指先に触れるもの 16

   19

 泰之が慌しく身支度を整えていた頃。幸恵はロビーに置かれたソファに座り、どこかぼんやりとした視線を外へと投げていた。
 その目にあるのは、どこか張り詰めたような色と不安。今にも涙が目に浮かび、その白い頬を零れ落ちるのではないか、と思わせる悼みの気配が彼女を包んでいた。
(やはり、不躾だったのでしょうね………)
 昨夜、第二次大戦の史跡へ行きたいと告げた後に泰之が見せた表情が、彼女の中で申し訳なさに変わる。泰之自身は、彼女がそういったものに興味を持っているとは思わなかったと言ってはいた。しかし実際には彼自身、あまり気乗りがしなかったのではないかと思えてならない。
 いくら泰之から申し出てくれたこととはいえ、もう少し彼への配慮が必要だったのではないか、と今更のように幸恵は溜め息を落とした。
(………せめて、ご迷惑になってしまったのなら謝らなければ)
 胸中へと言葉を落とし、彼女は燦々と陽の光が降りそそぐ外へと微かな溜め息を漏らした。

   20

 タイミングよく掴まえたエレベーターに飛び乗った泰之は、一階までの僅かな時間にも苛立ちを募らせながら落ち着きなく腕を組む。
 昨夜の時点で彼の中に恐怖しか呼び起こさなかった第二次大戦の史跡とはいえ、その感情をストレートに顔に出してしまっていた。それは幸恵に対して随分と失礼な話しではないのか。先に申し出たのは泰之だ。それをあのような形で表せば幸恵でなくとも嫌な気分になることは想像に易い。
「なにやってたんだ、俺は………」
 声に出して呟き、幸い寝癖にならずに済んだ前髪を乱雑に掻き上げた。
 今でも夢の内容は気に掛かることではあるが、昨日までのような恐怖心は随分と薄らいでいる。あれが全て、孝造が夢という形で泰之に伝えたいことがあったからだとするならば、受け止めなければならないと素直に思えた。
 ただ、夢の最後で孝造の告げた言葉が気になる。連れてきて欲しいと言っていた「あの人」が誰なのか、どれ程考えてもわからないのだ。
 あの夢をきっかけに今、こうしてサイパンの地を訪れているが泰之に同行者はいない。孝造の知り合いでこの地に住んでいるような人物でもいるのだろうか。そんな話しは生前、聞いた覚えはなかった。
(じいさん………本当に俺で良いのか?)
 確かめるように彼が胸中に言葉を落としたところで、エレベーターの扉が開く。ゆっくりと広がる視界に一度頭を振った。意識に触れる迷いを振り切るように、彼は未だに幸恵が待っているかもしれないロビーへ向けて足を踏み出した。

   21

 小走りに辿り着いたロビーへ視線を走らせた泰之は、丁度ソファから立ち上がる幸恵の姿を見つけ慌てた。彼女からすれば、待ち惚けもいいところだろう。昨夜の彼の行動も加えて考えれば、腹を立てていてもおかしくはなかった。
 更に足を速めて幸恵の元へ向かった泰之は、その勢いのままに頭を下げる。
「お待たせしてすみません! 本当にすみませんでした!」
 驚いた顔で頭を下げる泰之を振り返った幸恵は、しかしすぐに笑みを浮かべた。緩く首を振り、安堵したように吐息を零す。
「いいえ、ありがとうございます。ご迷惑になってしまったのではないかと、私の方こそ
謝らなければならないと思っていました」
 幸恵の言葉に、泰之は勢い良く首を振った。
「迷惑だなんて、全然、思ってませんから! 俺から言い出したのに昨夜はあんな反応して、しかも今日はこんな時間まで堀本さんを待たせて……。本当にすみませんでした!」
 再度頭を下げた彼の肩にそっと手を伸ばし、彼女は笑みを深くする。
「いいえ。来ていただけただけで嬉しいですから。それより、お食事まだですよね? ホテルの食事はどこも終わってしまったようですけど………。どうなさいますか?」
「あ、………と。そしたら、途中で食べても良いですか?」
 幸恵の言葉に安堵と申し訳なさを感じながら、泰之は朝食を抜いても構わないと頭の隅に考えた。昨日の様子からするに、どの史跡も夕方にはすっかり人の気配が絶え、ひどく寒々しい印象がある。儚い印象の強い幸恵をそのような時間帯に案内するのは気の引けるものがあった。

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