指先に触れるもの 13

 彼の指に付着したそれは、血。慌てて周囲に視線を走らせた彼が見たものは、半ば原形を失くした人の残骸だった。
 途端、風に浚われるように濃霧が晴れ視界が開けていく。それは呼吸いくつ分、という程度の随分と短い間の出来事だった。
 晴れた彼の視界に広がったもの。それは幾度となく夢に見、魘され続けた戦場の光景そのものだった。
 同時に音が、臭いが彼を圧迫する。肌に触れる土煙の空気が痛いくらいに肌を刺し、腹
の底から湧き上がる恐怖が身動きを封じた。
 怒号が、悲鳴が、呻き声が……その場に溢れかえり、彼を恐慌状態に突き落とす。
 すぐ傍に砲弾が着弾した。周囲の樹木よりも高く上がった土の柱が、彼の上にも湿った土を降らせる。
 逃げ惑う幾人かの旧日本軍兵士がそれに巻き込まれ、ばらばらになった体の破片が彼の上にも雨のように降り掛かった。辺りはたった一発の砲弾で血と泥の海に変わる。
 腰を抜かし、動けなくなった彼の背後から複数の殺気立った足音が近付いてきた。
 何事か叫び交わす声とほぼ同時に、銃弾の雨が撃ち込まれる。彼のすぐ脇にもいくつかの弾が着弾した。鋭く跳ねる土が彼に更なる恐怖を与える。複数の断末魔の悲鳴が彼の耳を鋭く突いた。応戦する銃声は、ない。
 それに対して頭を抱えることしかできない彼はきつく目を閉じ、耳を塞ぎ自らの体を弾が貫かないよう祈ることしかできなかった。逃げ惑ういくつもの足音を追うように、更に銃弾の雨が彼を掠めるように降る。
 それはあまりにも一方的な虐殺だった。
 抵抗するだけの武器も弾薬もなく、乱れた指揮系統下で逃げ惑う旧日本軍兵士に向けて敵兵は容赦なく銃を向ける。あまりにも簡単に引かれた引き金は、投げつけられる手榴弾は、それ以上に簡単に人の命を奪い原形を失わせた。
 胸の悪くなるような臭いがあたりに立ち込め、微かな呻きが至近距離から発砲される銃弾に沈黙を強要される。
 ここは、人が人である為の最低限のルールが存在しない場所だった。抗う術のない者は一方的にその命を奪われ、僅かながら抗う術のある者でさえも極限の死の恐怖に支配されたままその命を奪われる。
 敵味方合わせ、どれ程の命が散ったのか。彼の周囲に留まらず見渡せる限りの視界は血と、人であったものの成れの果てが地表を覆い汚れた赤い絨毯に塗り替えられていった。
 やがて銃声と砲撃の轟音以外はなにもない場所に取り残された彼は、ただ震えて全ての事が決するのを待つことしかできないのだった。

   16

 視界が突然切り替わった。なんの前触れもないその転換に、泰之は戸惑いながらも周囲を見回す。先程までいた虐殺の戦場は跡形もなく消え、どこか埃臭い古い家並みが視界に広がっていた。
 その視界に安堵の溜め息を落とせば、彼を捕らえて離さなかった恐怖が少しずつ抜けていく。きつく目を瞑っていた所為か幾分痛むこめかみを揉み解し、彼はゆっくりとその場に立ち上がった。
 どこからか合唱のような万歳三唱が聞こえてくる。その合唱の出所を求めて、泰之はもう一度周囲を見回した。はじめに周囲を見回した時には気付かなかった路地の向こうからその合唱は聞こえてくる。声のする方へ数歩進み、彼はある種の嫌悪感から足を止めた。
 誇らしげに繰り返される万歳三唱。
 集まった老若男女の振る手旗。
 彼らの中心で凛と立つ軍服姿の男。
 その傍らには嬉しそうに涙ぐむ、男の両親と嫁らしき者達の姿。
 どう見てもそれは、彼が映画や教科書の中でしか知らない出征のその現場だった。家族、近所総出で男の出征を祝っている。その先に待つ現実を知らないが故に、人々は純粋にそれが誉れへの門出と祝っているのだ。
 これが一体昭和何年のことなのか、泰之にはわからない。いや、何年の出来事であったとしても彼はその先に待つ事実を知っているのだ。そして誇らしげに合唱する彼らはその現実を知らない。
 たったそれだけの違いが、泰之と彼らの間に大きな違いを作っていた。国という大きな乗り物の舵を取る人間の考え次第で、メディアというスピーカーの立ち回り方次第で、全てが変わっていく。

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