良い人もいれば、悪い人もいる。合う人もいれば、合わない人もいる。それを一概に「女はこうだ」「男はこうだ」と決めつけてしまっては、見えるものも見えてこない気がするんですよね。

私は、今の夫に会うまで「男なんてクソ」と思っていましたし、解毒するまで「現実はクソ」だと思っていました。今もひどいニュースを見たら現実ひどいと嘆いていますけど、思い込んで絶望してる限り希望なんて生まれないので、私は何度でも立ち上がるし、何度でも声を上げます。もう性別や年齢を理由にレッテルを貼りたくない。現実はクソだから仕方ないと諦めたくないんです。

なので私は、男性が~女性が~と言いたくないのですが、「三次元はクソ」と発言する女性は、不思議とあまり見たことがありません。「ただしイケメン・美女に限る」も一部の男性の間で常識のように言われていますが、正直、女性にしろ男性にしろそこまで容姿を気にしないと思っています。「男性は女性に容姿を求め、女性は男性に経済力を求める」という通説がありますが、それの悪影響なんじゃないかと思ったりしています。といっても影響を受けているのは一部の人で、二次元と三次元を同一視しているのも一部の人だと思います。多くの人はフィクションの理想を現実に持ち込んでいないと思っています。



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フィクションの影響と、性知識のことを主に書きましたが、このあたりを題材にした漫画の構想を今練っています。ゆがみちゃんを描き終えたら描きたいと思っていましたが、読み切りとして掲載するのもアリかなーと思っています。

構想している漫画の1つは、性教育漫画です。といっても、克明な描写は一切ありません。何といっても私がそういう絵を描けませんから。でも性教育には克明な描写は必要ないと私は思っていますので、「ゆがみちゃん」みたいな、淡々としていて、プラスゆるいギャグみたいな漫画を描こうと思っています。

もう1つは、加害者と被害者の中身が入れ替わる漫画です。中身が変わる話は昔から王道ですが、全く立場の違う人の中身が入れ替わると、視野が変わって面白いかなと考えています。例えば、痴漢と被害者の中身が入れ替わったり、モラハラ社長と社畜の部下が入れ替わったり、うまくいってない家庭の夫婦の中身が入れ替わったりして、考える系の漫画にしたいです。

加害者が被害者の立場になったらどう考えるか。悪事をどう認識して反省していくか、みたいな。スカッ!とする内容が理想です。



悪事をした言い訳の常套句に、「悪気は無かった」というものがありますが、「悪気が無かった」としても、結局他者を侵害して不快にしているならば、「精神の発達が何かに阻まれ未熟な状態」なのだと私は思います。過去の私がその状態でしたが、やはりその背景にあるものは「抑圧された縦社会」です。

健全な精神の成長を阻むのは、抑圧された縦社会で蔓延した「誰かの価値観」です。人は何かしらに影響されて「自分の価値観」を築きますが、だいたいの場合はそれは何かのコピーなんです。その何かとは、フィクションだったり、親、教師、友人、世間、社会、メディア…といったものに影響されています。

今信じている「常識」は、本当に正しいのかどうか。「絶対的に正しい」ものはないと私は思っていますが、「論理的に考えて正しいと判断できるもの」は存在すると思っています。風習だから正しい、昔からそうだったから正しい、みんながやってるから正しい、そう「思い込んでいるだけ」かもしれません。


物事の正当性を他者や世間に委ねるのではなく、思考停止を解除してより良い価値観を構築し、社会をもっとより良い環境へ変化できるように、これからも私は文章を書き続けます。例え、地味で全く意味のないバカみたいな活動だと誰かに言われたとしても。









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