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人を無責任に焚き付ける

人を無責任に焚き付けることが、正しいことだと信じて止みません。

先日もアクの強そうな若者を褒めちぎって焚き付けました。なんというか、アクの強さを垣間見せてくれるとそれがつい嬉しくなってしまい、焚き付けてしまうのです。

是非アクの強さを存分に吹き出しながら、失敗と成功を繰り返して欲しいなと思います。

なぜ、人をそのように焚き付けるのかいいますと、時間を縮めることが自分のやるべきことだと思っているからです。

私は自分がプロダクトやサービスの運命を変えられるとはあまり思っていません。プロダクトやサービスはある仮説に基いて作られたものであるわけですが、それが仮説の域を出ないものであることは確かです。沢山の前提条件に支えられているものです。

その前提が成立しているのかどうかは、検証を経ないと分かりません。もちろん、検証のコストは安くあがるに越したことはありませんが。

また、同じように人を雇うときも数回の面接を経てもその人が成功するか失敗するかなど分かりません。その人の成功もいくつもの前提に支えられています。

それならば、その人の本来の性質をなるべく早く引き出して、さっさと成功なり失敗なりさせてしまったほうがよいと思っています。

成功も失敗も仮説の検証に過ぎないなら、検証にかかる時間は短いほどよいはずです。本人も周りも次の仮説の検証に移れますから。

ビジネスの実践は仮説の検証プロセスだと言えなくもありません。最初にはそのプロダクトやサービスの価値を証明するための仮説の検証プロセスであり、そのあとにはその価値の発揮をより多くのTPOに展開していくための仮説の検証プロセスとなるはずです。

しかし、そもそもの仮説は何処から出てくるのでしょう。

それは、人の意志だと思います。それは、不可能なことを可能だと信じ込むことが、仮説を生む前提になっているはずです。そして、その意志はとても不合理なものです。損得で言ったら、損な事です。

得したければ、可能そうなことを可能にするプロセスに落とし込む作業をしていた方が、合理性は高いし、損得でも得になるはずです。

人を仮説の検証プロセスに落とし込んでその成否を見るのは大変結構なのですが、ビジネスの大元のところに宿る意志が不合理で損なものだとするならば、人に向き合うその態度が不合理なものであったって別にいいじゃないかとも思うわけです。

つまり、その人を焚き付けて、なるべく早く本性を明らかにさせ、成功と失敗のサイクルを早く廻すのは本人にも周りにも合理的なことであるとして、それ以上に、その人のためにも周りのためにならないような、不可能を可能なものと信じ込むような、人への向き合い方があってもいいんじゃないか、と思うのです。


写真は中国、杭州でのプロサッカーの試合です。試合中に激しいスコールに襲われる、全く新しい観戦体験でした。

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