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VTuber の活動を作品として扱うということ

可能なんでしょうか。

バーチャル YouTuber の動画を面白い、斬新、可愛い、エモい、バーチャルならでは(?)みたいな形で褒め褒めすることを我々はやってきたのですが(やってきたか?)それってどこまで突き詰めることができるでしょうか。

バーチャル YouTuber の動画はどのように評価することができるのか。バーチャル(実質)YouTuber の動画は(アクチュアル・実際)YouTuber の模倣した形式、少なくともスタート地点はそこと考えられます。固定カメラに語りかけるシンプルな構成も YouTuber を模倣しているからこそといえます。

形式はとても大事な要素です。『リング』に登場する呪いのビデオの映像はビデオ特有の汚れ方をしています。この汚れ方をスマホやパソコンのモニターに持ってきてもリアリティは演出できません。『search/サーチ』はパソコンで視聴するからこそ、モニターを通してインターネットで起きる出来事のリアリティが表現されます。

では Youtuber の動画とは。ここについて書かれたまとまった文章を浅学ゆえ存じ上げないのですが、一種のリアリティショーと位置づけると妥当な気がします。あいのりやテラスハウスを観るように、我々は彼らの振る舞いをフィクションではなく現実のものと受け取ります。たとえそこにヤラセやカメラを意識したような感情の動きがあろうと、我々は彼らに感情移入し共感し、自分の感情を代弁してもらったかのような気分になります。ゲーム実況もそのような構造にあります。

あるいはそれは第四の壁を越えてこちらに語りかける形式とも言えるかもしれません。バーチャル YouTuber のアバターは実体を持たず、しかしカメラを通してこちらに語りかけてきます。演劇の登場人物が客席に語りかけるような振る舞いです。

バーチャル / アクチュアル問わず、彼らはカメラに語りかける。それはフィクションであれば特徴的な行為です。『ファイトクラブ』でのタイラー・ダーデンがこちらを煽るセリフなどは、通常では考えられない振る舞いだからこそ作品を象徴するメッセージになりえます。古畑任三郎のように作品の前に語りが入ることによって「そのように鑑賞してください」という彼の事件への態度が示され、我々はそれに従います。

しかし YouTuber はカメラに語りかけるのがデフォルトです。だからこそ、カメラが意識から外れたかのような言動がむしろ印象強く残ります。

3D モデルが動くという点では他の 3D アニメ作品と比較し、何が違うのかを検討できるかもしれません。

動画に限らずインターネット上に人格を表現する試みとして捉えるなら、デッドプールの映画アカウントやニンジャスレイヤーのザ・ヴァーティゴ=サンのような、フィクションから飛び出し現実にいる我々と交流をしつつ作品の中でも活躍するキャラクター群が比較対象になるでしょう。

あるいは彼らの語り方のどこに面白みがあるのか、なぜ我々はそれを面白いと感じるのかを探るのも良いかもしれません。

さて、では実際に動画や Twitter アカウントを挙げて当てはめてみましょう。そのような行いこそが、価値を外に開くのですから。動画のサムネイルやタイトル、テロップといった編集の形式、彼らの振る舞いやキャプチャーのブレ、企画内容や Twitter 上の言動といったものが我々にどのような影響を与え、どのように鑑賞されているのか……とやっても良いんですが、長いので別でやります。

というよりも、重要なのはてぇてぇやエモいだなんだという人の関係性に重きをおいた評価をする以外ないじゃんね、そらねみたいな現状だったりします。人格とは別のテーマとかストーリーラインとかあったとして、活動を通じて多くの人が読み取れるような状況になってるのって有名所でどれくらい居るんでしょう。銀河アリスか。おったわ。

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